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帰宅すると、リビングの方に人の気配を感じた。
まさか、という気持ちでそちらへと行く。
「おかえり」
ソファに座り本を読んでいた斗希が、
こちらを振り向いた。
「今日、休みなんだ…」
てっきり、今日は斗希は仕事だと思っていたので、居る事に驚いた。
本当に仕事なのかは知らないけど、
土日はいつもスーツで朝から出掛けているから。
そして、週に一度程、平日に休んでいる。
「そう。休み」
特に、それ以上の言葉はない。
私が黙っていると、斗希が口を開いた。
「俺は一応、結婚してる以上気を使って日付が変わる前迄には帰るようにしてるんだけどな。
結衣は、朝帰りか」
その顔にうっすらと笑みが浮かんでいて、
やはり、私の浮気さえもこの人は楽しむんだな、と思った。
「私も泊まるつもりはなかったんだけど、
寝ちゃって」
そう、笑い返してやった。
「そんなに疲れる程、眞山社長って激しいの?」
眞山社長の名前が出て、なんで相手が分かるの、と顔がひきつる。
「あれ?眞山社長じゃなくて、
もしかして、また篤と?」
クスクスと笑うその顔を見て、
そうやってからかわれている感じに腹が立つ。
「そう、眞山社長と。
この女、またそうやって遊ばれて馬鹿じゃないか?って思ってる?」
自嘲するようにそう笑うけど、
自分のその言葉に、改めて自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった。
「ねぇ、鳴ってない?」
斗希にそう言われ、持っている自分の鞄に目を向ける。
音を消してバイブにしていた、私のスマホが鳴っている。
それを手に取り確認すると、
それは私の母親からの電話で。
何の用だろう?と、怖くなる。
「出たら?」
何処か楽しそうな斗希は、
その電話の相手が誰かは分かっていないだろうけど、
私のただならない様子から、
楽しんでいる。
電話に、出ろと。
斗希に言われなくても、母親からの電話に出ないと後から何を言われるか分からない。
「はい」
私が電話に出ると、
『ちょっと、出るなら早く出なさいよ!』
機嫌の悪そうな、母親の声が聞こえた。
「お母さんから電話なんて、どうしたの?」
この人から電話が掛かって来た事なんて、
今まで数える程しかない。
『あんたに話があるから、今から帰って来られない?』
「今からって…。
話は電話じゃ駄目なの?」
『あんた馬鹿なの?
駄目だから帰って来いって言ってるんでしょ!
今日土曜日だし、あんた休みでしょ』
「え、うん…」
土曜日でも、出勤になる時もあるけど。
『あんたの旦那も連れて来なさい!』
「えっ?」
と、思わず斗希の方を見てしまう。
「なんで…。
私の旦那って…」
『何言ってんの?
あんたの旦那一度もうちに挨拶の一つもせずに、非常識にも程があるでしょ?
とにかく、その人連れてうちに来なさい!』
母親はそう言うと、ブチッ、と電話を切った。
「どうしたの?」
斗希に問い掛けられて、
素直に言うかどうか一瞬逡巡してしまった。
「―――うちの母親が。
今日、今から斗希連れて私の実家に来いって」
なんとなく、それに対して嫌な予感がする。
あの母親の機嫌の悪さ。
斗希に、一体何を言うつもりなのだろうか?
「俺は、いいよ。
今日予定ないし」
その斗希の答えは、あっさりとしていて。
断られても困るけど、そうあっさりオッケーされても、困る。
「うちの実家、ちょっと遠いよ」
そう言ってしまうのは、遠回しに斗希に断って欲しいと思う気持ちの現れなのかもしれない。
「K県のK市だったっけ?」
なんで知ってるの?と思ったけど、
この人の目の前で私も婚姻届に記入した。
その時に、本籍地を見たのだろう。
「遠いでしょ?」
もう一度、その言葉を繰り返す。
「そっち側、最近観光客多いよね?
