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マレ王国──自然豊かな、けれど秋を過ぎれば途端に雪と氷で覆われる厳冬の国。
そのマレ王国の王都の離宮の一部屋で、第六王子のエリアス・マレ・シュクラバルは亡き母ユディタ王妃の肖像画を見上げていた。
子爵令嬢という身分ながら、王国一とも謳われた美貌で国王に見初められ、第四王妃として入宮した母。
元々身体が弱く、ここ数年の間、病でふせりがちだったが、百年に一度と言われるこの冬の寒さについに耐えきれず、ひと月前に儚くこの世を去ってしまった。
「母上……僕が母上を治してあげられればよかったのに……」
悔恨のにじむ声が静かな部屋に響く。
「……エリアス様のせいではございません。私の力不足です」
エリアスの従者が跪いて謝罪する。
「サシャのせいじゃない。サシャは精一杯やってくれた」
肖像画から目を逸らし、俯いたエリアスはぎゅっと拳を握った。
「……僕が悪いんだ。そもそも僕を生んだりしなければ、母上はもっと長く生きられたのに……」
力なく呟いたエリアスの言葉をかき消すように、サシャが声を張る。
「そのようなこと、仰ってはなりません。王妃殿下はエリアス様を心から愛していらっしゃいました。エリアス様のいない人生など考えられないと、いつも仰っていたではありませんか」
「ああ、そうだった……ごめん。でも、僕だって母上がいなかったらどうすればいいのか……」
今、マレ王国の王宮は王太子選びで揺れていた。
マレ王国では、王位継承権は男子に限られるが出生順によらず、功績や素質によっては年少の王子が王太子として選ばれることもある。
そのため後継争いが激化しやすく、能力に自信のない者や後ろ盾の弱い者は早々に辞退を表明することも珍しくはなかった。
「とりあえず、王位継承権は放棄して、これからのことをゆっくり考えるよ」
そう言って、溜め息をつきながら暖炉のそばのソファにどさりと腰掛けたエリアスを、サシャが真っ直ぐに見つめた。
「なりません」
「え……?」
「王位継承権を放棄してはなりません」
「どうして? 僕は別に王太子なんて目指してないし、だいたい僕が選ばれる可能性なんて無いに等しいだろう?」
現在、王太子の最有力候補は第二王子だ。公務は常に完璧にこなし、貴族からの評判も良い。
さらに筆頭侯爵家であり国内最大の商会を擁するオンドルシュ家のご令嬢と婚約を結んでおり磐石の構えだ。
そして最近は第三王子も国境での紛争を短期間で収めたということで注目を浴びている。
大した後ろ盾もなく、何の功績も上げていない、おまけに母も亡くしたエリアスが入り込む余地などないのだ。
だから、自分にとって何の意味もない王位継承権など早く手放してしまおうと思ったのだが。
「私はエリアス様こそ王太子、ゆくゆくは国王となられるに相応しい方だと思っております」
サシャが胸に手を当て、厳かに答える。
「……それに、母君のユディタ王妃殿下もそれをお望みでした」
「母上が? 本当にそんなことを……?」
にわかには信じられず、エリアスはわずかに眉を寄せた。
「ええ、本当です。王妃殿下から最期にそのペンダントを託された際、エリアス様の助けとなるようにとのお言葉を賜りました」
王妃が亡くなったのは、エリアスが公務に出かけているときのことだった。報せを聞いて急いで駆けつけたが間に合わず、王妃の最期を看取ったのはサシャだった。
「僕が王太子になるのが、母上の望み……」
「はい、そうです。王妃殿下の最期の願いを叶えて差し上げなくては」
「──……分かった」
しばらく無言のまま逡巡した後、エリアスは心を決めたようにうなずいた。
「でも、今から巻き返すにはどうすれば……」
あまりの難題に頭を抱えると、サシャはまるで子供の謎かけの答えでも教えるかのような気軽さで、うっすらと微笑みながら言った。
「隣国のラス王国で聖女が誕生したそうです」
「聖女が? 今さら? どうせならもっと早く現れてくれれば母上を救えたかもしれないのに……」
エリアスが唇を噛む。
「ええ、本当に……。ですが、せめてこの時期に現れてくれたのはありがたいことです。幸いにも、エリアス様と同い年とのこと。この聖女を手に入れれば、王太子の座はぐっと近づくことでしょう」
「手に入れると言っても、聖女は不可侵の存在なんじゃ……」
「無理やりでなければよいのです。あちらからエリアス様を慕ってくるのであれば、何の問題もありません」
「なるほど……。でも、そんなに上手くいくかな」
わずかに不安の色を映すエリアスの瞳を、サシャの榛色の瞳が捉える。
「聖女などと大層な名前で呼ばれていますが、言ってみれば光の魔術が使えるだけの少女です。エリアス様のような見目麗しい王子様が目の前に現れて、年頃の娘なら気にならないはずがありません」
たしかに、エリアスは自分が母から絶世の美貌を受け継いでいることは自覚していた。公務でも茶会でも、いつでもどこでも人々の──特に女性の視線が自分に集まるのを感じていた。
だから、きっと聖女も彼女たちと同じだろう。
自分の外見にたやすく心を奪われる軽い女。
あるいは第六王子という肩書きを愛し、虎視眈々と玉の輿を狙う強かな女。
エリアス・マレ・シュクラバルという人間の内面など、誰も気にしてはいないのだ。
だから、自分も「聖女」の肩書きを利用して何が悪いというのか。
母の命を守れなかった自分にできる唯一のことは、母の最期の願いを叶えること。
(そのためなら、なんだってしてみせる)
窓の外では、凍てつくような寒さの中、重く湿った雪がただしんしんと降り積もっていた。