テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
絵の具に染まった白いカーテンが、柔らかな風にそよぎ、赤や青、黄のまだら模様を空気に溶かすように揺れた。
その光景を映すように、モノクロの体に淡い色がひとつずつ染み込んでいく。
手首から肩へ、肩から胸へと、まるで筆の動きがそのまま体に宿るかのように。
知らない人間の手で、初めて画かれた目で見たその景色は、とても艶やかだったことだろう。
まだ乾ききっていないであろう絵の具の匂いが鼻をくすぐる。
筆先が滑らかにキャンバスを滑り、黄色や赤が交わっていくたびに、体がひとつずつ呼吸を始めるかのようだった。
その後も、自分の体が画かれていくのは、なかなか見ていて面白かった。
だんだんと体の輪郭や感覚がはっきりとしてきて、”生きてる”という感じが広がるようだった。
そして何より、楽しそうに俺を画く人間の姿を見ているのが面白かった。
その顔は絵の具で汚れていたが、それだけ集中している様子が伝わってきた。
夕日がキャンバスをオレンジ色に染め上げる頃、満足したのか人間はパレットやら筆やらを片手に去って行った。
足音が遠ざかっていき、暫くするとその足音さえ聞こえなくなった。
体を触ってみると、乾いていない絵の具のぺたりとした感触を感じた。
慌てて自分の指先を見てみると案の定、触った個所の絵の具が付いてしまっていた。
だが、絵画のポーズ的に手は見えていなかったので、まずバレないであろう。バレたとしても直してくれるはずだ。
それにしても、先ほどの人間はどこへ行ってしまったのだろうか。
――――――――――――――――――――――――
暫く時間が経って、絵の具が乾ききると、俺は額縁に入れられた。
金色の立派な額縁に、朝日が反射して眩しい。
そのまま梱包材と共に木箱に入れられて、何処かに運ばれていた。
「丁重に扱えよ、これは高価な品だ」
人間の声が頭上から聞こえる。低く落ち着いた声。なんとなく俺を描いた人間じゃない気がした。
その言葉が自分に向けられたものなのかを確かめたが、案の定答えは返ってこなかった。
美術館の戸が開き、ひんやりとした空気が箱の隙間から流れ込む。
先ほどまでとは違う、硬い足音が響いた。
まだ慣れない人間の気配に、体は緊張と期待の間で揺れていた。
人間たちは慎重に箱を抱え、展示室へと運び込む。
壁の前に静かに箱を下すと、傷つけぬように慎重に梱包を外し、額縁を壁に掛けた。
物差しのようなもので高さや位置を調節し、少し離れて満足げに頷いた。
作業を終えた人間たちが展示室を去っていく。
残されたのは、他の展示品達、鼻を刺すような油絵の具の匂いと、天井から降り注ぐ冷たい光。
そしてなれない景色に戸惑う自分自身だけだった。
――――――――――――――――――――――――
展示が始まると、人間がちらほらと足を運び始めた。
額縁から身を乗り出して、やってくる人間たちを観察していると、人間にも様々なタイプがいることが分かった。
歩きながら、流れるように作品を見ていく者もいれば、ひとつずつ足を止め、細部までじっくりと見ていく者もいる。
またある者は、終始無言で、まるで絵画の中に引き込まれるかのようだった。
自分が見られているというのは中々むずがゆいが、それと同時に誇らしくもあった。
自分自身が、俺を描いた人間が、認知されて、評価されるのがうれしかった。
あと、ここに来て初めて分かったのだが、絵画の中で動いたり喋ったりできるのは俺だけらしい。
そして、動いているということが、他の生物には分からないようだった。
今まで無視されていたのはそういうことだったのか、と納得し、すこし寂しさを感じた。
それから数日間はよく人間が来た。
鼻を刺すような匂いにも慣れ、人間たちの足音がリズムを奏でるかのようで心地よかった。
出入りが多いからか、人口密度が高いからか、気持ちの問題なのか、館内の空気が少し暖かく感じた。
一か月も経つと、目に見えて来館者が減っていくのがわかった。
足を運ぶ人間はいるが、最初のように立ち止まる者は減り、一瞥して通り過ぎるものが多くなっていった。
