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長く重苦しい1学期が終わり、夏休みが始まった。伊織は再び藤堂の独占的な愛に包まれていたが、時折、こっそりと電話をかけてくる渚の声だけが、伊織にとって唯一の「自由」な時間だった。藤堂は、夏休みを伊織と二人きりで過ごすべく、旅行の計画を立てていた。
「伊織、今年の夏休みは、南の島で二人っきりで過ごそう。誰も邪魔の入らない、俺たちだけの空間だ」
藤堂が目を輝かせて提案するのを、伊織はそっとかわした。
「蓮、南の島もいいけど……今年は、岡山に行ってみない?」
藤堂は怪訝な顔をした。
「岡山? なんでまた急にそんな地味な場所を。伊織、何か裏があるんじゃないか?」
藤堂の視線が鋭くなる。伊織は平静を装い、すぐに言い訳を考えた。
「えっと……最近、図書館で桃太郎の歴史資料を読んでたら、すごく興味が出てきて……。岡山の古い街並みを、一度、見てみたかったんだ」
伊織は、藤堂の好きな「可愛いもの」ではなく、あえて学術的な興味を装った。藤堂は伊織の言い訳に納得はしていないようだったが、伊織が自分との旅行に乗り気なことには満足した。
「ふん。まあ、伊織の頼みなら仕方ない。俺の可愛い伊織が、そんな地味な場所に興味を持つのは気に入らないがな。俺が行けば、地味な旅も豪華な思い出に変えてやる」
こうして、伊織の「渚に会う」という目的を隠した、藤堂との二人旅が決まった。
数日後、二人は新幹線で岡山に到着した。藤堂は高級ホテルを取り、伊織を徹底的に甘やかした。しかし、伊織の心は別の場所に飛んでいた。
旅行二日目。藤堂は、地元の有力者である親戚に会うという名目で、伊織に別行動を提案した。
「伊織は疲れているだろ。俺は夕方には戻るから、それまでホテルでゆっくりしているか、近場の美術館でも見ていろ」
藤堂がホテルを出た瞬間、伊織はすぐに荷物を掴み、部屋を飛び出した。彼は事前に渚に連絡し、再会の場所を取り決めていた。
伊織は慣れない岡山の街を急ぎ足で進み、静かな川沿いの小さなカフェへと向かった。
カフェに入ると、窓際の席に、見慣れた短いセンターパートの髪の女性が座っていた。藤井渚だ。
伊織が声をかける前に、藤井が伊織の姿に気づいた。彼女は手に持っていたマグカップを置くと、椅子から立ち上がった。
藤井の顔は、以前学校で見た時よりも、少しだけ血色が良くなっているように見えたが、その瞳は伊織を見た瞬間、みるみるうちに潤んでいった。
伊織が藤井の前に立ち、言葉を発しようとしたその瞬間、藤井は堰を切ったように泣き崩れた。
「伊織くん……っ!」
藤井は、カフェの周囲の視線も気にせず、伊織に飛びつき、その華奢な肩に顔を埋めた。
「会いたかった……! 会いたかったよ、伊織くん!」
藤井の震える声は、藤堂の支配から離れ、伊織の腕の中で初めて見せた、彼女の純粋で弱い感情だった。伊織の服は、藤井の涙ですぐに濡れてしまった。
伊織は、藤堂には決して見せない、渚だけに許された優しさで、彼女の背中を強く抱きしめた。
「渚……僕もだよ。僕も、会いたかった」
藤堂の独占欲の鎖を抜け出し、渚と再会を果たした伊織の心は、久しぶりに本当の自由と、そして愛の温かさを感じていた。しかし、この再会が、藤堂に知られた場合、どんな代償を払うことになるのか。その恐怖が、伊織の心の片隅に、重くのしかかっていた。