高速も今工事で一部通行止めで車だとけっこう時間掛かるかな。
電車でいい?」
「え、うん…」
もう行く方向で話が進んでいて、
そう頷くしかない。
◇
電車で乗り換え等を含み、
一時間半掛かり、そこから歩いて20分。
約、二時間。
その道中、斗希は電車の中ではずっと本を読んでいて、
本を読みたいからこの人は車ではなく電車を選んだんじゃないかとさえ思う。
私の地元の駅に着いた時も、名残惜しそうに本を閉じていた。
長い道のり、やっと私の自宅へと着いた。
この辺りはほんの少しだけ田舎だけど、
駅前にはコンビニやアミューズメント施設もある。
海があるからか、観光客も多い。
私の家は、何の変哲もないよくある一軒家で、
築年数がそれなりに行っているからか、外観や中も古いけど、
この辺りは同じ古い家ばかり。
ちらほらと、建て替えている家も最近増えて来た。
私がインターホンを押すと、暫くして母親が玄関の扉を開いた。
「はじめまして。
滝沢と申します。
仕事の方の都合が付かなくて、挨拶に来るのが遅れてすみません」
そう言って、斗希は私の母親に会釈した。
今日の斗希は、一応私の親に挨拶をする前提で来ているからか、
きっちりとスーツを着ている。
「あ、いえ。
こちらこそ、挨拶が遅くなりました。
結衣の母の栄子(えいこ)です」
玄関の扉を開いた時の母親の顔は、
その表情に怒りが浮かんでいたけど。
斗希の顔を見て、その怒りがさっと顔から消えた。
それは、斗希の整った容姿に魅力されたからだろう。
「後、これ。
甘い物がお好きだと聞いたので」
そう言って、最寄り駅の和菓子屋で買って来ていた、羊羮の入った紙袋を、斗希が母親に手渡している。
「とにかく、狭い所ですけど上がってください」
母親にそう促され、私と斗希は私の実家に入る。
居間に通された、私と斗希。
思っていたように、父親は居ない。
近くの観光ホテルで働いている父親は、
土曜日の今日は仕事だから。
兄も実家で暮らしているが、
土曜日だし、何処かに出掛けているのかもしれないし、この家の二階の自分の部屋にでも居るのかもしれない。
テーブルの、私と斗希の前に、グラスに入った冷たい麦茶が置かれた。
斗希だけじゃなく、私にもそうやってもてなしてくれるのだと、
不思議な気分で母親を見る。
相変わらず、母親は斗希の容姿に魅せられているのが、その浮かんだ表情で分かる。
「あの…お母さん。
話って何?」
早く帰りたい気持ちからか、早速私から切り出した。
「優成の結婚の事なんだけど」
その母親の言葉に、?、が浮かぶ。
兄の結婚が、なんなのだ。
3ヶ月程前に、兄からは私に電話があり、
年末に結婚する事を聞いた。
「式にお前なんか呼びたくないけど、
妹だから出席してないのも変だし」
その電話の中で、兄にそう言われた事を思い出した。
もしかして、やはり私に兄の結婚式は辞退しろ、とかそんな話だろうか?
それならば、こちらこそ願ってもない事だ。
「優成の結婚がね、破談になって」
その母親の言葉は、思いがけないもので、え、と驚いてしまった。
だけど、本当に驚いたのは、
そうやって続けられた言葉。
「だから、結衣、あなたも離婚してちょうだい」
その母親の言葉に、私の横に居る斗希も驚いているのが、
え、と溢れたその言葉で分かった。
「だって、優成の結婚が駄目になったのに。
同じ兄妹のあなただけがなんでってなるでしょ?
兄がまだ結婚してないのに、妹がっておかしいの。
幸い、あなたと滝沢さんの間に子供はまだ居ないみたいだし」
母親はさも当たり前のように話しているけど、私は頭の中が混乱してしまう。
「優成可哀想でしょ?
