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翌朝は昨日よりも一段と冷え込む朝になり、心の余裕が出来ていない内に寒くなった事への不満を盛大に並べ立てるリオンの横を微苦笑を浮かべつつウーヴェが歩いていた。
二人が向かっているのはウーヴェのクリニックがある街の中心部で、クリニックの事務全般を引き受けてくれているリア・オルガとよく出かけてはランチを食べるカフェがあることをウーヴェが告げた為、そこに行きたいと白い息を吐きながらリオンが宣ったからだった。
昨夜の不可解な落ち込みから復活したらしいリオンが当たり前のようになっている笑みを浮かべてウーヴェにその店のオススメ料理を聞いたり、目の前に料理が並んでいるのを思い描いていて今にも涎を垂らしそうな顔でうっとりと料理について話をしたりしているが、そんな恋人の様子にただウーヴェは安堵に胸を撫で下ろすだけで特に思いを口にすることはなかった。
昨夜友人にも告げたが、リオンの実家である孤児院に一時期暮らしていた少女が命を落とす事件があり、その事件に関連してか気分が引きずられてしまってなのかは分からないが、あの日以来リオンが自ら告げたように一人きりになる事を前にも増して嫌悪するようになっていたのだ。
一過性のものならばウーヴェとしてもただ見守り続けるつもりでいたが、実際はそれがリオンの心の裡に深く太い根を張っているものである事も察していて、今表面化しているまるで幼児退行したような言動は、太く大きく成長した根が地表に顔を出しただけである事も感じ取っていた。
不安を糧に成長するそれを何とか押し止めたいと思いつつも、おそらくリオン自身も気付いていないものをどうやって伝えるべきかをウーヴェは一人きりになればついつい考え込んでしまっていた。
同じ早さで歩くリオンをちらりと窺えば、一見すれば悩みなど全く抱えていない様な顔で鼻歌を歌い、今日は何を食って一日元気に過ごそうかと口の端を持ち上げている程だった。
とにかく今は不安の芽も殻に閉じこもっている事に小さく溜息を零したウーヴェは、店のドアを開けてお決まりのテーブルに途中の員ビスで購入した新聞を置き、顔馴染みの店員におはようとあいさつを交わしながら背後の黒板のメニューからクラブハウスサンドとカフェオレをリオンのために注文し、ちらりと隣を見ればリオンが煙草を取り出しているが、目の前にいるのが誰であるのか、またここがどこであるのかを思い出した顔で煙草を戻す。
「気にしなくても良いぞ。タバコを吸うなら外の席に行くか?」
「ダン、オーヴェ。でも今は要らない」
「そうか」
リオンが煙草を吸うことにいい顔をしない訳ではないし、また咎める事もないウーヴェだったが、自分はホットサンドとカフェオレを注文する。
いつもの席で壁際にリオンが腰を下ろし、その向かいで店内に背中を向けるように座ったウーヴェは、両肘をついて前屈みになりながら店内をぐるりと見渡す顔に苦笑を深め、何か気になることでもあるのかと問い掛けて己も肩越しに振り返ってみるが別段気になるような存在が店内にあるわけではなく、いつものようにそこそこの人がテーブルに座って朝食を食べていたり新聞を読みながらコーヒーを飲んだりしている姿があるだけだった。
「リオン」
「ん?」
視線が店内を一巡りした頃を見計らってそっと名前を呼んだウーヴェは、顔ではなく視線だけが己へ向いた事に微苦笑を浮かべながらも昨日は本当に何も無かったのかと問いかけてテーブルの上で手を組む。
「・・・・・・ノーラのさ、自分の娘を庇うことも出来なかった母親がいただろ?」
「ああ、父親にまだ頭が上がらない印象を受けた人のことだな」
昨夜のあの沈みようが尋常ではない事をしっかりと見抜き、今は殻の中に閉じこもっている不安がいつ何時顔を出すかも分からない危惧から問いかけたウーヴェが己の想像が間違っていなかったことに気付いて伏し目がちになると、組んだ手に大きな掌がそっと覆い被さるが、その手の持ち主の心の一端を垣間見せるように微かに震えていて、窺うように顔を上げればそこには無表情のリオンの顔があり、微かに息を飲んでしまう。
「────自分の両親を殺したって」
「そ、う・・・なのか?」
「うん。弁護士が家で遺書を発見したってマザーに教えて貰った」
「遺書?」
