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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
本社に戻ってきてそれなりの月日が流れ、支社の和やかなムードとは一変した、この慌ただしくピリついた空気にもようやく慣れてきた。
あちこちで打ち合わせの声は聞こえるものの、支社のときのような全員で談笑する賑やかさはない。
ふと、堤くん達は元気だろうかと思い出すけれど、彼を思い出すとセットで雅の顔が浮かんできて、私は思わず身震いした。
あの男は、堤くんに特大の嫉妬をぶちかました挙げ句、遠距離中にもかかわらず仕事を休んで強引に会いに来るような男で、その嫉妬の仕方も、お世辞にも可愛いと言えるような質ではない。
ぶんぶんと首を横に振って雑念を払い、デスクでキーボードを叩く。すると背後から「黒崎さん」と声をかけられ、私は数秒ほど固まった。
未だに「朝比奈さん」と呼ばれることも多く、この「黒崎さん」という響きに、咄嗟に反応できないことがたまにある。人によって呼び方が違うのは、私自身が「どちらでもいいですよ」と答えてしまったせい。
「……はい、どうしました?」
「この書類チェックをお願いしたいです。もし問題なければそのまま佐野さんに提出お願いできますか?」
「はい、承知しました」
黒崎と呼ばれるたびに、好きな男性と結婚出来たという実感が出来る嬉しさがある。その反面、ずっと名乗ってきた朝比奈の名前が消えていくことに、寂しさを感じてもいた。
嬉しいけれど、元のものも手放したくない。私は結構わがままな女で、こういう矛盾した感情をよく持っている。
仕事中、そんな小さなジレンマに苛まれてはいたけれど、今日は金曜日で明日は休みということもあって、結局私は雅に誘われた通り、バーへと足を向けていた。
少しばかり残業が重なり、遅めの時間にドアを押し開けると、週末ということもあって店内は活気に満ちていた。
たまたまいつもの席が空いており、そこに向かいジャケットを脱ぐ。すると、背後から「いらっしゃい、夏帆ちゃん」と穏やかな声が掛かった。
「玲くん! 忙しそうだね」
「忙しいけど、大丈夫だよ。お疲れ様」
この優しい笑顔には、いつも癒やされる。ここは玲くんのお店で、雅と二人で回しているのだが、この二人の顔面偏差値の高さゆえか、やはり女性客が多く入店する。
店自体の雰囲気が落ち着いているので、カップルや大人な常連客も多い。相変わらず老若男女に愛されている、居心地の良いバーだと思う。
「何飲む? というか、雅呼ぼうか?俺が作っても平気?」
「ん、お願い。雅は何してるの?」
「あそこ、お客様に気に入られてダーツしてる」
玲くんが指差した方へ視線を向けると、そこには笑顔で客と談笑しながらダーツを投げる雅の姿があった。
しなやかに腕を振る仕草すら様になっていて、癪だけど格好いい。
そう思うけれど、見つめていた時間は長くは続かなかった。雅が連れの女性客と楽しそうにハイタッチを交わした瞬間、私はふい、と顔を背けた。
いまだに自分の旦那のああいう場面を見るのは慣れていない。
「玲くん、ジントニックがいい」
「……似た者同士だよね。二人」
「何?」
「いいえ、何でも?」
玲くんが何を言いたかったのか、その時の私には理解できなかった。
客とのハイタッチ程度、仕事の一環だと割り切っているし、気になんてしていない。
玲くんはジントニックを作りながらクスッと笑って、私の方へ話しかけてくる。
「夏帆ちゃん、実は結構嫉妬するでしょ」
「しないよ。こんなので一つ一つ嫉妬してたら身が持たないし」
「嘘が下手」
そう言って揶揄う玲くんは、本当にやりづらい。
言い返してやりたいけれど、彼には隙がなさすぎる。