優成今それで凄く落ち込んでて。
今日も部屋から全然出て来ないし。
それなのに、あなただけそうやって幸せになって。
そんなあなたを見たら、優成きっと今より傷付くの」
そう言って、その手に持っていた茶色の大きな封筒から、一枚の紙を取り出して、
それをテーブルに置いた。
それは、離婚届。
「滝沢さん。
結衣と離婚するのは、あなたの為でもあるのよ?」
「どう言う意味ですか?」
そう訊く斗希の言葉を聞きながら、
母親に対して、余計な事言わないで、と胸の中で強く思う。
それは、言葉にならなくて、
動悸に変わる。
「自分の子供の恥を晒すみたいだけど。
この子、昔から本当に馬鹿でグズで、何やっても駄目で。
性格も凄く悪いし、平気で嘘も付くし。
だから、友達なんかも居なくて。
ほら、最近は化粧し出してそれなりに見れるようになったけど、昔なんか本当に地味でね」
「だから、別れた方がいいと?」
「ええ。滝沢さんこの子と居ても絶対に幸せなんかになれないから。
滝沢さん、顔もいいのに、なんでうちの結衣なんかと?
何かこの子に弱味でも握られてるんじゃないの?」
その母親の、弱味でも、って言葉に、斗希は苦笑を溢していたけど。
「だから、今、二人でこの離婚届にサインしてちょうだい」
その母親の言葉に、もう眩暈がして来る。
「申し訳ないですけど、
俺は結衣さんと離婚する気はないです。
俺にとって、結衣さんは最高の女性なんで」
そう笑顔で答えている斗希に、母親だけじゃなくて、私も、えっ、と思ってしまう。
嘘なのは分かるけど、その歯の浮くような台詞を、平然と言ってのける感じに。
「結衣あなたはどうなの?
離婚してくれるでしょ?
ねぇ?」
鬼気迫るような母親に、震えながら母親の顔を見る。
その目が、私の事が憎くて仕方ない、と、
訴えている。
幸せに、させない、と。
「―――私も、離婚はしない」
そう言ったと同時に、頬を強く叩かれて、
「この薄情者!」
そう怒鳴られた。
母親は立ち上がり、私の背後へと回ると、
私の右手にボールペンを無理矢理握らせようとする。
「辞めてよ、お母さんっ」
「書きなさい!」
そうやり合う私達を止めたのは、斗希の言葉。
「実の親でも、それ以上は強要罪になりますよ。
先程、結衣さんを殴ったのも、暴行罪」
その言葉に、母親は私から身を離した。
「なんなのあなた?
そんな弁護士みたいな台詞口にして」
「娘さんから聞いてないですか?
俺、弁護士なんですよ」
斗希は、スーツの襟元に裏向けに付けていた弁護士バッチを、
表に付け直していた。
その弁護士バッチを目にして、母親は驚いたように目をみはっている。
「話がそれだけならば、もう退席してよろしいですか?
結衣、帰ろう」
斗希は立ち上がり、座り込んでいる私の腕を掴み、
少し強引に立ち上がらせる。
「本当に弁護士ならば、けっこう稼いでらっしゃるんでしょ?
ならば、結衣、あなた毎月20万返しなさい!
それならば、あなたとこの滝沢さんとの結婚認めてあげる」
「20万なんて、そんな…」
そんなの、給料の殆ど。
「あ、忘れる所だった。
そうそう、それ」
斗希は笑みを浮かべ母親に目を向けるが、
その笑顔に怯んでしまったのは、母親だけじゃなくて私も。
「結衣さんから聞きましたけど、
毎月10万お母様に学費の名目で返済されているとの事ですが、
それは、何か借用書等のようにそれを記した書面とかあるのですか?
それに、結衣さんの署名は?」
「は?親子なのに何の借用書がいるのよ!
学費だけじゃなくて、
食費や服代や、この子を育てるのに色々とお金が掛かってるの!
女なのに大学迄行かせてあげて!
その時のこの子との約束なのよ!
毎月10万払うって」
「つまり、口約束」
「だったら、何よ!」
「お母様の結衣さん対するそれは、どんな法的な権利に基づく請求なのでしょうか?」
「どんなって…」
「親には子供を育てる義務がある以上、そうやって結衣さんにそれを請求する権利は法的にないって事ですよ」
「そうだとしても、この子が払うって言ってるんだから!」
「まぁ、それは結衣さんの勝手なのでしょうけど、以前ならば。
でも、結婚した以上、それが結衣さんの給料から支払われていたとしても、俺との共有の財産になるわけですし。
俺も口を挟みたくもなりますよね?