おうむ返しに問いかけたウーヴェに対してではないだろうが、滅多に見ない凍てついた太陽を想像させる笑みを浮かべたリオンがひょいと肩を竦め、首を吊ったと短く答えてウーヴェの目をきつく閉ざさせてしまう。
「本当はノーラを引き取りたかったとか後悔してるとか書いてたみたいだな。そう思ってたのなら生きてる間に実行すればいいじゃねぇか」
死んでからそんな言葉を並べ立て、その妨げになっていた両親を殺して自らも命を絶ったとしてもノーラは帰って来ないのだ。死んだところで何になると冷たく笑うリオンに何も言えなかったウーヴェは、今度はリオンの手に手を重ねてきつく目を閉じるが、注文したものを運んできた店員が怪訝な顔で見つめてきたことに気付きそっと手を離すと同時に誰にも見えない場所で繋がろうと思い、リオンの靴の先を己の左足で軽くノックすると同じ回数のノックが返される。
「・・・・・・そうか」
「それを聞いたらさ、何かすげーオーヴェに逢いたくなった。一人でいることが・・・怖くなった」
何故そんな恐怖を抱いてしまったのかを自分でも理解出来ないが、とにかく恐怖が次から次へとこみ上げてきて仕方がなかったことを告白し、もう一度肩を竦めたリオンだったが、一瞬にして表情を切り替えるとクラブハウスサンドを両手で持ってかぶりつく。
朝食を前にして相応しい会話ではないことに気付いて苦笑し、ホットサンドを同じようにかぶりついたウーヴェは、それでも気になる為にリオンの靴の先に靴の先を押し当てていると、クラブハウスサンドの向こうで青い眼が感謝と情に細められる。
「ダンケ、オーヴェ」
「・・・・・・ホームに戻らなくても良いのか?」
「うん。戻っても多分・・・またマザーやゾフィーを怒らせるようなことを言うかも知れないから、行かないことにしてる」
「・・・そうか」
「な、オーヴェ、そのホットサンドさ、一口ちょうだい」
気分を切り替えるように笑顔を浮かべつつウーヴェの皿に載っているホットサンドを指し示すリオンに瞬きで答えた彼は、代わりにこれを貰うと言ってくし形に切られているリンゴをフォークで突き刺して奪い取っていく。
「あ、楽しみにとってたリンゴ!」
「ホットサンドと交換だ」
自分だけが良い思いをするなんて許さないぞと目を光らせるウーヴェにリオンが無言で肩を竦めるが、差し出されたホットサンドを無造作に掴んでかぶりつくと、クラブハウスもホットも捨てがたいと子どものような笑みを浮かべて大きく頷く。
やっと見ることの出来たいつもの笑顔にウーヴェも無意識に安堵し、今日は仕事が終わればクリニックに寄るのかと問い掛けてもちろんと答えられ、もう一度爪先をノックするとリオンの口の端が嬉しそうに上を向く。
「今日も頑張って働いてくるかー」
「そうだな・・・お前達が頑張ってくれているから街は平和だな」
「そうそう。俺たちが頑張ってるからだぜ」
己の職業に自負を抱き、その自尊心を擽られるような言葉を愛する人から告げられた歓喜に舞い上がりそうになるリオンにウーヴェがくすりと一つ笑みを零し、煙草を取り出す恋人に頬杖をつく。
「ん?どうした、オーヴェ?」
「食後の煙草は味が違うのか?」
「んー・・・そんな事を考えるよりも先に煙草を吸ってたから良くわかんねぇ」
「こら」
「や、もう時効だって!」
リオンが初めて煙草を吸ったのは10歳か12歳だと聞かされたことがあったが、改めて本人の口から告白されるとつい咎めるように見つめてしまい、リオンの上がっていた口角が情けない角度になって下がってしまうだけではなく、眉尻まで情けなさを現すように下がってしまって知らず知らずのうちに笑い出してしまう。
「あ、笑うなよ、オーヴェっ!」
「・・・情けない顔をするからだろう?」
「人のせいにするし!」
テーブルに拳を押しつけて睨み付けてくるリオンを上目遣いで見つめた後、悪かったと全く思っていない癖にとすぐに否定される謝罪をするが、その時のリオンの表情がいつも二人でいる時に見せるものと全く変わらないことに心底安堵し、そっと名前を呼べば蒼い双眸が答えるようにパチパチと瞬きをする。
「大丈夫だな?」
「・・・ダンケ、オーヴェ」
「ああ」
短い言葉で互いの思いを伝えあって満足すると、どちらからともなく立ち上がってウーヴェがトレイを下げようとするが、難なくそれを奪い取ってカウンターに置きに行ったリオンは、その際にもう一度何かを確認するように店内をぐるりと見渡し、ウーヴェから苦笑されてしまう。
