扉が叩かれるまでハンクは私の中に留まり離さなかった。ソーマやジュノは私が夜会に参加することを承知していた。ふらつく私をハンクが湯に入れ清め、メイド達に渡す。
「ジュノ、知っていたの?」
ジュノは困り顔で私の髪を梳かしている。
「昨日の晩ですよ」
準備をするメイド達が大変なのに、慌てさせたわね。
「忙しかったわね」
ジュノは微笑み首を横に振る。
「ソーマさんにドレスを片さなくていいと言われて」
「あのドレスを着るの?」
カイランが揃いで作ったのに…ハンクでははち切れてしまうわよ。
「旦那様はご自分で用意されているそうです」
そうよね、さすがに息子の嫁と揃いはないわね。カイランが知ったらへそを曲げるんじゃないかしら…私は知らないわ。ハンクが相手にすればいいわね。
「朝からレオンに会えてないの、連れてきてくれる?」
化粧をすると額に口も落とせない。部屋にいたライナが乳母を呼びに動き出す。
「アンナリア、ゾルダーク領から早馬は来た?」
鏡越しにアンナリアに問うが首を横に振るのが見えた。早馬なら遅くても昨日のうちに着けるはず、容態は悪くないのかもしれない。それならカイランの帰りは早くなるわね。扉が叩かれ乳母のモリカがレオンを抱いて部屋に入る。
「レオンいらっしゃい」
腕を伸ばしレオンを受け取り抱きしめ、額や頬に口を落とす。
「乳は飲んでいる?」
「はい、よく飲まれています。重くなりました」
そうね、だいぶ重くなったわ。まだ生後五ヶ月の体は小さくてかわいい。ハンクの様に大きくなるといいわね。
「お父様を超えるくらい大きくなりましょうね」
レオンのふくよかな頬を撫でると指を口に含んで遊んでいる。生まれたときより紺色が濃くなっている気がする。私の好きな色よ。
「お母様は夜レオンに会えないの。サリーとモリカを困らせないでね」
もう一度レオンを抱きしめモリカに渡す。泣き始めたレオンを抱いてモリカが部屋から出ていくのを見つめる。
そこからはただメイド達に任せて私は動かず待つのみ。髪は上げて項を晒し、化粧を施しドレスを纏う。日が傾き始めた頃には仕上がり、ホールへと下りていくと黒いシャツに濃い銀色のベスト、黒いジャケットを羽織り黒のトラウザーズに、銀糸で刺繍が施された黒いマントを肩から下ろし、濃い紺の髪を後ろに流して固めたハンクと箱を持ったソーマとハロルドが待っていた。ベストの胸には空色のハンカチが見えている。箱を開けさせ中に入っているブラックダイヤモンドの首飾りと耳飾りをハンクが自らつけてくれる。薄い茶の頭にはブラックダイヤモンドの髪飾りをアンナリアに渡して私の髪を黒が彩る。ハンクの腕に手を添えて馬車へと向かい乗り込む。ハンクが天井を叩き馬車は動き出す。
「美しいぞ」
「ありがとうございます」
「垂れてきたか?」
ふふ、と私は微笑む。ドレスを着る直前まで立つと垂れて、その度にジュノが拭いてくれた。
「髪飾りは見たことのないものですわ、作ってくださったの?」
「金は使ってない」
そんなわけないのに…私のためを想ってくれてるから嬉しいのだけど。
「ゾルダークの色は綺麗ですわ。黒は好きです」
「ああ、似合ってる」
「閣下も素敵。絵画にしたいわ」
「ははっ絵師を呼ぶか」
私は笑顔で頷く。本気で呼んで欲しいけどハンクは絵師が描いている間、動かずに待てないと思うのよね。顔が険しくなっていく様が想像できる。
王宮に近づきゾルダークの馬車は入り口へと向かっていく。すでに日は暮れて外は暗くなり松明が揺れて王宮が輝く。
ハンクの手をとり馬車から下りて会場へ向かう。前方にはマルタン公爵家が見える。ハインスは不参加になっている。
「ねえ様!」
「テレンス、久しぶりね」
まだ少年らしさを残しているが随分大きくなった弟が今回もマルタンと共に入場するようだ。
「こんばんは、公爵様。ねえ様、綺麗だよ。カイラン様は?」
そう思うわよね。
「ゾルダーク領のお祖父様の具合が悪くて様子を見に行っているの。間に合わなかったのよ」
テレンスの耳に囁くと、ふーんと頷き私の耳にも驚くことを告げる。
「ミカエラともうすぐ婚姻するよ」
驚いてテレンスの顔を見ると嬉しそうに微笑んでいる。まだ学生よ。男性側が十五の婚姻は聞いたことはないわね。
「テレンス…既成事実を…」
「そんな愚かなことするわけないよ。初夜まで我慢してるんだからさ」
まさか、と思いハンクを見上げると私を見ていた。少し口角が上がってるわ、マルタンの夜会に参加した理由はこれなのね。テレンスが一番喜ぶ褒美だわ。星の書物を贈ったのに…ふふっマルタン公爵になんて言ったのかしら。