時々、玲くん目当てに店を訪れる熱心な客もいるけれど、彼は誰とも交際する気がないらしく、浮いた話は一つも聞かない。
「玲くんは結婚したいなとか思わないの?」
「思わない。俺は店が一番大事な男だから、他に大事な物が出来ちゃったら何かを蔑ろにしなきゃいけなくなるでしょ。だから一人で良い」
自分でもかなりの仕事バカだと思っていたけれど、玲くんも相当な仕事バカだった。
だけど、その理屈も分からなくはない。かつての私なら、そう言いながら仕事一筋でいいなんて言ったと思う。
今も仕事は好き。だけど雅との時間も疎かにはしたくない。両方を全力で大切にしようとして、時々どちらも中途半端になり、理想通りにはいかない。
「……でも不思議と後悔は無いなあ」
「え?」
「あ、ううん。こっちの話」
雅と結婚して半年間、一度たりとも後悔したことはなかった。
あの時、彼が強引にプロポーズしてくれなかったら、もし、この執拗な愛に絆されていなかったら、私は今も、情熱を仕事だけに注いで、一人で生きていたのだと思う。
そこまで考えたとき、後ろからぐいっと肩を掴まれた。
こんな振り向かせ方するなんてあいつしかいない。
見なくても分かる。
「夏帆、喉乾いた。奢って」
「あんたのお小遣いから減らしていく」
「ケチ」
「は?」
結婚を機に財布をひとつにまとめ、家の財布は私が握っている。二人してお小遣い制。とはいえ、お互いに独身時代の貯金はあるから、別に共有の財布から出さずとも困りはしないはずなのに、この変に甘えるような雅の悪癖は、結婚しても直る気配がない。
「で、何飲んでんの? ってジン?」
そう言いながら、勝手に人のグラスを空にするこの男、本当にカス。
思わずカスと呼びたくなるほどの最低な行為に、手が出そうになるのを必死で抑える。
私は溜息とともに、空になったグラスを玲くんに差し出した。
「玲くん雅に付けて、これ」
「はいはい」
「元々夏帆が口付けてたんだから、夏帆のだろ。それ却下」
「半分以上あったのを飲み干しといて何言ってんのよ!」
相変わらず、子供のような喧嘩ばかり繰り返している。
何歳になっても、この不毛でくだらないやり取りだけは変わらない。
「ダーツどうだったの?」
「負ける訳無いし」
「勝って可愛い女の子とハイタッチ出来て良かったわね」
「何、妬いた?」
「おめでたい頭ね」
カウンター越しにそんな軽口を叩きながら、雅は手際よく酒を作り、無造作に私の前へ差し出した。
そこには、作りたてのジントニックが置かれている。
「何これ?」
「俺の奢り。それ飲んで待ってて」
彼はそれだけ言い残すと、他のお客様の対応へと戻っていった。
なんだかんだと最低な振る舞いや発言を繰り返すけれど、最終的には私が損をしないように動いてくれる。常識があるのかないのか、わからない。
ふと視線をやると、雅は普段私には絶対に見せない営業用の笑顔を振りまき、客に可愛がられていた。私には憎たらしい笑い方しかしないけれど、それを嫌だと思ったことは一度もない。
なんて、少しでも思った私が馬鹿だった。そんな雅は女性客と至近距離で耳打ちし、楽しそうに笑い合っている。
前言撤回。営業スマイルの雅なんて大嫌い。
みんな、あの男の裏の性格にさっさと幻滅すればいい。
コメント
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「黒崎さん」と呼ばれるたびに湧く嬉しさと寂しさ——その矛盾を「わがまま」と認める夏帆さんの率直さに、すごく共感しました。雅くんとの子供みたいな喧嘩も、結局はお互いをちゃんと見てるからこそだなあと。最後の「営業スマイルなんて大嫌い」で思わず笑っちゃいました。憎たらしくて愛おしい、その距離感が絶妙で、すごく胸に残る回でした。