その無意味なお金の使い方に」
「結衣、あなたからもなんとか言いなさいよ!」
ギロリ、と母親に睨まれ、体が震えるけど。
断ち切るなら、今しかないと思った。
この、母親との関係を。
「お母さん、そういう事だから、私はもうお金は返済しないから」
「この恩知らず!
さっさと離婚して、家に戻って来なさい!
その根性叩き直してやるから!」
そう言って、私の髪を掴もうと伸ばした母親の腕を、斗希が掴んだ。
「これ以上話が拗れるようなら、
家庭裁判所に親族関係調節調停を申し立てます。
その娘に対する金銭の要求もそうですけど、
長年に渡るその虐待もそうです。
その場で、一度、じっくりと話し合いましょう」
「虐待って?」
その言葉に、母親は不思議そうな顔を浮かべている。
「自覚がないのですか?
あなたがやっている事は、娘である結衣さんに対する虐待でしょう」
斗希は、母親を掴むその手を離し、スーツのポケットから、ICレコーダーを取り出した。
そして、
「先程からの会話を録音しました。これを証拠の一つとして出して、
俺も、証言します。
先程の、目の前で行われた結衣さんに対する暴力もそうですし、
離婚の強要。
そして、散々結衣さんを侮辱した。
目に余る程の、親としてあるまじき行為」
「 もういい!
さっさとあなた達帰りなさい!」
「帰ろう、結衣」
そう斗希に手を握られて、
驚いてしまう。
結婚している私達だけど、今まで手すら触れた事がなかったので。
「もし、また結衣に何か要求するなら、
つきまとい禁止仮り処分命令の申し立てを行うので。
では」
斗希は笑顔で母親にそう言うと、
そのまま私を連れて居間を出る。
私はチラリと最後に母親を見たが、
悔しそうに肩を震わせていた。
その姿を見て、心の何処かでスカッとする気持ちがないわけではないけど。
なんとも言えない消失感が胸を巣くう。
その失ったのものは、母親に愛されたいと思う私の期待や願望だろう。
これで、もうそんな日は絶対に来ないと。
◇
駅迄の道を、また歩く。
二時間もかけて来たのに、私の実家に滞在したのは僅かな時間。
斗希と私は横に並び歩くが、
行きの道よりも、帰りの今の方がその二人の距離が近いような気がした。
先程、握られた手も、玄関で靴を履く際に離れたけど、
その感触が今も私の手の平に残っている。
「私の事、どうして庇ってくれたの?」
訊ねてみて、先程のあれは、庇ったというより、助けてくれたと言った方が適切かもしれないな、と思う。
斗希は、私を母親から助けてくれた。
「どうして?か…。
どうしてだろう。
自分でもよく分からない」
こちらを見るその斗希の目は、
改めて私の存在を目に映し、
どうしてだろうか?と考えているように見える。
「そう…」
「最初の方は俺も楽しんで見てたんだけど。
結衣の母親の娘に対する憎しみの醜悪さも。
それに怯えている結衣の事も。
他人の不幸って、面白いし」
やはり、この人はちょっと歪んでいる。
「それかな。
結衣は俺にとってもう他人じゃないから、
面白くなかったのかも」
答えにたどり着き、スッキリとした表情を浮かべている。
私はなんだかその斗希の言葉に、ちょっとドキドキとしてしまった。
一応、結婚している私達。
他人では、ない。
「けども、結衣はずっと浮かない顔してるよね?」
「そんな事…」
否定するけど、それが力なくて。
「まあ、色々な親子が居るか」
私は、母親との関係が先程のあれで完全に壊れて、何処か寂しいと思っている。
そんな私だけど、いつの頃か私に対する母親の感情の異常さに気付き、あの母親から逃れたいとずっと思っていた。
だから、これで良かった、と思っているのに。
「昔から母親はあんな感じなんだけど。
ただ、一度だけいい思い出があって」
あれは、私が小学3年生の頃。
家の階段で足を踏み外した私は、
派手に階段から転がり落ちた。
その音を聞き付けて、母親は慌てて私に駆け寄って来た。
「結衣!大丈夫?