「さっきからどうした。何か気になるのか?」
「んー・・・誰かに見られてるような気がしたんだけど、気のせいかな」
「自意識過剰だな」
顔馴染みの店員に会釈をしながらドアを開けるウーヴェの言葉にヒドイと憤慨するフリをしたリオンは、己の勘を確かめるようにもう一度背後に視線を向け、一番奥のテーブルにいた客がそれとなく視線を避けたことに気付いて目を細める。
「・・・自意識過剰じゃないけどさ、勘違いだったかも」
ドアの外で待っているウーヴェに肩を竦めてサングラスを取り出して掛けると、ウーヴェの右手をそっと掴んで顔に引き寄せる。
「・・・リオン」
「うん。────行って来るな、オーヴェ」
その行為が意味することを折に触れ二人で密かに確認しあったり言葉に出さずに感じ取ったりしていたが、先日リオンが心に深い傷を負ってから仕事に出掛ける前にはどちらからともなく右手薬指の根元に口付けるようになっていたのだ。
その行為を家ではなく人通りのある外でもするようになってきたリオンに止めろと強く言えずただ苦笑でそれを受け止めたウーヴェは、今は同じことを出来ないとターコイズ色の双眸を曇らせるが、代わりにこれが精一杯だと言うように腰を一つ拳で叩く。
「気をつけて行って来い」
「お前も、オーヴェ」
「ああ」
ここからウーヴェのクリニックには少し歩くだけで到着するが、リオンはまだもう少し先に行かなければならない為に手を挙げて別れ、リオンはポケットに再度突っ込んでいたタバコを取り出してジッポーで火をつけ、そんなリオンの背中を少しだけ長く見送ったウーヴェがクリニックに受けて歩き出し、通勤客や観光客が地下鉄の階段を昇ってくる人並みに紛れるように職場に向かうのだった。
たった今己が見た光景が信じられずに目を瞠って二人の姿を呆然と見送ったのは、昨夜より少しだけ日焼けした肌が落ち着きを取り戻したようなオイゲンだった。
読みやすいように折りたたんだ新聞を膝に置いていたが、その上にサンドの具が落ちた事にも気付かないほど衝撃を受けた彼は、そんなまさかと呟いて我に返って頭を激しく振る。
昨夜、ウーヴェと別れた後に自宅に帰るなり甲高い声で怒鳴り散らす妻と口論になり、山や友人から得ていた心の清涼感が一瞬で吹き飛び、あなたは山のことか仕事のことしか考えていないと泣く妻をその場に残して家を飛び出して何時間か前に別れた叔父の家に転がり込んだのだ。
物心ついた頃より何かと可愛がってくれている、気楽な独身貴族を満喫している叔父の家では独身男性のキッチン事情など余程自炊が趣味でもない限りはロクな食べ物も無く、また二人揃ってマッターホルンから帰ってきたばかりのために更に朝食になりそうな食材は皆無だった。
その為に今朝はふらりと叔父の家からも近く街の中心部にあるカフェに入ったのだが、まさかここにウーヴェが来るとは思わなかった。
しかもウーヴェは一人ではなく、同年代なのか年下なのかが一見するだけでは判断出来ない男と一緒で、彼がいるテーブルからでは人の背中や観葉植物の陰になって見えない席に座っていたが、緑のカーテンから垣間見えた友人の背中は平穏に満ちているようで、目の前の年齢不詳のくすんだ金髪を首筋の後ろで一つに束ねた男との時間を楽しんでいることが伝わってくるようだった。
自分や他の四人の友人達以外にウーヴェがあのような顔をすることも想像外だったが、職業柄身形には気を遣う彼が昨夜オイゲンと食事をしていた時に着ていたスーツやネクタイと同じだったことも驚きだった。
昨夜の久しぶりの再会が楽しく、またその後の自宅に戻ってから突きつけられた現実にウンザリした脳味噌が見せた幻覚かと自嘲するが、最大の特徴である白とも銀ともつかない髪と細いフレームの眼鏡から間違いなくそれがギムナジウム以来の友人であると気付いて目を瞠るが、そんな彼を尻目に楽しそうに朝食を食べ終えた二人が立ち上がって店を出る直前に男がぐるりと店内を見回した為、慌てて視線を逸らしてやり過ごしたが、鋭い目つきで顔を一撫でされた感覚から背筋を震わせてしまう。
オイゲンのニンジン色と称される髪の下ではギムナジウムや大学で秀才の誉れ高い脳味噌がフル回転し、先程見た己の友人とともにいた年齢がいまいち良く分からない男との関係を想像しては最終的に到達する答えを打ち消していた。
