真夜中、エルは突然目を覚ました。息が浅く、心臓が強く脈打っている。喉がカラカラに乾いているのに、体は妙に冷えていた。
夢を見ていた──嫌な夢だ。ぼんやりとした恐怖だけが胸に残っていて、細かい内容は思い出せない。思い出したくもなかった。
寝直そうと目を閉じるが、まぶたの裏にさっきの夢の断片がちらつく。暗闇の中に何かが潜んでいるような、そんな感覚が消えない。
「……無理」
寝室にいるのが急に嫌になって、エルは布団を跳ね除けた。静かにドアを開け、足音を忍ばせて廊下へ出る。シェアハウスは深夜特有の静寂に包まれていて、普段なら心地よいはずの静けさが、今は妙に不気味に感じた。
リビングへ向かう。ここなら誰かいるかもしれない──そんな期待もほんの少しだけあった。
暗闇の中、ソファのそばに立つと、エルはそっと息を吐いた。昼間は賑やかなこの空間も、夜になると別の顔を見せる。静かすぎて、まるで別の場所のようだ。
ソファに腰を下ろし、毛布を引き寄せる。目を閉じればまた夢の続きを見そうで、眠るのが怖かった。
そのとき、足音がした。
びくっとして体を強張らせる。廊下からゆっくりと誰かが近づいてくる音。
リビングのドアが開き、ぼんやりとした影が入ってきた。
「……エル?」
低めの声。凌生だった。 エルはほっと息を吐いた。
「……うん」
「なにしてんの?」
「……寝れなくて」
凌生は少し眉をひそめ、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのボトルを取り出す。
「そっか、俺は水飲みに来たんだけど……なんかお前、顔色悪いな」
ボトルのキャップを開けつつ、凌生はちらりとエルを見た。
「……ちょっと、変な夢見ちゃって亅
「ふーん」
凌生はコップに水を注ぎ、ひと口飲む。
「怖いやつ?」
「……たぶん」
たぶん、というのは、夢の内容をはっきり思い出せないからだ。でも、確かに嫌な感じがしたし、目が覚めた後も胸の奥がざわついている。
凌生は少し考えるように沈黙し、また水を飲んだ。
「夢ってさ、起きたときに気にすると余計に記憶に残るらしい亅
「そうなの?」
「うん。だから、気にしないのが一番」
それができれば苦労しない。エルは小さくため息をついた。
「寝ようとすると、また思い出すんだよね」
「そういうときは、無理に寝ようとしないで適当に気を紛らわすのがいいんじゃね?」
凌生はコップを置き、冷蔵庫の横の棚からクッキーの箱を取り出した。
「これ食えよ。甘いもん食うと落ち着くらしいし」
エルは少し笑った。
「凌生、詳しい亅
「いや、たまたま知ってただけ」
凌生はそう言いながら、クッキーを口に放り込んだ。エルにも一枚渡す。夜中の甘いものなんてまだ子どものエルにはいいのかなぁと言う気持ちと、食べちゃいたいなぁと言う気持ちが争っていたが、えいっと口に放り込む。甘さが口の中に広がって、少しだけ気持ちが和らいだ。
「……ありがと」
「怖い夢見るの、よくあるの?」
「ううん、そんなに……」
エルは小さく首を振った。でも、今夜の夢は何か特別な気がしていた。
「……何が怖かったんだろう」
「夢ってそんなもんじゃね?」
適当なようで、妙に納得できる言葉だった。エルは息を吐き、ソファの背もたれに寄りかかる。
「クッキー食べたら、ちょっとだけ眠くなったかも。もしかして魔法のクッキーだったの?亅
「だとしたら、俺は魔法使いだな亅
「これだと眠れそう」
本当ならベッドに戻った方がいいことは分かっているんだけれど、あの夢の続きを見そうで怖い。ブランケットをまた手繰り寄せて包まる。
「なら、エル。ちょっと詰めて」
そう言いながら、凌生はエルの隣に座って、ゆっくりと身体を伸ばして横になった。平均身長高めの住人の多いシェアハウスはリビングでドーンと構えるソファーも特大品だ。子どもと大人が横になっても余裕がある。
「いいの?」
凌生はあの夢を見ていないのだから、自分のベッドで寝てもなんともない。わざわざ身を縮こませて寝る必要なんか無いのに。でも、きっと凌生は優しいから。エルが心細いことが分かって、リビングに残ってくれたのだ。
「いいんだよ。それより、明日も学校だろ。早く寝よ」
「……うん」
エルは目を閉じた。さっきまでの不安は、もうほとんど感じなかった。
「おやすみ、凌生」
「おやすみ、エル」
凌生が隣にいる安心感で エルはふっと眠気を感じ始めた。 甘いクッキーの味と、凌生の何気ない言葉が、夢の怖さを溶かしていくようだった。
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