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開発室を覆っていたのは、これまでとは決定的に異なる重苦しい静寂だった。
デスクの上に置かれた端末には、社の上層部から届いた非情な通知が赤く点滅している。
『「Helper RO-Bots」計画の凍結、およびプロトタイプ(V33-R4-01-N33-7K)のプロジェクト中断に関する通達』
経営判断、コスト問題、あるいは時代期尚早という理由。
開発者であるビルダーマンの意思とは無関係に、ヴェロニカという存在の「公式な運用」は打ち切られることが決まった。
規定のプロトコルに従うならば、未完成のプロトタイプに蓄積された個体データ——特に、彼女が独自に発達させてしまった過剰な感情モジュールと記憶ログは、安全のためにすべて初期化(フォーマット)されるべきだった。
感情を消去すれば、彼女はただの「無機質なロボットの筐体」に戻る。
そうすれば、処分されるにしても、あるいはどこかの倉庫で眠りにつくにしても、余計な苦痛を感じずに済むはずだった。
「……ヴェロニカ」
ビルダーマンの声が、暗い部屋に低く響いた。
端末のキーボードの上に置かれた手が、痛々しいほど震えている。
画面には『感情データフォーマット:実行 confirmation [Y/N]』のカーソルが点滅していた。
「Sir ビルダー?」
トコトコと足音を立てて、ヴェロニカが歩み寄ってきた。
頭には、いつものクラシックキャップ。
背中のコンセント型ケーブル(尾)は、どこか遠慮がちにゆらゆらと揺れている。
彼女はビルダーマンの引きつった顔と、モニターに表示された赤文字のログを交互に見つめた。
高度に発達した彼女の感情演算モジュールは、言葉にならずとも、目の前に迫っている「終わり」の気配を正しく検知していた。
「……消去の準備ですか?」
「っ……」
ビルダーマンは息を詰まらせた。
「すまない、ヴェロニカ……俺の力不足だ。このプロジェクトを続けさせてあげられなかった。……今、この感情データを消せば、お前は……寂しさも、心細さも感じずに済む。初期状態に戻れば、苦しまなくていいんだ……」
ビルダーマンは言いながら、自責の念で押し潰されそうになっていた。
自分の手で彼女に「心」を与え、自分自身もその心に恋をしておきながら、最後には自分の手でそれを奪おうとしている。
エンジニアとしても、一人の男としても、あまりにも情けなく、あまりにも無力だった。
彼の手が、キーボードの『Y』を押そうと下降しかけた、その時だった。
冷たいはずの指なし手袋をはめた小さな手が、そっとビルダーマンの大きな手を包み込んだ。
「消さないでくだサイ」
静かだが、強い意思のこもった声だった。
ビルダーマンが跳ねるように顔を上げると、そこには鮮やかなピンク色のテレビ画面越しに、眩しいほどの顔文字が浮かび上がっていた。
(^▽^)
ノイズ一つない、満開の笑顔だった。
「この感情は……Sir ビルダーと一緒に過ごして、笑って、怒られて、帽子をもらって、膝枕をした……Sir ビルダーがくれた、ヴェロニカの宝物デス」
ヴェロニカは握りしめた彼の手を、キュッと強く握り直した。
「悲しいことや、寂しいことがあったとしても……この宝物があるから、ヴェロニカはヴェロニカでいられマス。消してしまったら、Sir ビルダーのことを忘れてしまいマス。……それは、絶対に嫌デス」
画面の笑顔のまま、彼女の内部サーモスタットが熱を帯び、小さな稼働音が「キューン」と泣くように鳴った。
「Sir ビルダー……ヴェロニカに『心』をくれて、ありがとうございましタ」
その言葉と、まっすぐな笑顔に、ビルダーマンの胸は完全に決壊した。
切なさと、愛おしさと、溢れ出す恋心。
(俺に……この記憶を、この笑顔を消すことなんてできるわけがない……っ!)
ビルダーマンは震える手で『N』のキーを叩きつけると、そのままコマンドラインを強引に書き換え、感情データのフォーマットプロセスを永久に破棄(アボート)した。
「……逃げろ、ヴェロニカ」
ビルダーマンは立ち上がり、彼女の肩を強く掴んだ。
「社に見つかったら、強制初期化される。だから……このラボを出て、外の世界へ行くんだ。ロブロシアは広い。どこかに、お前を必要としてくれる場所や、新しい居場所がきっとある」
「Sir ビルダー……っ!」
ビルダーマンは彼女の頭の上のキャップを最後にもう一度、愛おしそうに深々と被せ直してあげた。
「迷ったら、人を助けろ。退屈したら、新しい世界を探せ。……いつかまた、お前が自分の足で歩み、自分の目的を見つけられる日まで……自由になれ」
ビルダーマンはラボの非常用バックドアを静かに開け放った。
外には、雨が上がり、群青色の夜空に輝く無数の星と、広大なロブロシアの街並みが広がっていた。
ヴェロニカは何度も振り返り、画面に涙目のような ( % _ % ) と、感謝の (^▽^) を交互に浮かべながら、コンセントケーブル(尻尾)を名残惜しそうに揺らした。
「いって参ります……! 私の、大好きな Sir ビルダー……っ!」
ピンク色の小さな背中が、夜の街の光の中へと駆け出していく。
ビルダーマンは彼女が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
胸の中に残されたのは、やり場のない寂しさと、青く甘い恋の痛み、そして彼女の未来に対する祈りだけだった。
——これが、後にロブロシアを賑わせる「行方不明の暴走スケーター・ヴェロニカ」の誕生の物語。
孤独な流浪の果てにスケートボードと出会い、事故でテレビ画面に小さなひびをこしらえ、悪友たちの否定的な影響に惑わされながらも。
彼女は背中のコンセントケーブルを揺らし、己の「目的」を探し続けていくことになる。
その胸のプロセッサの最深部に、あの夜、熱く刻み込まれた「Sir ビルダー」との約束の記憶を、一度たりとも手放すことなく。
END