マイキー君と喧嘩した。きっかけは些細なことだ。私が後で食べようと思ってとっておいたプリンを、マイキー君が食べたから。ただそれだけ。別にコンビニやスーパーで売っている100円そこらのものだし、いつもなら笑って許せたはずだった。
だけど今日は仕事でトラブルが重なり、いつもより疲れていた。気持ちが沈んでいた。そして、多分マイキー君も――いつもより少しだけ、機嫌が悪かったんだと思う。「ほんとありえない。食べるの楽しみにしてたのに」
「だからさぁ、謝ってんじゃん」
「全然謝ってる態度じゃないよね」
「はぁ、めんどくさ。たかがプリン1個でそこまで怒らなくてもよくない?」
「マイキー君だって、この前私がどらやき一口食べちゃっただけで怒ったじゃん!」売り言葉に買い言葉。
互いの言葉にはどんどん棘が増していって、漂う空気も重たくなっていく。「……あ~あ。ヒナちゃんだったら、ぜってーこんな風に怒ったりしねーだろうな」マイキー君の口から放たれたのは、私もよく知る人物の名前。
橘日向。マイキー君の友達の、タケミチ君の彼女。
ヒナちゃんとは、私も一緒にカフェや買い物に行くくらいには仲が良い。大切な友達だ。
だからこそ、今のマイキー君の言葉はかなり胸に刺さった。
……本当に、マイキー君の言う通りだなって思ったから。
ヒナちゃんならこんな些細なことで怒らないよね。きっと笑って許してあげるんだろうな。疲れているからってそれを制御できないで、マイキー君に八つ当たりみたいに怒って――最低だ、私。「……そうだね。それじゃあマイキー君も、ヒナちゃんみたいな優しい彼女を見つけた方がいいと思うよ」
「は?何言ってんの?」
「……私、ちょっと頭冷やしてくる」
「っ、ちょっと、どこ行くわけ」戸惑った様子のマイキー君を無視して寝室に行き、財布とスマホを手にとった。リビングで固まっているマイキー君の横を通り過ぎて、玄関に向かう。「待てって!……オマエ、こんな時間にどこ行くわけ?」
「……」
「1人で危ねーだろ」追いかけてきてくれたマイキー君。私のことを心配して掛けてくれた言葉に嬉しくなる。だけど、そう簡単に素直になることなんてできなくて。「別に――マイキー君には関係ないでしょ」口からは可愛げの欠片もない言葉が飛び出る。「……あっそ。じゃあ勝手にしろよ」背を向けたマイキー君は、そのままリビングの方に足を向けてしまう。
……あぁ、もっと怒らせちゃった。せっかく心配してくれたのに。
素直に謝れば済む話なのに、ごめんねって、たった一言さえ伝えることもできなくて。――今度こそ、本当に嫌われてしまったかもしれない。
後悔が押し寄せてくるけど、もうどうすることもできなくて。私はそのまま家を飛び出した。
マイキー君は――追ってこなかった。
***アパートの近くにある公園は暗闇に包まれていて、物音ひとつ聞こえない。
時刻は22時を回った頃だろうか。ベンチに座ってスマホの画面を開けば、22:42と表示されている。思っていたより時間が経っていたみたいだ。
パスコードを入力してメッセージアプリを開く。そこに誰かからの連絡を知らせる通知は見られない。
――そうだよね。連絡なんて、くるわけないじゃん。
そんなこと、追ってきてくれなかった時点で分かっていたことだ。
心配してくれたマイキー君の思いを無下にして、自分からアパートを飛び出したのだ。そのくせマイキー君からの連絡を期待している私は、なんて面倒で馬鹿な女なんだろう。喉の奥がひりついて、熱いものが込み上げてくる。泣きたくなんてないのに、視界が涙で滲んでいく。
目元を擦っていれば、誰かが近づいてくる足音が耳に届いた。――もしかして。そんな僅かな期待にそっと視線を持ち上げ、音の聞こえる方へ顔を向ける。「お姉さんさぁ、1人で何やってんの~?……え、もしかして泣いてんの?マジで?何々~、彼氏に振られでもした?お兄さんが慰めてあげよっか?」そこに居たのは見知らぬ男。酔っぱらっているのか足元がかなりふらついている。
見た目で人を判断するのはよくないとは思うが――チャラついた服装や話し方から、いかにも軟派そうであることが伝わってくる。
下手に受け答えしても面倒だと思い、無言でベンチから立ち上がった。男の横を通り過ぎようとすれば、右腕を掴まれ引き止められる。「え~、ちょっとさぁ、無視はひどくない?」
