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「僕」はこの人を知っている。
この人の顔を見たとき、ふとそう思った。
もちろん話したことどころか会ったことも記憶にない。
ないはず、なのに。
この感情は、なんだろうか。
嗚呼、苦しい、と。
漠然とそう感じた。
何かがぼくの中で暴れている。
何かがぼくの中で叫んでいる。
たすけなくては。
ぼくは、このひとを、たすけなくては。
何かに急かされながら、ぼくは口を開いた。
「…………あなたは、だれですか?」
僕の思いとは裏腹にするりと口から出た言葉は、目の前の青年を傷つけるには十分すぎた。
嗚呼、ごめんなさい、名前も知らない貴方。
ぼくはこんなことが聞きたい訳ではなかったのです。
ぼくは唯、
貴方にべったりと纏わりついてみえる赤黒い血を
優しく拭いたかった、だけなのです。
たとえ、頬に触れようとした腕はぴくりとも動かず、
言いたかった言葉は宙に浮かんで消えたとしても。
目の前の青年がぱちくりと目を見開いている。ぼくが起きたことがそんなに驚くべき事だろうか。未だにぼくの耳にはすすり泣く声がこびりついている。
…………すすり泣く声?
誰が泣いたんだ?
ぼくではないとすれば、思い当たるのは1人しかいない。
ここは、どこなんでしょう…?と曖昧に笑い、当たり障りのない質問をしながらぼくは先程の声を思い出す。
……嗚呼、やはり。あの声の主は1人しかいない。ぼくの大切な、大切な恩人にして『愛』を教えてくれたただ一人の人物。
其の人が、泣いている。誰彼構わず無条件の優しさを与え続けているあの人が、今この瞬間に、悲しみに暮れて泣いているのだ。
あの人を助けてあげたい。ぼくに光を魅せてくれたあの人に、今度は溢れんばかりの愛のお返しを。
相も変わらずぼくを取り巻いているのは灰色の世界だけれど。ぼくの心は灰色に覆われて、とっくの昔にくたびれてしまったけれど。
貴方には、ぼくの代わりに、何もかもが鮮明な世界で何時までも笑っていて欲しいのだ。
「………あの」
新たな決意を胸に秘め、使命感に燃えながらぼくは目の前の青年に問いかけた。
「だざいおさむってひと、しりませんか?」
血染めの包帯にくるくると巻かれた白い指先がぴくりと動く。長い睫毛に覆い隠された鳶色の瞳が、ふるりと震えた気がした。
「………太宰治を探しているのかい?」
目の前の青年がぼそりと敦に問う。その表情は、柔らかな蓬髪が落とす影によってよく見えなかった。
「はい。」
ぼくの胸によぎった微かな違和感に気づかない振りをしながらぼくは覚悟をもって返事をした。それを聞いた青年は初めて顔を上げる。とても端正な顔立ちだった。男女問わず虜にしてしまいそうな程の。そして、青年はその美しい顔を歪めて悲しげに笑った。
「………そっか。」
ぼくの中で何かが再び暴れ出す。なんだ、これ。今まで感じたことのない感覚に敦は混乱した。それを気まずさからくる焦りだと受け取った青年はいっそ恐ろしい程に完璧な笑みを浮かべ、敦に話しかけた。
「実は太宰くんと私は知り合いでね。今彼は出張に行っているのだよ。見たところ君は太宰くんに会いたいのだろう?私でよければ太宰くんへの言伝を預かろう。」
「……ぁ、……え、と………」
そのままぺらぺらと話す青年に敦は困惑した。何かを隠すようにやや早口で喋っているように聞こえるのは敦の気の所為だろうか。未だに身体に力が入らない敦にとって、この青年の提案は好都合だ。きっとこの青年なら一言一句違わず太宰に伝えてくれるだろう。だけど、と敦は一人物思う。あの人ならば、敦の体調を第一に気遣ってくれるはず。
『私に言伝かい?それは君自身で私に言いに来給え。もちろん体調が良くなってからね。』
と、茶目っ気たっぷりに言うあの人の影が過ぎった。直感に従うままに敦は口を開く。
