テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
残暑に秋の訪れを感じる日。会社の帰り道の公園で、ベンチに二人で腰掛ける
何かを企んでいるような顔で、ロシアさんが持ちかけてきた、寄り道の提案
近い距離の間には、優しく絡めあった指
隣に座る彼は静かに、僕を見て微笑んだ
「涼しくなってきたな。もう手を繋いでも、暑くない」
「ふふ、そうですね」
――付き合い始めた三年前は、この時期でも暑かったのに
手の温もりに季節の変化を感じるたび、僕たちが少しずつ、寄り添う距離を縮めてきたことを思い出す
最初は戸惑いだらけだった日々も、今ではただ、こうして並んでいるだけで落ち着くようになった
言葉がやんで、心地よい静寂が場を包む
その時、唐突に彼は、僕に一輪のバラを差し出してきた
「……これ、俺から」
深紅に咲き誇るその花は、棘がすべて取り除かれていて、触れた指に痛みはない
理由は告げられなかった
でも、理由なんて、なんでもよくて
ただ、“彼がくれた”というだけで、胸がふわっとほどける
僕は、迷わず「ありがとうございます」と微笑んだ
それからの日々、ロシアさんは毎日、バラを一輪ずつ贈ってくるようになった
会社の帰り道、休日の別れ際、たまには早朝に、玄関先で
差し出されるタイミングはまちまちでも、手渡す彼の眼差しは、どこかくすぐったいほどに優しい
意味なんて、きっと大したものじゃない
けれど、僕の胸の奥には、受け取るたびにあたたかい火が灯るのだった
その夜
ひとり静かな部屋のリビングで、僕はふと、テーブルの上に目を留めた
小さな花瓶に挿された、深紅のバラ。今朝、ロシアさんから受け取ったばかりのものだ
まだ咲ききらないその花をそっと見つめ、指先で花びらをなぞってみる
ふわりと立ちのぼる香り
思ったよりも柔らかく、どこか温かい感触がした
「……このまま枯れちゃうのは、少し寂しいな」
今日のことも、彼の笑顔も、この花の色も、何もかもが美しくて
消えてしまうには、惜しい気がして仕方なかった
どうすれば、この想いを、少しでも長く残しておけるだろう……
そう思ったとき、不意に心の中で何かが音を立てて変わった気がした
翌日から、僕は一冊のノートを使い始めた
少し大きい、赤い表紙のノート
バラを受け取るたび、押し花にして、その日の感想や気づいたことを書き留める
いつか見返したとき、あのときの香りやぬくもりを思い出せるように
ページの中に丁寧に挟まれた赤いバラ
棘がないからか、指先で触れるだけで彼のやさしさが伝わってくる気がした
『今日のバラは、深紅。棘はやっぱり取ってありました。
持ちやすくて、ちょっとくすぐったくなるくらい、優しかったです』
文字を書き終えると、ほんのりとバラの香りがページから漂った
ページをめくるたびに、色とりどりのバラが少しずつ積もっていく
そんな、彼からの素敵な、愛の贈り物
……僕は、彼になにか返せているのかな
“ありがとう”。それだけでは足りない気がする
感謝はできても、全部を返せてはいないみたいで
貰ってばっかりは、不平等だし、嫌だ
僕だって、彼になにかしてあげたい
この気持ちが、本当に嬉しいってちゃんと伝えたい
僕の心のように揺れるレースカーテンが、バラにそっと影を重ねた
ある日、ふと思い立って“バラの花言葉”を調べてみた
最初の頃は、毎日赤いバラだった
けれど、気づけばピンク、白、黄色と、色が変わってきていた
そのことに、なにか理由があるのではと思ったからだ
赤は「情熱」、白は「純潔」、ピンクは「感謝」、黄色は「友情」……
知識としては知っていたけれど、こうして並べてみると、どれも彼がくれた色ばかり
まるでその日ごとの、彼の心の温度や想いが、バラに映っているかのよう
色の流れを見ていると、彼の感情の変化が、言葉よりもずっと繊細に伝わってくる気がした
彼は……本当に、意味を知っていて選んでいるんだろうか
考えても分からない。けれど、知りたいと思った
彼の本当の気持ちを、もう少しだけ覗いてみたくなった
ある日、仕事終わりにロシアさんから短いメッセージが届いた
「少しだけ、俺のデスクに寄ってくれないか?」
いつも通りの軽い調子。だけど、僕の胸には、なぜか小さな緊張が走った
少し早足で彼の部屋に向かい、そっとドアを開けると……
「あ……」
彼は気づいていない
窓際のデスクに向かい、なにかをじっと見つめていた
手に持っていたのは、小さなスケジュール帳
ページの一部に、赤ペンで大きな丸がつけられていた
その横に、小さく書かれた一言が目に入る
《展望台》
……なにか、特別な予定でも?