人間の興味関心というのは所詮その程度なのだろう。
「今日は寒いなぁ」とか、「お兄さんの服イケてんね」とか。
時々通り過ぎる人に話しかけてみたり、手でも差し伸べてみるが、もちろん気づかれない。
動けるとはいっても額縁から完全に出ることはできない。
そのせいで、景色も変わらなく、ひどくつまらなかった。
一年が経つ頃には、足音はほぼ聞こえなくなっていた。
かつては好奇心に満ちた目で立ち止まり、細部までのぞき込んでいた影も、今はもう見られなくなってしまった。
心なしか、学芸員の出入りも少なくなっている気がする。
最後に見たのは3日前だった。
前は毎日来ては、汚れなどがないか入念に確認していたのに。
ひんやりとした空気が表面を撫でていく。
絵画ゆえに、寒いとかいうものはあまりないのだが、この時だけはひどく冷たく感じた。
時々近づいてくる足音を聞いては、そっと身を乗り出し、その存在を確かめずにはいられなかった。
それからいくつか季節が巡り、ついに人間が来なくなった。
それは来館者だけではない。学芸員やスタッフまでもが消えてしまった。
薄暗い館内に、人の気配はもうない。
この美術館は色を失ってしまったのだろう。
――それからは長かった。
雨粒が灰色の絵具をこぼすように滲んでいく。
風は裂けたキャンバスのように壁を揺らした。
埃は降り積もり、空気は濁った溶剤のように重くなった。
隣の作品が額縁ごと崩れ落ちる。
体の色は少しずつ褪せ、鮮やかだった筆致も遠い記憶のようになっていった。
かつては光を受け、金色に輝いていた額縁も、塗装が剥げ内側の色が見えてしまっていた。
遠くの窓が砕け、外の緑があふれるように流れ込む。
銃声が静寂を破る。
かすかに聞こえる砲撃の音が、時間の感覚をゆっくりと歪めた。
湿った土の匂いが展示室に溶け込む。
水滴が床に散り、かつての賑やかさを塗り替えていく。
植物は蔦を伸ばし、壁を這い、作品を呑み込む。
鳥の嘴がキャンバスを裂き、ひとつの色彩が失われた。
残響も、ざわめきも、すべてが過去の絵の具のように剥がれ落ちていった。
それでも、廃墟の中で残るのは、かすかな温度と、色あせた筆跡の余韻。
この荒廃した美術館に静かに息づく、過去と現在の交錯。
季節が廻り、景色が変わり、それでも尚、生き続けるこの世界。
俺はただ、それを額縁の中で見つめていた。
―――それからどのくらいの時が経ったのかはわからない。
ある日、廃墟と化した美術館の中に新しい足音が響いた。
塗りつぶされていた感覚が再び色を取り戻すような気がした。
額縁から少しだけ体を出し様子を覗くと、数名の人間の姿が見える。
その人間たちは長い時間をかけて植物に飲まれた空間を、かき分けながら入ってきた。
それも、床に倒れている作品たちを踏まぬように、慎重に。
まるで空間全体を優しく扱うかのようで、荒廃した美術館の冷え切った空気に、ほのかな温もりを与えているような気がした。
そのうち、人間たちは損傷した作品たちの状態を記録した後、丁寧に梱包し回収していった。
「この作品大部分が損傷しているけど、大丈夫そうか?」
「うーん。まぁ取り敢えず全て回収しよや。ここに置いといちゃダメやろ。」
「おーいこっち手伝って!」
「これ、もしかしてあの作者のじゃね?」
「喋ってないで動けや」
そんな会話が聞こえてくる。
久しぶりの賑やかさに、確かな高揚感を感じた。
だが、随分と久しぶりに人間の声を聴いたが、こんな感じの喋り方だっただろうか。
前はもうちょっと落ち着いた感じだった気もするが、もうとうの昔のことで思い出せない。
「あ」
正面から声が聞こえ、顔を上げるといつの間にか、二人の人間が俺の前に立っていた。
人間は腕を組み少し離れて覗き込むように俺を見た。
一人は、前髪で片目が隠れていて前が見ずらそうだなと思う。
「…この絵だけ他のに比べて損傷が少ないな。」
また別の人間が「何かが守ってるみたいやな」と言葉を続ける。
確かに思い返してみれば、俺のほうには植物も鳥も来なかった気がする。