「……離してください」顔は地面に向けたまま、静かに言葉を紡ぐ。すると、男の手が顔に伸びてきた。そのまま頬を挟むようにして掴まれ、無理やり顔を持ち上げられる。「おいおい、人と話す時はちゃ~んと相手の目見ろって、教わらなかったわけ?」
「……っ、離してください」
「え~、どうしよっかなぁ」下卑た笑みを浮かべる男。
――気持ち悪い。
離れようとすれば、反対の手で肩を掴まれた。そのまま男は顔を近づけてくる。
必死にもがいても、非力な私じゃあこんな男の力にさえ敵うはずもなくて。「……っ、マイキー君……!」瞳を閉じて真っ先に浮かんだ彼の名前を呼んだ。瞬間――目の前の男が吹っ飛んだ。
比喩ではなく、言葉通り。男の身体は宙を舞い、まさしく吹っ飛んだのだ。「はぁ、だから言ったじゃん。危ないって」
「……マイキー、くん」眉を寄せて、怒っているような顔。
だけど下ろされている前髪は少しだけ乱れていて、走ってきてくれたのであろうことがわかる。「――で。オマエは、いつまでそこにいるわけ?」マイキー君の瞳が、地面にへたり込んでいる男に向けられる。ひどく冷たい瞳。
射抜かれた男は小さな悲鳴を漏らし、慌てた様子で立ち上がった。「ヒッ……お、お邪魔しました……!」駆けていった男の後ろ姿は、あっという間に見えなくなった。
それから数秒、沈黙が流れる。先に静寂を破ったのはマイキー君だ。「……はぁ~、本当はアイツのことぶん殴ってやりたかったけど……オマエと喧嘩は控えるって、約束したしな。オレちゃんと我慢したんだけど、えらくない?」さっきまで怒っていたのが嘘みたいな、優しい笑顔。
マイキー君の手が伸びてきて、私の頬をそっと撫でる。「……っ、うん」
「……何で泣くんだよ」困った顔で笑うマイキー君。
とめどなく溢れてくる涙はマイキー君の手を濡らしていく。困らせたいわけじゃないのに。泣き止まなきゃって思うのに……色々な感情がごちゃまぜになって流れる涙は、そう簡単に止められそうもなくて。「……もしかして、アイツになんかされた?だったらオレ、追いかけて今度こそぶん殴ってくるけど」なんて、冗談に聞こえないことを言うマイキー君。本気で男が駆けていった方に足を向けようとするので、慌ててマイキー君の手を引いた。「っ、ちがうよ。何もされてないから、大丈夫。……マイキー君、助けてくれてありがとう。それから……ごめんね」マイキー君の顔をまっすぐに見つめて謝った。まだ視界はぼやけているけど、その先で――マイキー君が微かに笑ったのがわかる。「……うん。オレも、ごめんな」
「うん。……でも、ヒナちゃんと比べられたのは、正直、結構ショックだった」
「あ~、それは……悪かったよ。もう言わねぇ。でもさ、オレだって他の女探せとか言われてショックだったし。あと、オマエに関係ないって言われて……すげー傷付いた」
「それは……うん。ごめんね」
「もうあんなこと言うなよ」
「うん、もう言わない。約束する」
「……おう」それから、また数秒の沈黙。そっと窺うようにしてマイキー君の方を見れば、ばっちり目が合った。顔を見合わせて――気づけば、お互いの顔には笑みが浮かんでいた。「ふはっ、なんかオレたち、すげー謝ってばっかだな」
「ふふ、そうだね」
「……なぁ、コンビニ寄って帰ろうぜ。んで、プリン買ってこ」
「……うん!あ、あとちょうど食パン切らしてるから、明日の朝ご飯用に買ってこ」
「あ、オレ、オマエの作ったフレンチトーストが食いたい」
「フレンチトーストかぁ。最近作ってなかったもんね。うん、いいよ」
「よっしゃ!じゃあ、行くか」マイキー君が右手を差し出してくる。そっと左手を重ねれば、嬉しそうに私の指を絡めとって歩き始めた。コンビニに向かいながら何気なく空を見上げれば、ちかちかと綺麗な星々が瞬いている。さっきまではずっと俯いていたから、気づかなかったな。――きっとこれからも、こんな風に些細なことで喧嘩になってしまうこともあるかもしれない。だけどその度に、こうしてお互いに本音を言い合って、最後には仲直りして。こうして一緒に手を繋いで帰ることができたらいいなって、そう思う。繋がれた左手に力を込めれば、同じようにぎゅって握り返してくれる。それだけで胸がじんわり温かくなって、あぁ、私はマイキー君が大好きだなぁって、彼に出会えてよかったなぁって。そう実感させられてしまうのだ。
あなたの隣で生きていけるしあわせを、これからも。
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