不思議に思いながら見ていると、ロシアさんは指先でその文字をやさしくなぞった
その仕草には、ほんの少しだけ……祈るような色が滲んでいた
「……日本、来てくれてありがとう」
声をかけられ、思考が現実に戻る
ロシアさんは気恥ずかしそうに笑って、デスクの花瓶からバラを取り出した
「今日はこれ。白。お前みたいで可愛いだろ?」
ふわりと香る、優しい白
僕は花を受け取りながら、首をかしげた
「……白は、“純潔”ですよね?」
「へえ。物知りだな、お前」
ロシアさんは笑った。けれど、その目には……ほんの少しだけ、濁ったものが混じっていた
そういえば、最近は赤をもらっていない
気のせいかもしれない。でも――彼の中で、何かが変わってきているのかもしれない
言葉にできない想いを、彼はこうして、バラの色に託しているのだとしたら……
僕を見つめる、あえて真実を隠すような、そんな柔らかい迷いの色
……やっぱり、意味を込めているのかも
じゃあ……あの“展望台”も
僕の中で、まだ繋がらない点と点が、ゆっくりと結ばれていく感覚があった
バラをもらうようになってから、108日目の朝
澄んだ空気に冬の気配が混じる日。僕はロシアさんと約束した通り、デートに出かけた
あの後、「久しぶりに、一緒に出かけないか」と誘われたのだ
彼の時間を貰えるとなれば、断るはずもない
彼と過ごす時間は、いつだって穏やかだ
どこか心の奥に陽だまりをつくってくれる
街を歩き、公園を巡り、カフェで話し、何度も笑った
何気ないやりとりのすべてが、特別な意味を帯びていた
そして…不安そうにポケットを確認する彼がずっと、頭の隅を占領していた
そして夕方。陽が傾く頃、ロシアさんは僕を展望台へと導いた
そこから見えるのは、茜色に染まる街並み
遠くで風がそっと葉を揺らし、時間の流れが静かに緩やかになっていく
彼は、バッグからバラを取り出した
いつもより慎重な手つき。悲痛に深まる眉間の皺
その視線は、花ではなく、まるで“これまで”を見つめるように深く揺れていた
「……日本、今までに贈ったバラの色、覚えてるか?」
「はい。赤、白、ピンク、それから……」
思い出すたびに胸があたたかくなる
だからこそ、自然と声が震えていた
「全部、意味を調べました。あなたの気持ち……ちゃんと、伝わってましたよ」
彼の目が、ふっと見開かれる
それから、ゆっくりと細められて、笑みの奥に安堵が浮かんだ
「じゃあ、今までに贈ったバラの数は?」
「確か……107本ですね」
僕が答えると、ロシアさんは「正解」と静かに微笑む
「そして――これが108本だ」
彼の手から、最後のバラが差し出される。最初と同じ、深紅のバラ
そのすぐあと、もう一つの手が、小さな箱を取り出した
開けられた蓋の中には、プラチナの指輪
夕日に照らされて、そっと輝いていた
「歴史から名が消えるその時まで、日本と一緒にいたい。……俺と結婚してくれ」
強い意志の籠る、真剣な紫の瞳
言葉が終わった瞬間、世界が一瞬だけ静止したような気がした
胸が、痛いくらいにあたたかい
気づけば、涙が零れていた
「……僕も……この長い人生を、ロシアさんと一緒に……」
言葉がうまく続かなかった。けれど、想いは、彼に伝わっていた
彼は目を見開いたあと、安心したように、力強く微笑んだ