偶然運がよかったのだろうとも思ったが、もしかしたら何かに守られていたりするのかもしれない。
たとえば俺を描いた人間の気持ちとか。
ああ、あの人は今どこで何をしているのだろう。
今でも絵を描いているのだろうか。
もう顔も思い出せないけれど、どこかで元気でやっていてくれたら嬉しい。
そんなことを考えている内に、俺の額縁も梱包され、持ち上げられる。
揺れる木箱の中で、微かな懐かしさが広がっていった。
そう。初めてここに来た時もそうだった。
この美術館はあの時と何もかもが変わってしまったが、俺自身の心持ちは何も変わっちゃいないようだ。
雨や風、ほこり、砕けた窓や侵入してきた植物の匂い、すべてが徐々に遠ざかっていく。
代わりに、聞きなれない機械のエンジン音が響き、濡れたアスファルトの匂いと人間たちの話し声が、新しい世界への訪れを示しているようだった。
しばらく揺られ続けると、やがて静止し、俺が入っていた梱包の箱が開かれた。
暖かい光が差し込み、冷たく淀んだ空気が、澄んだ空気に塗り替えられていく。
それは、永い眠りから覚め、失われた色彩を取り戻していくかのようだった。
人間たちはキャンバスを額縁から外し、木彫の机に静かに置いた。
その机は所々に色とりどりの絵の具が飛んでいる。
顔だけを出し、周囲を見回すと、絵の具に染まった白いカーテンや、机に並べられているパレットナイフや筆。椅子に掛かったエプロン。
その光景は、あの日のアトリエにどこか似ているような気がした。
ふいに、俺の前に新しい影が落ちる。
顔をあげると、先ほどの人間たちとは違う一人の男が自分を見つめていた。
赤いマフラーにキノコ柄エプロンという謎の恰好。
不思議な格好の人間は、慎重な手つきで俺の表面に触れた。
その手はひんやりと冷たかったが、どこか暖かさを感じた。
「じゃあよろしくなー!」
先ほど俺のことを梱包したしま模様の服の人間がドアの隙間から手を振っていた。
目の前の人間は「あいよー」と軽く返事をし、こちらに向き直る。
そのまま置いてあった筆を手に取り、俺に向かって「元通りにしたるからな」と呟いた。
その後しばらくの間、人間は丹念に手を入れ、再びキャンバスに色を与えた。
乾ききっていない絵の具の匂いや、修復用の樹脂と溶剤の匂いがあたりに漂う。
筆先が表面を滑らかに滑る。
鮮やかな黄色や赤がキャンバスの中で交わり、染まっていく。
色あせていた体の色は、ゆっくりと色づき、元の艶やかさを取り戻していた。
見た目こそ似ていないものの、目の前のマフラーの人間は俺を描いた人間に手つきが少し似ている気がした。
もっとも、それは全くの勘違いかもしれないが。
やがて、修復が完了し、俺は再び額縁に入れられた。
金色の額縁。前と同じように朝日が反射して眩しかった。
マフラーの人間は満足げに頷き、エプロンを外し部屋から出ていった。
少しすると、あの時のしま模様の服の人間と共にかえってきた。
「え、めっちゃすごいやん」
人間は俺を見るや否や目を丸くする。
「お前何回も見とるやろ…」
「いやそうやけどさ」
「さすトン」と手を叩く。それに対し、さすトンと言われた人間は苦笑した。
「そんなこと言ってないでええからはよ持って行かんかい」
「あ、やっべ!」
人間は焦ったように梱包を始める。
静かに木箱に入れられ、持ち上げられた。
「じゃ、ありがとなー」という声が箱の隙間から聞こえた。
抱えて歩いているのだろう。しばらく揺られていると、やけに耳心地のいい新しい声が聞こえる。
「お、もらって来たん?」
「あたりまえよ」
「こっちやで」
見えないのでどういう状況なのかは分からないが、おそらく新しく現れた人間に案内されているのだろう。
ひんやりとした空気が箱の隙間から入り込む。
それと同時に、二つの足音が硬いものに変わった。
なつかしい鼻を刺すような油絵の具の匂い。
あの日のようだ。時代は変わって、色々なものが変わってもこの雰囲気は変わらなかったのだ。
揺れが止まる。
人間が立ち止まったのだろうか。
「じゃあここに置いとくで」という声と共に優しく箱が下ろされた。
「おーありがとうなー」
梱包が外され、急に明るくなった世界に目が痛くなった。