骨とか折れてない?
何処ぶつけたの?」
痛みで泣く私を抱きしめ、
私を心配するその声が、不安そうに揺れていた。
母親の私に対する愛情を感じた、その一度。
その一度が、忘れられなくて。
「結衣のお母さんは、なんであんなにも結衣を目の敵にしてんの?
よく、兄弟差別とかは耳にするけど。
お兄さんの事は可愛がっているみたいだから」
「よくある、母親は娘より息子の方が可愛いっていうのもあるのかもしれないけど。
うちの場合は…。
私の顔、母親に全然似てなかったでしょ?
うちの兄は、母親にそっくりなんだけど。
私、父親にも似てなくて」
「もしかして、結衣はあの家の本当の子供じゃないとか、そんな話?」
その言葉に、ゆっくりと首を横に振った。
「うち、昔父親側の祖母と同居してて。
その祖母は、私が幼稚園の時に亡くなったからあまり覚えてないのだけど。
ただ、祖母、凄く嫌な姑だったらしくて、うちの母親をずっと苛めていて。
その祖母に、私の顔がそっくりなんだって」
昔から、何度と母親に言われた言葉。
「あんたの顔、本当にあの姑にそっくり!
見てると、本当に腹が立つ」
私は昔の事を思い出し、斗希に話し始めた。
物心付いた頃には、私はもう母親から辛く当たられていた。
それは、祖母が亡くなると露骨になり、
父親は母親の機嫌を損ねるのを嫌がり、私を庇う事等もなく。
そんな父親だからか、自分の母親が嫁を苛めるのを、止める事はなかったのだろう。
兄の優成は、私の覚えている限り嫌な兄で、
私はこの人に苛められた記憶しかない。
兄が家の物を壊し、それを私がやったと母親に嘘を付かれる事は日常茶飯事。
「あんたはなんでそんな嘘つきなの!」
私じゃなく、兄の優成がやったのだと言う度に、母親にそう怒鳴られ、殴られ。
それを、兄は笑いながら見ていて、
父親は、見て見ぬ振り。
小学生になり、数人の友達と近所の公園の砂場で遊んでいる時。
「結衣!何してるの!
こんな砂だらけに!」
目を吊り上げ、こちらへと向かって来る母親の姿に、怒られている私以上に、友達のその子達の方が怖がっていた。
「あなた達も、もううちの子と遊ばないで!
うちの子にこんな汚い遊びさせて!
本当に見るから小汚ない子達ね」
その日以来、その子達は私と口を聞いてくれなくなった。
私にまた友達が出来ても、母親にそうやって壊される事が何度か続き。
「結衣ちゃんと仲良くするなって、私お母さんに言われているから。
ほら、結衣ちゃんのお母さん、ちょっと…」
声を掛けた子に、言われたその言葉。
いつの頃か、そうやって私は親達の間でも、関わったらいけない子になってしまった。
人口の多い町ではないので、
世間は狭くて。
家でも学校でも、私は孤立していて。
ただ、学校は友達が居なくても、特にイジメに合うとか嫌な思いはしなかったので、
まだ学校の方が家よりマシだと思っていた。
中学に上がっても、そうだった。
私には、友達が出来なくて。
そして、中学に上がってすぐの頃、
生理が始まった。
学校の授業で簡単には教えて貰っていたけど、
母親から教えて貰っていない私はどうしていいか分からなくて。
その日は、ちょうど日曜日で家に居て。
朝起きて、その異変に気付いた。
「―――お母さん、血が出てるの」
朝食の支度で、台所に立っている母親に近付きそう打ち明けた。
母親も女だからか、私のその意味をすぐに理解したらしく。
私の下半身に、目を向けた。
パジャマのズボンに、赤い染みが広がっていて…。
「ちょっと、汚い!なんなのこの子!
