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皆が仕事に出払ったあとの応接間は、がらんとしていた。太陽光に照らされるパームトゥリーの幹の陰影、車の屋根の錆、折れ曲がったカーラジオのアンテナの先。初めて来たときに見た同じ窓を、健太は今、反対側から見ている。
壁時計を見ると、午前十時半をまわっていた。あの車のキーを廻せば、新しい日々が始まるらしい。昼はツヨシと新居で取ることになっている。 気がつかなかった。振り返ると、部屋を分ける曇りガラスの戸が開いており、しいんとした食堂にじいさんの背中が、一人ぽつんとあった。健太はじいさんの正面へまわって、骨と皮だけの両手を取ると、老人は控えめな笑みを返すだけだった。 そういえば一つ聞きたいことがあるんですけど。奈々はもう出かけましたよね、と健太は言った。「朝から見かけないよ。学校だろう」とだけ老人は答えた。 奈々のことなら何もかも知っていたはずの健太だったが、裏庭のバンガローに荷物を移して以降は、なにも知らない。ただときより見かけることはあったが、家を出る時間と帰宅時間を極力ずらしてきた。元のように毎日顔を合わせれば、また未練も湧いてしまったことだろう。とにかく、最近の彼女の時間割など知る由もない。もう知る必要と理由はなくなったのだ。他人になるとはこういうことなのだろうか。
食器棚からコーヒーカップを取り出す。奈々のコーヒーを飲みながら、このテーブルでよく手を取り合ったものだ。今更どうしてそんな微笑ましいことばかりが思い出されるのかは、よく分からない。 台所の電熱器のスイッチをつける。蚊取り線香のように渦巻き型をした鉄鋼は、みるみる赤褐色へと変わっていく。手をその上空にかざして、熱がじんわり伝わってくるのを確認してから、コーヒーの入った銀の容器を載せた。香ばしい匂いが妙になつかしく思える。
犬の吠える声が聞こえた。廊下からドアの閉まる音が聞こえた。
健太は息を止めた。
赤いコートが、茶色の皮鞄を持って健太とじいさんの間を足早に通り過ぎた。
二年前の冬、初めて出会ったときも、奈々はあのコートを着ていた。そういえば、別れてから今日まで姿を見かけるたびに、いつもあの服を着ていたことに今更ながら気づいた。
「彼女が出て行くよ」じいさんは言った。
ああ分かってる、と健太は絨毯に目を落とした。
「彼女が出て行くよ」じいさんは繰り返した。
ああ、分かってる、と健太は繰り返した。
老人はそれ以上は言わなかった。顔を上げると、じいさんは真正面から健太を見据えていた。
窓に目を移す。奈々の姿が陽光の中にあった。背中まで伸びていた長い髪は切られ、健太と同じ肩までになっている。銀のフェスティバの前を通り過ぎると、姿は窓のフレームから消えた。一瞬のことだった。
今この瞬間、彼女との長い生活は、全て思い出へと変わった。一つの時代が終わった。これで、本当の完結だ。
「行ってあげな」じいさんは言った。
健太はあごを引き、眉を集め目を大きくした。
老人の皺だらけの顔は微動だにせず、じっと健太を見つめている。
「行ってあげな」じいさんは繰り返した。
健太は身体を動かさない。
老人は視線を動かさない。
全ての音が消えた。
全てのときが消えた。
健太は、小さくうなずいた。
玄関を突き破る。庭の石畳を無視して芝生の中を走る。フェスティバの前を右に曲がる。一直線の長い下り坂が広がる。彼女の後姿が、ずっと先方にあった。いつも手を伸ばすとそこにいたはずの身体が、遥か彼方の手の届かないところに行こうとしている。
走る。
息があがる。
赤いコートだけ見てる。まわりなんて何も見えない。
走る。
「奈々」
追いついた。彼女は立ち止まらない。
「奈々」
彼女は少しずつ歩速を弱め、止まった。
健太は彼女の斜め後ろに立っている。
呼吸が整わない。
「奈々」
彼女は下を向いたまま、ゆっくり振り向いた。
健太は平静を装って、呼吸の乱れを抑える。
彼女は黙っている。
呼吸の乱れはもうない。
「……がんばれよ」
彼女は目を伏せたまま、うなずいた。
彼女がゆっくり前に向きなおり始めたとき、健太も健太の前を向いた。今やそれが正反対になったのだと、このとき知った。
(了)