僕はそっと彼の手を両手で包む
「喜んで、お受けします」
二人の顔が、朱い夕陽に染まっていた
照れくさそうに、けれど確かに、彼が僕を抱きしめる
「……ああ…俺、今、世界で一番幸せだ」
「この幸せを、ずっと続けていけたら、いいですね」
「そうだな……きっと、日本となら、続けていける」
肩に触れるぬくもりと、胸元に伝わる鼓動
二人の唇が、そっと、自然に重なった
夜。
灯りを落とした部屋の中、ページを閉じた一冊のノートを、僕はそっと胸に抱えた
押し花にした108本のバラと、それに寄せた小さな記録の数々
花の色、香り、手触り。添えられた僕の言葉
毎日ひとつずつ、少しずつ、受け取ってきた愛の軌跡
……彼に渡したい
これはきっと、ただの記録じゃない
ページを重ねていくたびに、僕は気づいていた
自分も、毎日、なにかを贈っていたことに
そして、今日。彼から受け取った108本目のバラと、指輪
その瞬間を綴ることで、このノートはひとつの完成を迎える
そっと立ち上がり、ロシアさんの元へ向かった
「……これを、あなたに渡したいんです」
僕が差し出したノートを、彼は一瞬、戸惑いを含んだ顔で受け取った
指先が震えていた。ゆっくりとページをめくる彼の動きに、僕はじっと視線を注ぐ
「……これは……全部……」
ページの間には、色とりどりのバラが、押し花として美しく並んでいた
一枚一枚に添えられた僕の文字
「ありがとう」や「うれしかった」、時には「今日は少し照れました」など、
その日その日の想いが、小さく丁寧に綴られていた
彼の肩が、かすかに揺れた
「……俺だけが、贈ってると思ってたのに……」
掠れるような声
ノートをそっと閉じ、胸元に抱きしめる
「気づけば、毎日、お前にもらってたんだな」
「………ありがとう。大切にする」
言葉の代わりに、僕は微笑んでうなずいた
その瞬間、ロシアさんの腕がふわりと伸びてきて、僕の肩をそっと引き寄せた
あたたかくて、大きくて、どこか泣きたいようなぬくもり
「これからは、二人でこのノートを作っていかないか?」
「……999ページ。この愛が、永遠だと証明するために」
思わず、くすりと笑みがこぼれる
「ナイスアイデア、ですね」
寄り添うふたりの間に、静かな約束が結ばれた
僕は、新しいページをそっと開いた
残り891ページ。そこに、まだ押し花はない
けれど、真っさらなページはもう、確かに満たされていた
ロシアさんが、自分のために選ぶ次の一本は、どんな色だろう
どんな想いを込めてくれるのだろう
そして、自分はそのバラに、どんな言葉を添えるのだろう
そのすべてが、楽しみだった
たとえ未来がどんな姿をしていても、
きっとこの先も、バラは咲き続ける
彼の手のひらから、僕の胸の奥へと
そして、二人だけのページの上へと――
あと、891日
999本のバラを、君に贈ろう
“何度生まれ変わっても、君を愛する”と誓うために。
コメント
6件
バラの本数とふたりの日数かけるとか天才ですか!? 言葉で伝え合うよりも通じ合うの最高ですね! ふたりの繊細な気持ちのやり取りがかわいすぎました…… しばらくニマニマしながら放心しておきます🫡
わ~!!!僕の大好きな露日だッッ!!読んでいるこちらもあたたかい気持になるロシアの優しさ、解釈一致過ぎます🙇