あっち行って!」
その時の母親は、珍しく怒る事はなく。
そんな私を、汚いと口を歪めて笑っていた。
その時、私はとても傷付いて、
その後の事もあまり覚えていなくて。
暫くしてから、生理用品を投げ付けるように母親から渡された事は、覚えている。
段々と胸が大きくなっても、私はブラジャーなんて買って貰えなくて、
夏服の季節になると、
クラスの男子の視線が気になるようになった。
それを見かねた女性の担任教師が、
うちの母親にブラジャーを買ってあげるように言ってくれたらしく、
ある日、家に帰ると、私の部屋に数着のブラジャーが置かれていた。
それは、新品ではなくて、母親の使い古しのような物だったけど。
それについて母親にお礼を言うと、
「なんで早く言わないの?
あんたのせいでお母さん恥かいたじゃないの!」
そう怒鳴られた。
当時は考えなかったけど、
母親はずっと気付いていたはず。
私の胸が大きくなっている事も、
夏服の下にシャツを着ていても、それで隠せていない事も。
高校へと行っても、私の状況は変わらず。
進んだ高校は、自転車で通える距離だからか、
同じ中学出身の子が多かった。
だから、その子達から、私の事は広まっていただろう。
あの子の家は母親がちょっと変だから、関わらない方がいいと。
高校生活は、クラスのみんなが持ってて当たり前のスマホを、
持ってない私は、羨ましく一人眺めているだけで。
その頃の唯一の楽しみは、
帰り道にある大きな図書館で本を借りて読む事だった。
そんな風に過ぎて行くと思っていた高校生活だったけど。
「ねぇ、今日のお昼一緒にお弁当食べない?」
高校三年になり、すぐの頃。
同じクラスの坂本可奈(さかもとかな)が、ポツンと一人寂しく自分の席に座る私にそう声を掛けてくれた。
「えっ」
と、俯いていた顔を上げて見たその可奈は、まるで神様のように神々しい光がさしているように見えた。
それを、仲良くなってから話した時
「それ、大袈裟だって」
そう、笑っていた。
「私の事、聞いてないの?」
その時、私は恐る恐るそう訊いていた。
この子の顔は見た事あるけど、初めて同じクラスになる子だな、と改めて坂本可奈の顔を見ていた。
「知ってる。
母親がちょっとヤバいって。
でも、別に小林さんがヤバいわけじゃないじゃん」
そう笑い飛ばしてくれて、その言葉に心底救われたのを覚えている。
それから、可奈とはとても仲良くなった。
その可奈との交遊が母親にバレないかとヒヤヒヤとしたが、
携帯電話等を持っていない私は、それを母親に知られる事はなかった。
可奈にも、うちには絶対に電話とかしないで、と、その電話番号を教えなかった。
色々と話して行くうちに、
可奈もそれなりに悩みを抱えていて、
昔、両親が離婚していて、父親に引き取られたけど、
一年程前に父親が再婚して、その継母と上手く行っていないのだと。
私も、自分の母親との関係を、全て可奈に話した。
「それ、お母さんがおかしいよ?
結衣は悪くないのに」
そう言われる迄、自分が悪いから母親に嫌われているのだと思っていた。
私の顔が、母親の嫌いな姑に似ているのも、私が悪いんだって。
私は悪くないんだ。
「結衣勉強出来るから、絶対に大学行って、
いい所に就職して、そんな母親と縁切りなよ」
その可奈の言葉に、うん、と強く頷いていた。
女だから、高校を出たら就職しろと母親にはずっと言われていた。
今思うと、それは成績の良かった私に対する嫌がらせの一つだったのだろう。
私はそれから半年がかりで母親を説得して、学費の安い国立ならば大学に行ってもいいと許しを得た。
その代わり、就職したら毎月10万返せと、約束させられた。
大学に入ると、近所の缶詰め工場でアルバイトを始めた。
高校の時は門限が17時でそれを許されなかったけど、
通う大学がそれなりに距離があり、
その為、高額となる電車の定期代を自分で稼げと、アルバイトを許可された。
そして、そのアルバイト代で、スマホを持てるようになった。
大学時代は、勉強もそうだけど、
通学にけっこう時間が掛かり、アルバイトも忙しくて、
特に遊んだ記憶がない。
