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夕方四時過ぎに、有賀さんはやって来た。
「秋野さん、今大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、向こうでいいかな? 一時間もしないで終わらせるから」
有賀さんが二課の打ち合わせコーナーに目を向けながら言う。
「はい」
ノートパソコンを手に有賀さんに着いて移動しようとすると、視線を感じる。
振り向くと、雪斗がじっとこっちを見つめていて……顔が恐い。
『浮気するなよ』そう言っていた彼の声が脳裏に蘇る。
あれは本気だったのだろうか。
微妙な関係の私にも独占欲が有るということ?
意外と嫉妬深い性格なのかな。仕事中はいつも余裕の態度に見えるけど……。
疑問が浮かぶけれど、仕事なので雪斗の反応ばかり気にしてる訳にはいかない。打ち合わに集中しなければ。
「新規事業を担当する三課は、新しい顧客の開拓と従来の顧客への製品以外のサービス提供がメインの仕事になるんだ」
有賀さんは穏やかな声で話始める。
「三課の中で、二チームに分かれる。顧客開拓のチームと、サービス提供のチーム」
「はい」
「顧客開拓は藤原をリーダーにしたチームが担当する。俺達はサービス提供の方を担当する」
雪斗は、リーダーなんだ。担当が別れたのは寂しいけど、やっぱり凄いと思った。
「サービス担当のリーダーは有賀さんなんですか?」
「一応ね。向こうが藤原がリーダーだからプレッシャーだけど」
有賀さんは肩をすくめる。雪斗と違い謙虚な人なようだ。
きっと雪斗ならこんなとき、自信満々だろうな。
想像するとクスッと笑いが零れそうになる。
「異動したばかりの秋野さんにチームに入って貰ったのは、総務部だったから新しい部署での手続きや、他部署とのやりとりがスムーズになるかと思ったんだ」
ああ、なるほど。私が選ばれたのはそういう訳なんだ。
確かに社内手続きには慣れているから、その点なら役に立てる。
「営業部の経験は少ないですが頑張ります。よろしくお願いします」
有賀さんとなら上手くやっていけそうだ。ホッとした気持ちで言うと、有賀さんも微笑んだ。
それから必要な打ち合わせをしていると、あっと言う間に時間が過ぎていった。
「そろそろ定時だ。話し込み過ぎたな」
「すみません私が質問ばっかりしたから」
「いや、事前に確認ができてよかったよ」
有賀さんは時計をチラリと見ながら言う。
もしかしてこれから予定が有るのかな?
「じゃあ私は戻りますね」
そう言って立ち上がろうとすると、有賀さんは気まずそうに言った。
「ごめん。もうちょっと詰めたかったけど、これから人と会う約束が有るんだ」
「打ち合わせはまたの機会に。有賀さんのご都合に合わせて、時間をつくりますから」
「ありがとう。プライベートなんだけど相手の都合も有るから」
「あ、そうなんですね」
「保険契約の件で担当者に連絡をしたんだけど、会社には来られないって言われてね。仕方がないから近くで待ち合わせしてるんだ」
「え……」
「何をしたのか知らないけど、うちの会社出入禁止になったそうだ……いい子だったんだけどな」
「出入り禁止……」
心辺りのあるワードにドキリとした。
その担当者って湊の彼女……水原奈緒さんかもしれない。
湊と彼女が並び立つ姿が頭に浮かび、憂鬱な気持ちがこみ上げる。
こんなふうに、気分が滅入るのは久しぶりだ。
自分の席に戻ると、書類が山の様に溜まっていた。
定時過ぎだと言うのにこれからこの山を処理しないといけない。
溜息が出そうだけれど、周囲の人も皆新規事業の関係なのか帰る様子は無い。
雪斗の姿は見えない。おそらく打ち合わせか何かだろう。