目が光に慣れてくると、てきぱきと作業する人間たちの姿が見えた。
その中にはあの片目隠れ人間もいるようだ。
人間たちは頭が金色だったり、銀色だったり青だったり、まぁ色とりどりだ。
やはりそういうところは昔と変わっているらしい。
まぁ、俺を描いた人間もオレンジ色の髪だった気はするが。
「おぉいちょっとぉ!サボってないでやってくださいよ!」
「ちょ、ヤニ…」
「お前、ここで吸うなよ」
賑やかで楽しそうだ。
ふと浮遊感があり少し驚いていると、顔に布を張り付けている人間が手袋をはめて俺のことを持ち上げていた。
いや、もしかしたら人間ではなくこういう生物なのかもしれない。
顔に張り付けているのではなく、これが顔とか。
長い時間が経っているようだし、謎の生物がいてもおかしくない。
「ちょいお前ら手伝えや」
この謎の生物が口を開くと耳心地のいい声が広がった。
どうやら先ほどの人間はこいつだったらしい。
謎の人間的なやつは、そのまま額縁を壁に掛けた。
こういうところは昔と進化していないようだ。
額縁を掛け、少し離れたと思ったら急に何かを探し始めるようなそぶりを見せた。
「水平器ある?」
「あ、ちょっと待ってくださいね」
銀色の髪の人間が探しに行こうとすると、しま模様の服の人間が何かを掲げた。
「ここにあるで」
「あんがと」
人間的なやつは水平器と呼ばれたものを受け取り、額縁の下の部分に合わせる。
水平器というくらいだから、これで水平が測れるのだろう。
便利なものだ。昔はこんなものなかった気がする。
先ほどは進化していないとか言ったが、やはり進化しているのだろうか。
「こっちは終わったけど、どうや」
あの片目隠れ人間が硬い足音を響かせながら近づいてくる。
「今終わったわ」
「よし、じゃあずらかんべ」
「その言い方じゃ盗んでるんよな」と、俺を梱包してた緩衝材やら木箱やら、先ほどの水平器とやらを持って歩きだす。
そうして、一瞬の賑やかさは嵐のように去っていった。
一人残されすこし寂しい感じがした。
改めてあたりを見回してみると、壁、天井、床全てが驚くほど真っ白であった。
昔、人間は同じ色しかない場所に行くと気が狂うとかいう話を聞いたことがあった気がしたが、これは大丈夫なのだろうか。
さらに、全面真っ白に飽き足らず、この部屋には俺以外の作品が何もなかった。
通常、こういう単体で展示する作品は、サイズが大きいもの、つまりスペース的にこうせざるを得なかったもの。
それか、特殊な環境が必要なものなどだ。
俺は別に大きいわけでもないし、前の美術館では普通に展示されていたため、特殊な環境でとかではないだろう。
あとは、その作品が特別、重要な意味を持つものであればこのようにして飾られることはある。
だが、残念ながら俺はそんな大層な意味を持ち合わせていない。
何らかの意図があるのだろうが、さっぱり心当たりがない。
ふと、小窓から見える青空が、絵の具を溶かしたように清々しく爽やかだった。
俺があそこまで歩いて行けたら窓を開けれたのに。
なぜ人間はあの空を生で見たいと思わないのだろう。
人間の考えはよくわからないものだ。
―――――――――――――――――――――――――
三回ほど、夜空を見た日の朝。
新しい足音が耳に届いた。
そういえばあの人間たちが、今日から一般公開がはじまるとか言っていたような気もする。
聞いていなかったのでよく覚えていないが。
沢山人が来るのだろうか。
そう思い、できる限り身を乗り出し通路を見ていると、二人の人間が見えた。
一人は深緑色のローブのような服をまとった人間。なぜか顔が陰でよく見えない。
もう一人は、薄い茶色のベストを着ている人間。
こっちの人間の服装は、深緑の人間に比べて見覚えがある感じだった。
昔もこういう感じの服を着ている人間がいたし。
二人の人間はゆっくりとこちらに近づいてくると、俺の前で静かに静止した。
「へぇ~これが『黄色い観測者』ねぇ」
「あ、結構美人さんやね」
「えこれ女なん」
「え」
「俺は男や…」と一応ツッコんどいたが、届かないのでどうしようもない。