「ありがとう、ございます。でも、これだけは自分で伝えたくて…」
と申し訳なさげに断ると、青年はにこやかに
「嗚呼、構わないよ。こちらこそ出過ぎた真似だったようだ。ゆっくり休むといい。」
と丁寧に応えてくれた。眠るまで撫でてあげようか、と悪戯げに言う青年に何処となく既視感を覚えながら、敦は眠そうな声でお願いします、と言った。予想外の返答だったのか青年の目がほんの少し見開かれるが、そろりと敦の頭に手のひらが置かれる。少し低めの体温が肌を撫でていくのを感じながら敦の意識はふわふわと暗闇へ落ちていく。
明日にはきっと自分の世界が一筋の陽に照らされていることだろう。
そう何度願っただろうか。
今度こそ。
今度こそ約束を守ろう。
貴方と共に陽の元を、軽やかにそれでいて悲しげに歩きながら
貴方に面と向かって、言うんです。
「貴方を愛してしまった僕を、どうか許して」
だから、だから
お願いだから、泣かないで
ぼくの_______________
ぶくり、と。微かに敦の意識が浮上した。それは唯暗闇の中に浮かぶちっぽけな泡のようなものだったが。頭の方を撫でていくその感触は何処か懐かしくて。……………いや、何かが、違う。
僕は
この手のひらを
よく知っている。
寝ている僕を気遣うその小さな足音も
その静かで穏やかな呼吸も
すべて、全て、総て
貴方のものだ。
ぶくり、ぶくりと。少しずつ、しかし確かに、泡の数が増えていく。貴方は、そこにいる。きっと待ってくれている。なのに、どうして。どうして、この瞼は開いてくれないんだ。人を愛し愛される方法も、灰色の世界に彩りを取り戻す術も貴方に教えてもらったはずなのに。
僕はいつまで、迷子の振りを続ければいいんだ?
らら、らり、るら
ーーーー低くて穏やかな
らら、らり、るら
ーーーー愛しい愛しい
らら、らり、るら
ーーーー貴方の歌声が聞こえる。
嗚呼、ごめんなさい、愛しい貴方。
僕はもうとっくに夜に塗り潰されているのに。
名前も忘れてしまった貴方を
解放してあげることすらできない僕を
どうか、赦して
ぱちんと泡が弾ける音が聞こえた。
はず、だった。
突然激しい稲光が、僕の頭を横殴りに襲う。
早く起きろ、と。
目を覚ませ、と。
何かの雄叫びが聞こえる。
嗚呼、そうか。
お前はずっと傍に居てくれたのか。
僕を導いてくれていたのか。
お前はずっと、進むべき道を指し示してくれていたんだね。
もう、大丈夫。
僕はもう迷わない。
バチバチと視界の端が弾ける感覚に、僕はゆっくりと目を開く。
何処かで満足げな鼻息が、聞こえた気がした。
静かに現れた朝焼け色の瞳が、鳶色の瞳を真正面から見据えた。ゆらゆらと水面のように揺れる鳶色の瞳を携えた青年は頼りなさげな笑みを浮かべ震えた声で、
「ほら、明けない夜はなかっただろう?」
と言い、同じように震えた手ですり、と敦の開いた瞼に触れた。壊れ物を扱うかのように優しく触れる青年に敦は堪らずふにゃりと笑みをこぼす。それにつられて、ふわりと微笑んだ青年は幸せそうに告げた。
「君を、信じていたよ。」
小窓からは柔らかな黄金色に輝く朝日が二人を祝福するかのように照らしている。それをきらりとはね返す白磁の虎の少年の瞳は、確かに黄金色をとらえていた。
「……………太宰さん。」
「なあに?」
「太宰、さん。太宰、治さん。嗚呼、そうだ、貴方のお名前だ。ねぇ、太宰さん。」
「なあに?」
「…………怒って、ますか…?」
「………ふふ、まったく、敦くんてば、ほんとに馬鹿だねぇ。」
額に柔らかく小さな接吻を落とす太宰に、敦は幸せそうに微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
次にその瞳を開いた時には、何処までも透き通った蒼い空と鮮やかな世界が約束されていることを確信して。