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土の匂いがむせ返るほどに濃厚だ。
そこに樹木や草の香りが混じるのだが、決して息苦しいわけではない。
広葉樹がひしめくことから、天から降り注ぐ日光はいくらか遮られてしまう。
しかし、ここは例外だ。
先人達の歩みが森の中に遊歩道を作っており、その周辺だけは木々が少ない。
おかげで、青い空がはっきりと観察出来る。
綿菓子のような雲がいくらか散見されるも、言い逃れが出来ないほどには晴天だ。絶好の散歩日和とも言えるのだが、彼らは忙しそうに走っている。
徒競走ではない。
緑髪の少年が牽引しており、後方の女性は引き離されないよう、黒髪をたなびかせながら必死に食いついている。
この二人は走るのに適した状態ではない。背中には鞄を背負っており、とりわけ先を行く少年のそれは巨大だ。その体積が背中から大きくはみ出すほどには中身も詰まっている。
まさに大荷物だ。所有者を疲弊させるほどの重量ながらも、彼は平然と走っている。
「この五、六分の間に、ウッドファンガーやらウッドシープを十体くらいは感知出来ましたよ」
「ぞ、ぞうなん、だ。ハァハァ……」
(ちょっとハイペースだったかな? すっごいきつそう)
少年の名はエウィン。
後ろの女性はアゲハ。
二人は傭兵だ。
しかし、身体能力には大きな開きがあり、彼女の苦しそうな表情がそれを物語っている。
(マリアーヌ段丘の時みたいに先行してもらって、アゲハさんのペースで走ってもらった方が良いのかな? ただ、ここは魔物が多いからこの陣形が最良だと思うし……)
つまりは、エウィンが周囲を警戒しながら先行、アゲハが守られながら追尾する。実力差を加味すれば、安全な進み方であることは間違いない。
ましてやここは森の中だ。踏みしめられた大地の上を走ってはいるものの、左右には数えきれないほどの樹木が立ち並んでいる。その隙間から魔物が飛び出してくる可能性はゼロではないのだから、用心に越したことはない。
(もっとスピード落とそう。無茶は避けたいし、多分、今日中に着けるはず……)
目的地はヘムト採掘場。マリアーヌ段丘からルルーブ森林に渡った場合、そのまま西を目指せば良い。
この森は魔物の巣窟ゆえ、道中は細心の注意が必要だ。視界も悪いため、神経をすり減らす必要はないものの、草原の縦断とは勝手が異なる。
そうであろうと、エウィンは焦らない。この地の魔物にも勝てるという実績と、何より早朝の出発が心に余裕を持たせてくれた。
(野営の勝手がわかったのもありがたい。まぁ、起きたら我が家じゃないってだけなんだけど、それでもちょっとだけ不思議。準備不要ですぐにでも発てるのは利点だな。まぁ、朝ご飯は食べたいし、後片付けとかもあるけど。と言うか僕の場合、毎日が野宿みたいなものだから、何も変わらないのか?)
エウィンの自宅は朽ちかけた元倉庫だ。風呂もトイレもなければ、部屋自体も一つしかない。
レジャーシートを敷いただけの狭い空間な上、布団の類も所持していない。雨天の際は雨漏りに悩まされるのだから、その環境が少年の精神を図太くしたと言っても差し支えない。
(アゲハさんの野宿は心配だったけど、大丈夫そうで何より。今は涎垂れ流し状態だけど……。うん、そろそろ休憩も兼ねてウッドファンガー狩るか)
即決即断だ。
エウィンは減速と共に一時の休憩を提案する。
それを受けアゲハはよろよろと減速すると、落ち葉の上に座り込む。サイドスリットレギンスが汚れてしまおうと、それを気にする素振りすら見せない。
一方、少年は大きなリュックサックを雑草の上に置く。次の仕事に取り掛かるためであり、彼女の傍に立ちながらも、心を研ぎ澄ます。
「このままちょっとだけ待っててください。あっちに気配を感じるので、ウッドファンガーだったら持って来ます」
「ハァハァ、う、うん、行って、らっしゃい……」
満身創痍の保護対象に見送られ、エウィンだけが駆け出す。本来ならば別行動は悪手でしかないのだが、ここが安全地帯であることは把握済みなため、なんら問題ない。
一方、アゲハは額や鼻に汗を浮かべながら、項垂れるように休み続ける。呼吸は依然として乱れたままながらも、体力の回復が早い理由は空気の良質だからか。
ここは森の中ゆえ、日本の大都会とは比較にならないほど空気が美味だ。
見渡す限りの樹木がこの地を埋め尽くしているおかげだろう。そういう意味では、ルルーブ森林の支配者は人間でもなければ魔物でもなく、彼ら広葉樹なのかもしれない。
自然と生き物が共存している証左だ。
そうであると裏付けるように、自動車が走っているわけでもなければ、工業廃水が川や海を汚してすらいない。
科学が発展すれば地球と同じ歴史を辿るのかもしれないが、少なくともこの世界には技術革新が求められていない。魔道具と呼ばれる代替品が存在するからであり、そういった意味でもここは別世界だ。
魔物の有無もまた、無視出来ない差異と言えるのだろう。
人間を排除することが本懐なのか?