仕事の穴を埋めるために、経験豊富な派遣社員を数名入れるって聞いているけれど、その人達が来るまでは従来の仕事と、新しく割り振りされた仕事をこなさないといけないから忙しい。
私だけが大変なわけじゃ無いし、文句は言えない。
とりあえず今日中に処理しなくちゃいけないものと、納期に余裕が有るものを仕分けして……あっその前にメールも確認しないと。
受信フォルダを確認すると、数件の納期確認依頼と、急ぎの注文の連絡。
それから雪斗からのタイトル無しメールが入っていた。
……何だろう。取り合えず一番に開封する。
【有賀との打ち合わせが終わったら、第三会議室に来て】
内容的にも文面的にも、仕事の話のようだ。
メールを閉じて直ぐに第三会議室に向かった。
「遅い! 打ち合わせに何分かかってんだよ」
会議室の中は雪斗一人で、とても不機嫌そうに私を迎えてくれた。
「……どうしたの?」
戸惑う私に、雪斗は手元の資料を差し出して来た。
「これ確認の為に読み合わせする。俺が読んで行くから美月が確認して」
やっぱり仕事の話だったんだ。素直に受け取り雪斗の隣に座る。
不機嫌そうだった雪斗は気持ちを切り替えたのか、手元の資料を流暢に読み始めた。
低く響く心地良い声。雪斗の声を聞いてると落ち着く。とても好きな声だ。
聞き入っているとあっと言う間に作業は終わった。
「問題無いな」
「うん、大丈夫」
本当に完璧で修正箇所は一つも無かった。私の出番なんて必要無かったくらい。
雪斗は手早く資料を纏めると、私をじっと見つめて来た。
「有賀との打ち合わせはどうだった?」
「丁寧に説明して貰ったから、理解出来たよ」
「ふーん。あいつの仕事は慎重で細やかだって評判だからな」
「私をアシスタントにしたのは、いろいろな社内手続きの時便利だからだって」
「何だよそれ。結構したたかだな」
したたかって。
正直、イメージでは雪斗の方がよっぽどしたたかだけど。
もちろんそんな事は言わずに微妙に笑って誤魔化す。
雪斗は文句を言ってるけど、有賀さんには問題がないと思っている。
ただ、水原奈緒さんと顔見知りだという点が引っかかる。
あの人とは、二度と会いたくない。
彼女が悪いわけでは無いと頭では分かっているけれど、私にとっては嫌悪感を持ってしまう相手なのだ。
彼女と関わったら、新しく進もうとしている気持ちが崩れてしまいそうで恐かった。
「どうした?」
私の少しの変化に気付いたのか、雪斗が気遣うような声をかけて来た。
「美月、何か有ったのか?」
「雪斗……」
雪斗が私の方に身を乗り出そうとしたのと同時に、会議室の扉がノックも無しに開いた。
「藤原君、探したわ」
ヒールを鳴らしながら部屋に入って来た真壁さんは、携帯を手にしながら言う。
私はアシスタントだから持ってないけれど、二人は会社から支給された携帯電話を常に持っていて、連絡が取れる様になっている。
真壁さんの様子から雪斗に何度も電話したんだと分かった。
「集中したい作業だから通知を切っていた。スケジュールにも入れて有っただろう?」
雪斗はさっきまでの優しい声とは一転して、感情の無い声で言った。
「ええ。でも随分と遅いから気になって。新規プロジェクトの件で打ち合わせをしたいんだけど、まだ時間取れない?」
真壁さんは雪斗の素っ気なさに一瞬躊躇いながらも、直ぐに笑顔になって言う。
……真壁さんってこんな風に笑うんだ。
少し驚いていると、真壁さんはようやく私に目を向けた。
「秋野さんはここで何してるの?」
私が答えるより早く、雪斗が代わりに返事をする。
「仕事を頼んでたんだよ。十五分後に時間を取るから一課の打ち合わせコーナーを用意しておいてくれ」
「え、ええ。分かったわ」
真壁さんは不満そうにしながらも、雪斗に文句を言う事は無く、会議室を出て行った。
私の事は完全無視だ。やっぱり私は真壁さんに嫌われている。
その原因は雪斗にある。今までの態度から考えると間違い無いと思った。