オイゲンの友人であるウーヴェは幼い頃に巻き込まれた事件の結果、人との間に見えない壁を築いて距離を取るような態度を学生時代は徹底していて、オイゲン自身も長い時間を掛けてようやく壁に小さなドアを開けて貰えた程だったのに、そんな彼の目の前でウーヴェは心の壁など存在していない顔で笑い、昨夜オイゲンに見せたものと同じかそれ以上に優しく相手を気遣う表情を浮かべ、何事かを返されて安堵したような態度で頷いたりしていたのだ。
その光景を目の当たりにしたオイゲンの衝撃は言葉では表せないほどで、口元を手で覆ってそんなまさかと掌に呟きながら目を瞠る。
昨夜久しぶりに酒を飲んで楽しい時を過ごしたウーヴェは、帰り際に電話を受けて不安と困惑とそれを遙かに上回る心配する態度を見せた後そのままタクシーに乗って恋人の家に向かったことも思いだしてしまい、一瞬にして顔中の血の気を失ったように真っ青になる。
「・・・まさか・・・」
昨夜の会話の流れとたった今目の当たりにした昨日と変わっていない服装を思い出せば彼が恋人の家に泊まったことは明白だった。
いくら恋人とはいえ人の家に寝泊まりするウーヴェなど俄には想像出来ず、またその相手が何度か店内を見回した時に一般の会社員ではあり得ないような鋭い目つきをしていた男だとは考えにくく、朝から何を考えているんだと呟いて無表情に肩を竦めたオイゲンは、気分を切り替えようと店の外へと視線を向け、そしてそのまま動きを止めてしまう。
壁と窓の境界辺りでウーヴェの右手を取った彼がその手を顔の傍に引き寄せて指か手の甲にも口を寄せたようで、困惑と羞恥と応えることの出来ない罪悪感、そして何よりもそれを遙かに上回っている歓喜と信頼が入り交じっているような複雑な表情を浮かべたウーヴェが、己の手にキスをした青年の腰をまるで恋人の身体に触れるような手付きで叩いたのだ。
ウーヴェと学生の頃からの付き合いがあるオイゲンは他の四人の友人達と比べれば付き合いも長く、自然と浮いた話を聞いたりする事が多かったが、以前皆と集まった時に恋人を連れてくると言っていたが仕事で来られなくなったと心底残念そうに語った顔が思い浮かび、口元を覆い隠した手が震えるほどの衝撃に囚われる。
あの時紹介しようと思っていたのが今肩を並べて歩いて行く彼で、恋人の職業が刑事だと聞かされたことを思い出せば先程の鋭い目つきも納得できるが、まさかウーヴェが同性と付き合うことになるなど天地がひっくりかえっても想像出来ないことだった。
学生の頃はどうだっただろうと脳内で呟きながら力なくソファに背中を預けたオイゲンは、大学の頃や卒業して数年後に開業した時に聞かされた話では数人の女性と出会いと別れの儀式を経てきたことを思い出して眼球を忙しなく左右に揺らしてしまう。
他の四人の友人達はウーヴェが男と付き合っていることを知っているのだろうかとふと疑問に感じ、知っているのならば賑やかでお祭り騒ぎが大好きないつも友人たちの輪の中心にいたカスパルが黙っているとも思えないと己を納得させ、衝撃をもたらした光景に何とか納得のいく説明を付けようとしてみるが、どれだけ言葉を並べ立てても過去の光景を引っ張り出してきても、ウーヴェが今付き合っているのは年齢不詳の男という事実の前にはぼんやりと霞んでしまう。
震える手でグラスを掴んで水を一気に飲み干すと、乱雑に新聞を折りたたんでアタッシュケースに突っ込み、隣の席で静かに読書をしていた女性が非難の目つきで見てくる程騒々しくまた慌ただしく立ち上がると、驚きの表情で見てくる店員に目礼をして足早に店を出て携帯を取りだし、震える手付きで己の思いを確認しようと電話帳からカスパルの番号を呼び出す。
「カスパルか?俺だ、オイゲンだ」
朝早くからの電話にどうやらカスパルは驚いているようだったが、オイゲンが震える声で先程己が見た光景を口に出せば、携帯の向こうに無言の驚愕が溢れたかと思うと、思わず携帯を耳から離してしまうほどの大声が流れ出す。
『嘘だろ!?』
「俺も嘘だと思いたいが・・・気になったから確認しているんだ。どうなんだ、そんな話を聞いたことはあるか?」
『いや、今お前に聞いたのが初めてだ・・・まさか、な・・・あいつが・・・』
「今度皆で集まるんだったな?日程は決まっているのか?」
