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第一話 瑞樹(ずいじゅう)
西暦二百年頃――中国大陸。
山々に囲まれた、小さな村があった。
大きな城もなければ、立派な道もない。
土と木で造られた家々が寄り添うように並び、その周囲には畑が広がっている。
朝になれば鶏の鳴き声が響き、昼には畑仕事をする村人たちの声が聞こえる。
決して豊かな村ではなかった。
それでも、この村には一つだけ自慢できるものがあった。
人と人との繋がりだ。
困っている者がいれば誰かが手を貸し、食べ物が足りなければ分け合う。
村人のほとんどが、家族のように暮らしていた。
その村に、チャニという少女がいた。
「お兄ちゃん! 私、森に木の実を拾いに行ってくる!」
家の奥へ向かって、チャニは元気よく声を上げた。
年は十七歳。長い黒髪を後ろでまとめ、使い古したカゴを背負っている。
「また行ってくれるのか?」
家の中から青年が顔を出した。
チャニの兄だった。
幼い頃に両親を亡くしてから、兄は親代わりとなってチャニを育ててきた。
決して裕福ではない。
それでもチャニが腹を空かせないよう、自分の食事を減らしたこともあった。
そんな兄を見て育ったからだろう。
チャニもまた、人のために働くことを嫌がらない少女になった。
「うん! 昨日、お兄ちゃん畑仕事で疲れてたでしょ? 今日も私が行く!」
「別に無理しなくてもいいんだぞ」
「無理してないって!」
チャニは笑いながら胸を張った。
兄もつられて笑う。
「いつもありがとう、チャニ」
「えへへ」
「でも森は危ないから、あまり奥まで行くなよ。暗くなる前に帰ってこい」
「はーい!」
カゴを背負い直し、チャニは家を飛び出した。
「行ってきまーす!」
チャニは村の道を歩いていく。
道の両側では、朝から村人たちが働いていた。
野菜を並べている男がチャニに気づく。
「おっ、チャニ。また森へお使いかい?」
「うん!」
「働き者だなあ。兄ちゃんも助かるだろ」
「帰ったらご飯も作るんだ!」
「ははは! そりゃ大助かりだ!」
男は笑いながら、大きな青菜を一つ持ち上げた。
「ほら、これ持ってけ」
「えっ、いいの?」
「昨日採れすぎたんだ。どうせ余る」
「ありがとう!」
チャニが受け取ると、向かいの家から老婆が顔を出した。
「あらチャニちゃん、今日もお手伝いかい」
「そうです!」
あちこちから声をかけられる。
チャニもそのたびに笑顔で返した。
いつもの村。
いつもの朝だった。
────────
村から少し離れた森。
木々の間から差し込む陽光の下を、チャニは歩いていた。
足元には落ち葉が積もり、ときおり鳥の鳴き声が聞こえる。
「うーん……」
チャニはしゃがみ込み、落ちていた木の実を一つ拾った。
カゴに入れる。
しかし、中身はまだ半分にも満たない。
「今日はあんまり取れなさそう……」
さらに奥へ進む。
「あっ」
木の根元に何かを見つけた。
チャニは駆け寄ろうとして――止まった。
茶色い毛。
細長い顔。
角。
「……鹿?」
鹿の頭だった。
チャニの表情が固まった。
首から下がない。
周囲を見ても、胴体らしきものは見当たらなかった。
「……なに、これ」
チャニは一歩後ずさる。
兄の言葉が頭をよぎった。
――あまり奥まで行くなよ。
「今日はあんまり取れなかったけど……帰ろう」
チャニはカゴを抱え、来た道を戻り始めた。
少し早足だった。
やがて。
一匹の小さな蛾が、チャニのそばをを飛び回ってる
「……?」
もう一匹。
そして、もう一匹。
三匹。
四匹。
五匹。
「え……?」
木々の隙間から、無数の蛾が現れていた。
十。
二十。
数え切れない。