可奈という親友が出来た私だけど、
人見知りもそうだけど、
基本暗くて、どこに行っても目立つ事はなくて、
大学でもアルバイト先でも、特別仲良しな子は出来なかった。
可奈は大学へは進まず、高校卒業後地元を離れて看護学校へと通い出していて、
その頃は滅多に会えなくなっていた。
時々、電話で話したりするけど、
会う事は、年に一度程になっていた。
それでも、可奈との関係は、就職してからの今も、続いている。
そして、子供の時程の母親の私に対する歪んだ執着も、幾分マシになって来ているのか。
特に、持っているスマホをチェックされるとかもなかった。
まあ、私に友達等が居ないと思っていたからかもしれないけど。
大学4年になり、本格的に就活が始まる。
「もしかして、素っぴん?」
一社目の面接で、その面接官に言われた。
その言葉で、この歳になって化粧をしていない事がおかしいのだと気付いた。
そのせいなのか分からないけど、その会社は落ちた。
化粧をするにも、いきなりデパート等の化粧品ブランドのコーナーに行く勇気もお金もなく。
大学近くのドラッグストアにある、
プチプラの化粧品コーナーを見ていると、
美容部員の女性に声を掛けられた。
「肌、綺麗ですね?」
今、思うと、それはお世辞だったのかもしれないけど。
その人に色々と教えて貰い、化粧水等の基礎化粧品から、
ファンデーションやマスカラ等も購入した。
その時まで私は、化粧水さえも付けた事もなく、
薬用リップですら塗った事がなかった。
そう言われると、肌が綺麗かはともかく、
私の肌はとても丈夫なのだと思う。
今ではそんな事考えられないけど、
何もしなくても何一つ肌トラブルなんてなかったので。
化粧をし出した私を、母親はいつも機嫌悪そうに見ていた。
「似合わないのに」
そう、鼻で笑われる。
不安になり、鏡で確かめるけど、
昔の私とは見違えるような自分の姿。
髪も切ろうか、とそれに触れる。
幼い頃から、決まった近所の美容室で、年に一度程、伸びた分をバッサリ切るだけの、私のそのダサイ髪型。
何処かお洒落な美容室にでも、行ってみようか。
そして、髪型も変わり、受けたベリトイの面接で、私は内定を貰えた。
その時点で秘書技能検定準1級の資格を持っていたからか、
入社後すぐに秘書室へと配属された。
私がベリトイを選んだ理由は、
大手で安定しているのは勿論だけど、
家から遠くて、寮があるのが一番の理由だった。
寮へと入り、母親から離れる。
「やっと、あんたのその顔毎日見なくてよくなるから、せいせいするわ。
別に、盆や正月も帰って来なくていいから」
家を出る前日に、母親に言われたその言葉。
その言葉の通り、私は就職してから、一度も実家へと帰っていなかった。
今日の帰省が、就職してから初めてだった。
私のその話が終わる頃、ちょうど駅が見えて来た。
「それで、眞山社長に優しい言葉をかけられて、コロッと騙されたんだ」
斗希の言葉に、うっ、と言い返す言葉に詰まる。
まさに、その通りで。
可奈という親友がいたけど、
私の心は愛や優しさに飢えカラカラに渇き切っていて。
眞山社長の私にかける優しい言葉や愛の言葉が心の細部迄染み渡り、
魔法にかけられたようだった。
「私、誕生日を誰かに祝って貰ったのも、眞山社長が初めてだった」
付き合ってと言われた日も、別れた日も私の誕生日で。
そのどちらも、眞山社長は祝ってくれた。
今、騙されたと分かっていても、
眞山社長と付き合っていた一年間は、
本当に、満たされていたのだと思う。
あの、誰かに愛されているという、喜び。
それが嘘だと分かった今も、あの過去の幸福感は消えない。
私には、もう二度と誰かから愛されるなんて事はないのかもしれない。
そう思い、斗希に視線を向けてしまう。
この人が、私を愛する事はないだろうな。
「ねえ、せっかくだし、海でも見て帰ろう」
斗希はその顔をパッと明るくして、
先程みたいに、再び私の手を握った。
それに驚き、斗希を見ると、
「いや?」
と、訊かれるけど。
それは、海を見に行く事に対する質問なのか、
この繋いだ手なのか分からないけど。
「嫌じゃない」
そう、答えていた。