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◇ ◇
不本意ながら、将嗣と実家に行く約束の日が来てしまった。
大人なので、約束をした以上はきちんと対応するのが筋である。
「夏希、準備出来ている?」
玄関を開けるなり、将嗣がソワソワと落ち着かない様子で声を掛けて来る。
私が、将嗣の実家に行きたくないとごねたから、心配だったのだろう。
「おはよう。準備出来ているよ。そこに置いてあるし」
部屋の端に置かれた準備万端の荷物を見て、将嗣はホッとした表情に変わる。
「おはよう。じゃあ、これ車に積むからな」
「よろしく。あと、これも……ご両親に」
菓子折りが入ったデパートの紙袋を手渡した。
「そんな気を使わなくってもいいのに……」
「たいしたものじゃないから」
と、言っても超有名なほらぎ屋の羊かんだ。とりあえず、誰にあげても失礼にあたらない物を選んだのだ。
「ありがとう」
将嗣の車の後部座席にあるチャイルドシートに美優を座らせ、私はその横に座る。将嗣のポジションはもちろん運転手さんだ。
「混んで居なきゃ、1時間ぐらいで着くと思うよ」
「うん、安全運転でお願いします」
「じゃあ、出発」
滑らかに走り出した車は、東名高速に乗り、小田原厚木道路に入る。小田原東で降り、酒匂川を渡れば、海が近づいて来る。
「小田原って、あまり来たことが無かったんだけど、意外と近いんだね」
「漁港で、新鮮な海の幸も食べれるし、練り物も美味しいんだ」
「わぁー。海が見えてきた」
「まだ、時間に余裕があるし、ちょっと寄っていくか?」
「いいの?」
ウインカーを立てた車は、海岸沿いの駐車場へ滑り込む。
車から降り立ち、手すりの向こうに相模湾が広がり、海から吹く爽やかな潮風が肌を撫でる。
「美優、海だよ。初めて見るよね。すごい広いね」
「そうかー。美優ちゃんは、海を見るの初めてか」
「私も海に来たのは、すごい久しぶり」
「……付き合っている時は、連れて来なかったもんな……ごめん」
付き合っていた当時、将嗣は結婚していたのに独身と偽っていた。
地元の海になど、誰に会うかもわからない。そんな場所に、妻ではない恋人を連れて来れるはずも無かったのだ。
その事に気づいた私は、将嗣を真っすぐに見る事が出来なくて、水平線を見つめたままポソリとつぶやいた。
「そうか、そうだよね」
「ごめん」
「昔……私の父は浮気しててね。母がいつも泣いていたの。二人は自分の事で忙しくて、子供の私にはあんまり関心が無かったみたい。それで、いつも寂しかったんだ。そんな両親が皮肉にも事故で一緒に亡くなって、結局、私はひとりになったんだけど……。誰かと居て寂しい思いをするぐらいなら一人でいい。私は、私だけを愛してくれる人がいいの。好きな人を誰かと共有する事なんてできないの。だから、恋人同士だと思っていた将嗣の関係が不倫だったのがわかって、本当に辛かった」
「あの時の事は、いくら謝っても足りないと思う。でも、夏希に対しての気持ちは本気なんだ。美優ちゃんを産んでくれた事も本当に感謝している」
「将嗣が思ってくれる気持ちは嬉しいよ。でも……将嗣と別れた時にいっぱい泣いて、気持ちをリセットして……。それをもう一度って考えると……うまく言えないけど、心がモヤモヤして」
将嗣は、手すりに手を掛け、うつむいた。
「ごめん、そうだよな。夏希にしてみれば、既婚者だったのを知らされないまま付き合っていたんだから、結婚詐欺に遭ったようなもんだよな」
将嗣の意外な言葉に、キョトンと目を見開いた。
そして、なんだか沸々と笑いがこみ上げてくる。
「あはは、結婚詐欺なんて、考えたことも無かった。そっか、私は将嗣に詐欺られたのかー」
「だって、20代の後半なんて結婚適齢期で、その貴重な時間を俺のために使わせて」
「うん、言われてみるとそうだね。確かにひどいや」
「ごめん」
「将嗣、さっきから謝ってばっかりだね。でも、将嗣と付き合ったの悪いことばかりじゃなかったよ。ほら、この通り、可愛い娘も授かったわけだし」
そう言って、笑う私の方を見た将嗣は、眩しそうに目を細めた。
「なあ、夏希、……今、幸せか?」
「そうね、幸せだよ」
「そうか……」
将嗣は、それ以上の事は何も言わなかった。
しばらくの間、秋の日差しにキラキラ光るおだやかな海を眺めていた。
寄せては返す波の音が、子守歌のようで、美優はスヤスヤと腕の中で眠っている。