羽音が重なり合う。
ざわざわ、ざわざわと、森そのものが蠢いているようだった。
大量の蛾がチャニの周りを飛んでいる
「な、なに……?」
そして。
森の奥から――巨大な影が現れた。
「……え?」
チャニは動けなかった。
蛾だった。
だが、チャニの知っている蛾とは大きさがまるで違う。
人間よりも遥かに巨大な胴体。
広げられた巨大な羽
「う、そ……」
チャニは尻餅をついた。
カゴから木の実が転がる。
逃げなければ。
頭ではわかっている。
なのに、足に力が入らない。
巨大な蛾がチャニへ近づいてくる。
「来ないで……」
さらに近づく。
「来ないで……!」
次の瞬間。
巨大な蛾が猛烈な勢いで突進してきた。
「――っ!」
チャニが目を閉じる。
その瞬間だった。
「伏せろ!」
男の声。
尻餅をついたチャニの頭上を、1人の青年が飛び越え青年の持っていた一本の矛が巨大な蛾の顔をかすめた。
紫色の液体が飛び散り、巨大な蛾は後退していく
「……え?」
チャニが顔を上げる。
一人の青年が立っていた。
年は十八ほど。
腰には刀。
手には長い矛。
そして背中には、妙に大きな木箱を背負っている。
青年はチャニを庇うように前へ出た。
「怪我は?」
「え……あ……」
そのとき。
ガタッ。
青年の背中の木箱が動き、蓋が開いた
中から何かが飛び出した。
巨大な――目玉。
青年の顔より一回り大きいほどの、一つ目玉だった。
赤い瞳を持つ目玉が、宙に浮かんでいる。
青年の顔色が変わった。
「バカ! お前、出てくんなって!」
目玉は青年を無視して巨大な蛾を見る。
「おいおい、今回のもでけーぞ?」
目玉が笑うように上下に揺れた。
「倒せんのかよ〜、ユンチャオ」
「うるさい」
チャニは口を開けたまま動けなかった。
巨大な蛾。
無数の蛾の群れ。
空を飛び、言葉を喋る巨大な目玉。
そして、ユンチャオと呼ばれた謎の青年。
何が起きているのか、一つも理解できない。
その瞬間、巨大な蛾が再び突進した。
ユンチャオは矛を持ってない方の手のひら巨大な蛾にむける
「――動くな」
ドンッ!
巨大な蛾の動きが止まった。
まるで見えない壁へ正面から激突したように、その巨体が空中で押さえつけられている。
「え……?」
チャニは目を見開いた。
ユンチャオは矛を構えた。
「そのまま動くなよ。」
踏み込もうとした――そのとき。
巨大な蛾の口が大きく開き、大声で叫び始めた。コウモリの超音波のような叫びだった
「まずっ」
ユンチャオの動きが止まる。
チャニも地面に手をついた。
体が言うことを聞かない。
「な……に、これ……!」
巨大な蛾はその隙を逃さなかった。
羽を広げ、一気に上空へ飛び去っていく。
周囲の小さな蛾たちも、それを追って消えていった。
しばらくして、ようやくユンチャオが立ち上がる。
「逃げられたか……」
そしてチャニへ振り返った。
「大丈夫だった?」
「大丈夫じゃねーだろ。見たらわかんねーのかよ、ユンチャオ」
目玉が言った。
「黙れ」
ユンチャオはチャニへ手を差し出した。
「立てる?」
「……はい」
その手を掴み、チャニは立ち上がる。
「自分で帰れるかい?」
「はい……あの」
チャニは森の奥を見る。
「さっきの蛾……何なんですか?」
ユンチャオは少し考えてから答えた。
「あれは――瑞獣だ」
「ずい……じゅう?」
「瑞獣っていうのは、その生物種すべての頂点に立つ、唯一の個体のことだ」
チャニは首を傾げる。
ユンチャオはわかりやすい例を探すように顎へ手を当てた。
「例えば蜂。ミツバチもいれば、スズメバチもいる。世の中にはいろんな蜂がいるだろ?」
「はい」
「そのすべての蜂の頂点に立つ、たった一匹の長がいる。それが――蜂の瑞獣だ」