まぁ、芸術というのは人によって色々な解釈とかがあるからいいのだが。
「でも観測者ってどういう意味なんやろ」
「黄色ってのもやね。そんな黄色要素…あるにはあるけど」
「オーバーオールとかな。てか、これ描かれた時代ってオーバーオールあるん」
「確かに。これ何年に描かれたやつや」
ベストの人間が、屈んで額縁の下にある作品説明を覗き込む。
深緑の人間も立ったままそちらに視線を向けた。
「何年やった?」
「あー、え300年前!」
そんなに経っていたのか。
そりゃ服とか髪色とかも変わっているわけだ。
「え、なっが」
深緑の人間が目を丸くする。
まぁ落ち陰で口元しか見えないのでこれはあくまで想像だが。
恐らくそのくらい驚いているだろうということだ。
だが、そっくりそのままその言葉を人間たちに返そう。
俺が今一番驚いている。
「これ制作日も書かれてるんや。めずらし」
「普通書かれてないんや」
「うん。書かれて…ないね。うん」
制作日なんて書かれていたのか。
何日なのだろう。
「9月22日?今日やん。すご」
「へーえっぐ。運命やん」
運命やん部分がとても白々しい。
9月22日に作られたのか。というか今日9月22日なのか。
今日一日で新情報が山ほど出てくる。
「じゃあ誕生日ってことか。おめでたやん」
ベストの人間が「んな」と、手を組んだ。
誕生日は知っている。
人間が生まれたことを祝う日のことだろう。昔人間が言っていた。
そして通常”物”に対して”誕生日”という言葉は使わないそう。
命がないから、誕生という言葉が当てはまらないのだろう。
つまり俺は”誕生日”には当たらないのだ。
だが、なんだろう。
向けられた表情が暖かい。
なんだ。
俺は前にも同じ表情を見た気がする。
そうだ、俺は
――――――――――――――――――――――――
「できたぁ…!」
俺を描いた、オレンジ色の髪の人間が、静かにパレットと筆を置く。
そのパレットは、混色しすぎて暗い色ばかりになっていた。
「我ながら天才か俺」
誇らしげな表情を浮かべたその時、部屋の戸を叩く小気味の良い音が響く。
人間が「はーい」と返事をしつつ戸を開けると、茶色いふわふわとした髪の毛の人間がちらりとみえた。
「おぉ…えらいノリノリやん」
「そりゃそーよ」
「あ、もしかして出来たん?」
それに対し、「こっちきてみ」とその人間を招き入れる。
人間は俺を見るや否や「おぉ…」と感嘆の声を漏らした。
あんまりにじっくりと見つめるもんで、キャンバスに穴が開くんじゃないかと思ってしまうほどだった。
しばらく無言で見つめたのち、「うん」と頷いた。
「すごいやん。結構いいんちゃう」
「結構ってなんや」
文句を言う人間を、茶色い髪の人間が軽くあしらいつつ話を続ける。
「これ、タイトルとか決まってるん」
「あー、確かに。決まってへん」
「お、マジ?」
「じゃあ俺が考えたるわ」と言い、腕を組み考えてるのか視線を右上に泳がせる。
少し黙り込んだ後、人差し指を立てた。
「モナリザ」
「既にあるやつや…」
「流石にダメやったか…」
オレンジ色の髪の人間が、目に見えて気落ちしているのがわかった。
片や茶色い髪の人間はそんなことには目もくれず、部屋の中をせわしなく見回している。
何か気になる物でもあるのだろうか。
「タイトル…タイトルぅ?」
こっちの人間はまだ考えていたらしく、そのうち頭が地面につくんじゃないかというレベルまで首をかしげていた。
例えるなら、まさにバナナだろう。
「そんな悩むことある?」
茶色い髪の人間は、いつの間にか手に入れた面相筆を両手に持ち顔を覗き込む。
それに気づくと、しっかり「それどっから持ってきた」とツッコまれる。
そして、改めて俺を見た。
煌めくオレンジ色の瞳と目が合う。
沈黙の中、静かに息を吸う音だけが聞こえる。
絵の具に染められた白いカーテンが風に吹かれふわり。
机に置かれた平筆が乾いた音を立てて落ちた。
それを合図に、人間は口を開いた。
「黄色い観測者」
「え?」
「タイトル!『黄色い観測者』!」
「えぇ…黄色はわかるけど、観測者?」
茶色い髪の人間が首をかしげる。
