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悠真は日々、壁の隙間の声に取り憑かれていった。
カサ……カサ……
その音を聞かずにはいられず、仕事の合間も頭の中で繰り返される。まるで、壁の奥に自分の居場所があるかのような錯覚に陥った。
ある夜。
布団に横たわりながら、悠真は意を決して隣の壁の隙間を凝視した。
わずかな影、かすかな動き――そこに何かがいるのは確かだ。
「来て……」
囁きは直接耳元で語りかけるようで、恐怖と同時に、奇妙な安心感をも与えていた。
悠真は震える手で壁の隙間に触れようとする。指先が壁に触れた瞬間、ひんやりとした感覚が伝わり、思わず息を呑んだ。
その直後、背後で扉が軋む音がした。
「……悠真?」
美咲が夜勤明けに寄ってきたのだった。
「どうして……?」
悠真は声にならない声で問いかけた。だが美咲は静かに、しかし厳しい眼差しで言った。
「悠真さん……無理しないで。前の人のこと、ちゃんと調べたほうがいい」
「前の人……?」
「夜中に変な音がして……それからいなくなったの。あなたも同じ道を辿らないで」
その言葉は悠真の胸を刺した。
——それでも、隙間の呼び声は止まらない。
カサ……カサ……
「こっちに来て……」
翌日。
仕事を終え、アパートに戻った悠真は、ついに壁の隙間を押し開けた。
隙間は思ったよりも狭く、ほとんど壁の割れ目だ。しかし、そこから漂う冷たい空気と、微かな湿り気は、確かに“向こう側”の世界のものだった。
「来たね……待ってたよ」
声は、壁の奥から直接悠真に語りかける。
その瞬間、悠真の視界が揺れ、部屋の壁が薄く透けて見えた。
隙間の奥には、薄暗い廊下のような空間が広がり、そこに立つ人影が悠真を見つめている――ような気がした。
恐怖と好奇心が同時に頂点に達する。
悠真は自分の意思ではなく、声に導かれるまま、手を奥へ伸ばす――。
その瞬間、床下から微かに振動が伝わる。
そして、壁の奥から低く囁く声が響いた。
「もう、戻れないよ……」
悠真は振り返ることもできず、ただ隙間の奥へと吸い込まれるような感覚に身を任せた。