「じゃあ……」
チャニは蛾が消えた方向を見る。
「さっきのは……」
「そう」
ユンチャオは頷いた。
「蛾の瑞獣」
「瑞獣も知らずに生きてきたのかよ! たく、これだから田舎者はよ!」
目玉が笑う。
チャニの眉がぴくっと動いた。
「お前はいい加減にしろ」
ユンチャオは目玉を両手で掴んだ。
「おい! やめろ!」
「箱に戻れ」
「もっと外の空気を吸わせろ!」
「目玉が空気吸ってどうすんだよ」
「気分だよ! 気分!」
ユンチャオは問答無用で目玉を木箱へ押し込んだ。
バタン。
「ちなみに、こいつも瑞獣だ」
「え!?」
チャニは木箱を見る。
「何の瑞獣なんですか?」
「それが教えてくれないんだよ。昔、変な剣士にやられて目玉だけにされたらしいんだけどさ」
箱の中から声がした。
「お前らに言ってもわからねーよ」
チャニは頭を抱えた。
「なんかもう……わけがわからない……」
少し考え、ユンチャオを見る。
「じゃあ、あなたは瑞獣を倒す狩人みたいな人なんですか?」
「まあ、そんなところだね」
ユンチャオは腰の刀へ手を置いた。
「ただ――」
その表情が少し変わる。
「俺の標的は、動物の瑞獣じゃない」
「え?」
「人間の瑞獣だ、この世にいるすべての人間の頂点」
チャニが目を瞬いた。
「人間の……瑞獣?」
「……まあ、その話はいいや」
ユンチャオは空を見る。
日が傾き始めていた。
「早く村に戻ったほうがいい。夜になると、この森はもっと危険になる」
「あ、そうだ!」
チャニは慌ててカゴを拾い、青年の方を向く
「私、チャニです!」
「え?」
「あの……助けてもらったお礼させてください。大したものじゃないけど、ご飯作ります!」
「え?」
ユンチャオの目が輝いた。
「え! ほんまですか!?」
急に声が大きくなる。
「僕ユンチャオです! ちょうどお腹が空いてるんだな!」
箱の中から声がした。
「俺にも少し分けろよ〜ユンチャオ」
「うるさい!」
チャニは思わず笑った。
────────
二人は森を下った。
その頃には、チャニの緊張も少しずつ解けていた。
「ユンチャオさん、この目ん玉には名前があるんですか?」
「ないよ。目ん玉っていつも呼んでる」
そんな話をしながら、村へ続く道を歩く。
やがて木々が途切れた。
「あ、村が――」
チャニが止まった。
煙。
村から煙が上がっている。
「……あれ?」
一本ではない。
二本。
三本。
もっと。
村のあちこちから黒煙が上がっている。
ユンチャオの表情が変わった。
「まさか…」
二人は村へ駆け込んだ。
「そんな……」
チャニの足が止まる。
朝まで笑い声が響いていた道。
そこに人が倒れている。
「おじ……さん?」
野菜をくれた男だった。
朝、チャニへ笑いかけていた八百屋の男。
もう返事はない。
「嘘……」
チャニの目から涙が溢れる
ユンチャオが周囲を見る。
倒れている村人たち。
壊れた家。
散乱する野菜。
「これはまずい、まさかこの村に行くとは…」
ユンチャオが空を見る。
「……お兄ちゃん」
チャニが呟く。
「お兄ちゃん!」
走り出した。
「チャニ!」
家へ。
ただひたすら走る。
「お兄ちゃん!」
家が見えた。
庭に――人が倒れていた。
「……え?」
チャニの足が止まった。
「お兄……ちゃん?」
兄だった。
片目を怪我して、腹にも深い傷を負っている。
「お兄ちゃん!!」
チャニは駆け寄り、兄を抱き起こした。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
返事がない。
「起きてよ! ねえ!」
ユンチャオも追いつく。
そして、その姿を見て言葉を失った。
「……なんてことを」
そのとき。