オレンジ色の髪の人間が、トルソーに置かれていた俺を持ち上げ、掲げた。
「こいつは、俺の見れない景色を見ていてくれるから」
「はぁー…だから観測者か」
「そうや。こいつは俺の目。こいつがいる限り俺は生き続けれるんやってな。だからな」
キャンバスを顔の高さまで下し、俺に対し「ありがとう」とほほ笑んだ。
この時は、何を言っているんだろうと思っただろう。
俺は見れても、それをこいつが見れるわけじゃない。
俺が生き続けられても、こいつが生き続けられるわけじゃない。
そういうもんだ。
人間という生き物はつくづく意味が分からないのだ。
「ばからし」
思わずこぼれた言葉に、人間はなぜか少し悲しそうに笑った。
そうなぜか。
俺の言葉は人間には分からないはずだったのだ。
なのにこの時は、聞こえていたのか独り言なのかは分からないが、
「いや、生き続けれるんやで。きっと――」
――――――――――――――――――――――――
「俺の気持ちだけは」
「なんそれ」
ベストの人間がしみじみというのに対し、深緑の人間が呆れたように質問した。
「えーっとね、なんか作品が生き続けるなら、自分の気持ちも生き続けられるみたいなことを言った人がいてね」
「ふーん」
「あっ、興味なさそうやね」と人間が肩を落とす。
「生き続けられる、ねぇ」
「…でも、案外間違いじゃないのかもよ」
淡い茶色の瞳が俺を捉える。
あ、この目。あの時と同じ。
煌めく星雲のようだ。
「その物に込めた思いは、物が壊れるまでは続いていくんやろ」
ばからしいことだろう。
生きられる、続いていく、なんてそんな都合のいいことはないんだ。
景色は移り変わるし、人間もいずれ朽ちていく。
物だって、俺だって、いずれ崩れてなくなってしまうんだろう。
だけどきっと、あの人間の、あの人の思いは、あの時の記憶は、色彩は、匂いは、音は、俺の中で生き続けるのだ。
あの人はもういないけど、あの人の気持ちだけは続いて、生きているんだって。
そういうことなんだろう?
そういうことを、いいたかったんだろう?
「…ふーん」
少し視線を足元に向けた後、深緑の人間が改めて俺に向き直った。
「……じゃあ、違うとこ行くか」
「せやな」
そう言い視線をずらす。
俺に背を向け、歩き出そうとする二つの背中。
その時、風がカーテンを揺らし、鼻を刺すような絵の具の匂いが広がった。
それを合図に俺は口を開いた。
「―――、ありがとう」
ふいに、深緑のパーカを着る、顔の隠れた人間がこちらを振り向く。
「…どうしたん?」
薄い茶色っぽい色のベストを着た人間が不思議そうに首をかしげた。
しばらくこちらを見つめていたが、やがて「何でもない」と再び歩き出した。
硬い足音が遠ざかっていく。
ヒンヤリと、暖かい風が俺の肌を撫でていった。
小窓から、あの日の夕焼けが見える。
絵の具を溶かしたように、美しい、儚いものだ。
この先、俺が生き続けられるかどうかはわからない。
あの空のように、一瞬の命だ。
また、あの美術館のように廃れて、もう誰の目にもつかなくなるかもしれない。
誰かに塗りつぶされてしまうかもしれない。
破り捨てられてしまうかもしれない。
きっと人生とはそういうものなのだろう。
でも、忘れないでいてほしい。
俺の、俺を描いた人間の気持ちが、この先遠い未来まで生き続けられるかもしれない。
絵でも、服でも、小説でも、命を込めて何かをつくったなら、あなたの気持ちはずっと生き続けられるかもしれないから。
俺が、あなたの目になるから、命になるから。
だからどうか、命を込めて、大切に、そしたらきっと。
――――――――――――――――――――――――
微かに残る乾いた絵の具の匂い。
筆跡に宿る色と温度。
修復された体は元の艶やかさを取り戻し、額縁の中で静かに息づいていた。
あの人がここに込めた思いも、色と匂いと温度に溶けて、確かに生き続けている。
俺はその余韻を、額縁の中からそっと見つめていた。
コメント
2件
すごい感動しました!! 言葉では言い表せないですが、額縁の中での思いとか考え、気持ちが細かくて、見ていてとてもわくわくしました!!