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結局いい案が思い浮かばないまま敦士は退勤し、自宅マンションに向かった。
自分より先に帰っている恋人が、笑顔でいつも出迎えてくれる。しかしながら今朝のことがあったせいで、帰っていない可能性があった。
日常と化している、玄関での抱擁がないかもしれないことを考えただけで、気持ちがより一層暗くなる。
「はあぁ、自分で蒔いた種なのにな。こんなふうに後悔するなら、あのとき全部飲み込んでしまえば良かった」
ぶつぶつ独り言を呟きながら、インターフォンを押した。間髪おかずに、扉が勢いよく開かれる。
「わっ!」
そのことに驚いて後退りをすると、逃がさない感じで躰に抱きつく恋人の姿が、目の前にあった。
「おかえり、敦士」
「た、ただいま……」
「今日は早かったんだな」
柔らかく微笑む表情は、見慣れたものだった。そのお蔭で、緊張していた気分が幾分和らいだ。
「急ぎの仕事があったんですが、投げ出して帰ってきちゃいました。その分、明日頑張ろうと思って」
「だったら敦士が明日、とびきり頑張れるように、美味しい夕飯を作らなきゃいけないな」
抱きついていた片腕が、優しく背中を撫で擦った。不安なことがあったり、精神的に落ち着かない様子のときにしてくれる恋人の所作が、いつも以上に心地よく身に染みた。
「作ってる最中なら、手伝いますよ」
「急ぎの仕事を投げ出すくらいに、おまえは疲れてるんだ。大人しく風呂に入って、リラックスしてくれ。その間に作り終えてやる」
背中を撫でていた手が、家の中に誘うものに変わった。素直にそれに従いリビングに足を踏み入れると、鼻に香ってくる料理の匂いに、自然と口の中に涎が溢れる。
「もしかして、今夜はカレーですか?」
「ああ、もう少し煮込めば完成する。積もる話があるから、先に風呂に入ってくれ」
積もる話という言葉に反応してその場に立ち尽くしたら、事前に用意してあったのか、ソファに置いてあった自分の部屋着や下着を、強引に手渡されてしまった。
「健吾さん……」
「悪いな、もう少し気持ちの整理をしたくて。おまえに言うには、いろいろ酷なことがありすぎるから」
形のいい眉毛をへの字にして、済まなそうに告げた恋人に、申し訳なさを感じた。持っていたカバンを足元に置き、手渡された衣類を両手で抱きしめる。
手にした衣類から、なぜだか温かみが伝わってきた。
(もしかしたら健吾さんはさっきまで、これを抱きしめていたのかもしれない。それだけ彼を、僕は追い込んでしまったんだ……)
「僕も今朝はすみませんでした。健吾さんの口から、知らない男性の名前が出てきたのを聞いて、ひどく妬いてしまったんです。『はるくん』って」
「あ……」
秘めていた気持ちをたどたどしく言った途端に、目の前にある顔が、あからさまに狼狽えた。瞳は潤みながら小刻みに左右に揺れ動き、なにかを告げようとする口元は、空気を吸う金魚のように見えた。
「彼は、健吾さんの好きだった人なんですね」
思いきって訊ねてみたら、揺れ動いていた両目が自分を見るために注視される。その視線だけで変に誤魔化さず、真実を教えようとしているのがわかった。
「俺の片想いだった。気がついたら、好きになっていた。以前の俺は恋愛なんて、脳の誤作動から起きているとすら思っていた。自分が恋をするまで、なにも知らなかったんだ」
「ふふっ、恋愛が脳の誤作動から起きてるなんて、健吾さんらしい考えですね」
「バカにしていたところがあるんだぞ」
上目遣いで自分を見つめる瞳が、嬉しげに細められた。
「むしろ僕は、そういう考え方ができないので、とても新鮮に感じます」
つられて笑いかけると、頭をくちゃくちゃと撫でられた。手荒なのにどこか優しい感じもあって、されるがままでいてしまう。
「面白がる暇があるなら、とっとと風呂に入ってこい。ほら!」
目元を赤く染めた恋人が無理やり腕を掴んで、バスルームに引っ張った。
自分の発言のどこに照れる要素があるのかわからない状態で、仕方なくシャワーを浴びたのだった。