「よかったわね。望みが叶ったのね」
「うん。もうマルタン邸に住んでるんだよ」
それで我慢しているなんて、一体ミカエラ様に何をしているのかしらね。
マルタン公爵家の方へ戻るテレンスを見つめハンクの腕に添えている手に力を込める。
「一番喜びます、調べましたのね」
「ああ」
「ありがとうございます」
列が進みマルタンが入場する。
「よく来たな、マルタン公爵、夫人に美しい姉妹!ディーターのテレンス」
陛下の声にマルタン公爵は頭を上げる。
「陛下ご機嫌麗しく。我が娘ミカエラと婚約者のテレンスの婚姻式の日取りが決まりましてね」
王族は笑顔を崩さない。
「嬉しい報せだが、テレンスはまだ十五だろう。早くないか?」
「二人の願いですから」
王族は彼女の願いと聞けば、これくらいのことに文句は言えない。
「おめでとう。婚姻式には私も参席してもいいかな?」
国王から参席の願いなど滅多にない、誉れとなる。これでマルタン公爵にはもう怒らないで欲しいと聞こえる。
「ありがたき幸せ」
マルタン公爵家は皆が頭を下げて会場へと進みゾルダークの番がやってくる。ハンクの腕に手を添えて王族の前に並ぶ。
「…ゾルダーク公爵、息子は…」
陛下の小さな声にハンクは頭を上げ答える。
「ご機嫌麗しく。我が息子はゾルダーク領へ行っており、夜会には間に合わず申し訳ない」
ハンクが公の場でこれだけの言葉を発するのは珍しい、ましてや謝罪までしている。王族まで笑顔を忘れ見つめている。
「…そうか、それは残念だな。今回も美しい夫人にダンスの相手をお願いするかな」
いち早く笑顔を取り戻した陛下が前回の様に私をダンスへ誘った。断ることはよくない。答えようと口を開けるとハンクが私の代わりに答える。
「陛下のお誘いありがたいが、このキャスリンは産後に倒れまして、医師からダンスは禁止されております」
倒れてはいないけど体調は崩したわね。ライアン様から無理は禁物と言われたけど、もう回復したのに。別に踊りたいわけではないからここはハンクに従って微笑んでおく。
「そうなのか、大事にな…」
ハンクは軽く首を傾げ、陛下が手を振る前に移動を始める。
沈黙の後、陛下の開会の挨拶があり、今回も王太子とマイラ王女を中心にダンスが始まる。
私は太い腕に手を添えたまま、ゆっくり歩むハンクについてテラスへと向かっていく。
ハンクは給仕を手招き飲み物を用意するよう命じている。私はテラスで王宮の庭園を眺める。形豊かな燭台に入れられた蝋燭があらゆる所に置かれて美しく輝き目を楽しませてくれる。
「変わりないか」
振り向くとハンクはテラスに置かれたソファに背を預けて座り、給仕に渡されたワインを飲んでいる。
「ええ」
心配のし過ぎよ。マルタンの夜会は時期が悪かっただけなのに。
「こい」
ハンクと二人だけなんておかしな噂がたたないといいけど。
「シャンパンだろ?」
私の飲み物が机に置かれてある。ハンクに近づくと会場に繋がる扉が開き陛下が一人でテラスへ出てきた。
「ハンク、カイランを殺したのかと心配したぞ」
陛下はワインを手に持ちハンクの隣に座る。ハンクの目は険しさを増し陛下を睨んでる。近くにいた私の腕を掴んでハンクの膝に乗せる。
「閣下っ」
「気にするな」
陛下が驚いた顔をして私たちを見ている。会場からは見えない位置でも、どこに目があるかわからないのに。
「ここには誰も入らん」
陛下は立ち上がり扉を開けて侍る近衛に指示をしている。
なんだよ、国王が会いに来たのにあんなに睨んでよ。俺が邪魔なんだな、誰も入れないよ!ハンクが長く会話をするなんて珍しいから様子を見に来ただけなのに。
怖い顔でこの子のエスコートをしてくればカイランはどうしたと思うだろう。
「それで?カイランはどうした」
着飾った若い娘を膝に乗せて腰の辺りを撫でてるハンクに問う。
「年寄の具合が悪いらしい」
そうか、老公爵もいい年だもんな。歴代ゾルダークの中では長生きしたよな。
「そうか」
「シャンパンをくれ」
差し出されたシャンパンを手に取らず、飲ませろ、と顔を赤くした若い娘に口に器をあてさせ飲んでいる。どうしたんだよ…ハンクが壊れてる。
「ドイル…」
「…なんだよ」
凄い睨んでくるな…怖いな。
「邪魔だぞ」
俺は立ち上がりテラスから逃げる。扉の近くの近衛にこのまま誰も入れるな、と命じて離れる。マルタンの突然の婚姻のことを何か知っているのか聞こうと思ってたのに聞けなかった。機嫌がいいのか悪いのかよくわからん奴だ!
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