ユンチャオの背後が暗くなった。
巨大な影が地面を覆う。
「……!」
振り返る。
巨大な蛾。
森で逃げた――蛾の瑞獣だった。
「こいつ……!」
蛾の口が大きく開く
ユンチャオは即座に気づいた。
「またあれか!」
耳を塞ぐ。
直後。
強烈な振動が周囲へ広がった。
「ぐぅっ……!」
ユンチャオは歯を食いしばる。
今度は耐えた。さっきとは違い耳を塞いだことが功を成したようだ
「同じ手を――」
地面を蹴る。
「二度も食らうかよ!」
高く跳んだ。
両手で矛を握りしめる。
巨大な蛾の真上。
全身の力を込め――
矛を振り下ろした。
「はぁぁぁっ!!」
巨大な蛾がキレに半分に斬られた。
今度こそ動かない。
ユンチャオも着地する。
荒い息を整えながら、蛾を睨む。
「……とりあえず、討伐..」
だが。
「お兄ちゃん……」
兄を抱きしめる。
涙が頬を伝った。
「お願い……」
そのとき。
「あぁ……」
小さな声。
チャニが顔を上げた。
「お兄ちゃん!?」
兄の口がわずかに動いた。
「お兄ちゃん! 大丈夫!? 今、手当するから!」
「息を吹き返したか!」
ユンチャオが近づこうとした、そのときだった。
ガタッ。
背中の木箱が開いた。
「え?」
目玉が飛び出した。
「おい! 何して――」
巨大だった目玉の体が、急速に縮んでいく。
ユンチャオの顔ほどあった大きさから、普通の人間の目ほどに。
そして。
チャニの兄へ向かって飛んだ。
「おい、待て!」
兄の傷ついた片目へ。
目玉が入り込んだ。
「あ……」
兄の体から力が抜けた。
「お兄ちゃん?」
チャニは兄の顔を覗き込む。
動かない。
「え……?」
ユンチャオの顔から血の気が引いた。
「おい…、何してんだよぉぉ目ん玉ぁぁ!」
ユンチャオが叫ぶ
その時、兄の指が動いた。
ピクリ。
「はっ!お兄ちゃん?」
次の瞬間。
兄が大きく目を見開いた。
「――!」
片方の瞳が、赤い。
白目には赤い血管のような線が浮かび上がっている。
チャニが息を呑む。
「お兄――」
兄の手が動いた。
ドンッ。
「きゃっ!」
兄を抱き抱えていたチャニは突き飛ばされ、地面へ倒れた。
「チャニ!」
ユンチャオが駆け寄る。
兄はゆっくりと上体を起こした。
自分の手を見る。
指を一本ずつ動かす。
首を回す。
肩を動かす。
そして。
口元がゆっくりと吊り上がった。
それはチャニが一度も見たことのない、兄の不敵な笑み。
「……へぇ」
男は立ち上がる。
赤い瞳で、自分の手を眺めた。
そして、
「やっと体が手に入ったぜ」
チャニは地面に座り込んだまま、その姿を見上げる。
「……お兄ちゃん?」
男は笑みを深くした。
「人間のだが――」
自分の胸を軽く叩く。
「まー、いい」
ユンチャオのこめかみに青筋が浮かんだ。
「て……」
拳を握る。
「てめぇ……!」
そして森と村中に響き渡るほどの声で叫んだ。
「ずくにその体から出てこい!」
チャニはまだ知らない。
自分を襲った蛾の正体も。
兄の体を奪った目玉の正体も。
そして――
ユンチャオが追い求める、
「人間の瑞獣」
が何者なのかも。
すべては、この日から始まった。
――第一話 終
コメント
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おお、これめっちゃ好みの始まり方だわ…! 瑞獣っていうユニークな設定、目玉が喋るギャップ、そして「人間の瑞獣」っていう核心の謎。一話でこれだけのフックを仕込んでくるの、巧いな。チャニの優しさと兄の変貌が対比になってて、最後の「お兄ちゃんじゃない」感がゾワッときた。ユンチャオの関西弁っぽいノリとシリアスのバランスもいいし、続きが気になりすぎる。これは沼る予感しかしないわ🔥