勤務先の病院へと向かう為にタクシーに乗り込んで行き先を手短に告げ、携帯の向こうの友人には捲し立てるように語りかけたオイゲンは、次の週末にいつもの店に行こうと昨日マウリッツと決めたからこれから皆にメールをしようと思っていた所だと答えられて溜息を零し、その溜息で少しだけ頭が冷静さを取り戻す。
「週末か・・・」
『ああ。お前はどうなんだ?』
「昨日山から帰ってきたばかりだからスケジュールを確認しないと分からないが、大丈夫だろう」
『また山に行ってきたのか?』
呆れた様な友の声に苦笑しつつ昔に比べればこれでも回数が減った方だと嘯き、可能ならば年中山に登っていたいことも告げた彼は、タクシーが病院の入口についたことに気付き、紙幣を取り出して釣りは要らないことを身振りで伝えて降り立つと、なあと訝るような声が問いかけてくる。
「何だ?」
『あいつにさ、男の恋人がいるって・・・本当か?』
「・・・・・・さっきも言ったが、俺も確信が持てない」
やはりオイゲンが見た現実を聞かされたカスパルも信じられないのか、本当かと再確認してくるが、その確認の声に衝動的に怒りを感じて拳を握りしめながら俺も確信が持てないと短く答える。
何故己がこんなにも怒りを感じているのかも分からないが、今胸の裡で音もなく荒れ狂っている感情は本当に怒りなのかとの疑問の声が脳味噌の片隅から投げ掛けられ、怒りでなければなんだという反論がなされるが、その問答を携帯の向こうの呼びかけが中断させてしまう。
『大学の頃に付き合ってたのは女ばかりだったよな?』
「あ、ああ、ギムナジウムの頃からもそうだが、ウーヴェはストレートだと思っていた」
まさか同性の恋人を持つ日が来るとは思わなかったと呟き、短く刈ってある髪に手を宛がいつつ人が行き交う廊下を進んでいく。
左右から投げ掛けられる親しげな挨拶や敵意未満の視線にも慇懃に礼をし、己の診察室のドアを乱暴な手付きで開け放って中にいた看護師を飛び上がらせてしまう。
『・・・どうする』
「何をだ?」
『皆に先に話しておくか?』
今度皆で会う時に恋人を紹介すると言ったウーヴェの言葉を待つか、たった今教えられた事実を他の友人達にも回しておくべきかと問いかけられていることに気付き、自らの口ではなく他者から伝えられていた事を知れば拗れる可能性があることを答えると、大きな溜息が一つ聞こえてくる。
「・・・・・・とにかく、今度会う時に連れてくると言っているんだ。あいつは自分で言い出したことを反故にするような奴ではないから必ず連れてくるだろう」
その時に真相を本人から聞き出せばいいと答え、他の連中には何も言わないでおこうと二人で結論づけたオイゲンは、通話を終えた携帯をデスクに投げ出して再び看護師を驚かせるが、それに対する謝罪をする心の余裕などなく苛立たしげに舌打ちをしながら握った拳をデスクにドンと叩き付ける。
ウーヴェが過去に付き合ってきた女性達の話を思い出し、その中には結婚まで考えた相手がいたことも思い出すと同時に、学生時代の友人の中では一番仲が良い自分にも同性の恋人がいることを話してくれていなかった事実がオイゲンの怒りに静かに油を注いでしまうが、その炎の陰で長年密かに温めていた思いが粘度と純度の高い怒りの炎を燃え上がらせていて、二つの炎がオイゲンの胸を内側から焼き尽くそうとしていた。
その息苦しさにネクタイを緩めて深く溜息を零した彼は、椅子を盛大に軋ませながら天井を見上げ、しっかりと網膜に焼き付けた男の顔を思い描く。
笑った顔は実年齢よりも若く見えるようで、性格も表情に見合ったように幼さを残している可能性が高かったが、やはりオイゲンの脳味噌で爪を立てるように引っかかっているのは、あの青年が店内を見回した時に見せた鋭い目つきとそれだけでは言い表せない底冷えのする光が宿った双眸だった。
顔の筋肉を動員して作る表情と心の動きが如実に表れる双眸が示すものの相違が信じられない程大きく、笑った顔が現すように子どもっぽい性格をしているのか、それとも蒼い瞳が教えてくれたように真逆の大人特有の狡猾さを兼ね備えているのかを推し量ろうとするが、脳裏に浮かぶ顔は無表情に見つめてくるだけで、そのどちらであるとも教えてもくれなかった。
知らず知らずのうちに拳を握って腿に宛がっていたらしく、看護師がおそるおそる部長が呼んでいると伝えていることにも気付かず、何故だと呟き続けているのだった。