異なる存在ゆえに排除したいたけなのか?
どちらにせよ、人間と魔物は互いにいがみ合い、殺し合う。
そうであるからこそ、傭兵という職業が発生した。
王国の民は領土の外へは出られない。素手では草原ウサギすらもあしらえないのだから、不自由ではないものの、時に困ることもあるだろう。
力を持たぬ民のため、二百年前に発足された組織こそが傭兵組合だ。
魔物の討伐および皮や肉の収集。
護衛。
物資の運搬。
そういった危険が付きまとう仕事を、傭兵組合は彼らに代行させる。
軍人ではないにも関わらず、異形の化け物と渡り合える異端者達。
自らの意志で死地に赴くのだから、心身ともに普通でないことは確かだろう。
この女性もその内の一人だ。
坂口あげは。二十四歳の日本人。
轟音の直後、アパートと共に彼女も一瞬にして燃え尽きた。
その結果がこの世界への転生だ。
何年も引きこもっていたことから、いくらかふくよかな体になってしまったが、身体能力も見た目同様に低い。
しかし、この一か月が彼女を変えた。
エウィンが毎日のようにマリアーヌ段丘へ連れ出し、鍛錬という名目で草原ウサギを殺し続けた結果、アゲハの肉体は確実に強化された。
マラソン選手のようなスタミナ。
短距離走者のような脚力。
そして、転生時に与えられた二つの異能。
現時点で、傭兵としては申し分ない実力だ。少なくとも、草原ウサギを狩っていた頃のエウィンをあっさりと越えたのだから、その成長速度は目まぐるしい。
そうであろうと、残念ながら力不足だ。
比較対象が強すぎるだけなのだが、二人組である以上、不釣り合いであることには変わりない。
「お待たせしました。じゃじゃーん、こいつがウッドファンガーです」
エウィンがにこやかに帰還するも、右腕は丸太を抱えるように巨大なキノコを抱えている。
ウッドファンガー。この森に生息する魔物であり、見た目だけで言うのなら、しめじが最も近いのだろう。
キノコ、もしくは歩くキノコとも呼ばれており、円筒状な胴体の最下部には触手のような根が六本生えている。それらが足となって自身を運ぶのだから、これが魔物であることを疑う者はいない。
「お、大きい、ね」
(邪な感情を抱く僕は悪くない。だってそういうお年頃なんだから……)
アゲハの発言に対し、エウィンは一瞬黙り込む。十八歳ゆえ、やむを得ない心境だ。
「先ずはこいつを深葬で燃やしてみてください。多分、試すまでもなく通用すると思いますけど……」
「うん、やってみる」
少年の提案を受け、彼女はズボンの汚れをはたきながら立ち上がる。
深葬とは、二人で命名したアゲハの炎だ。
対象をただ燃やすだけでなく、灰すらも一切残さない。その殺傷力の高さから、彼女の青い炎をそう名付けたのだが、現状の実績は草原ウサギに限られている。
ゆえに、先ずは実験だ。
最弱の魔物だけでなく、この地の連中も燃やせるのか?
エウィンとしても確認せずにはいられない。この結果が今後の方針を決める材料の一つとなるのだから。
「んじゃ、持ってますので、どうぞ」
ぬいぐるみを披露するように、少年はウッドファンガーの柄を掴んで眼前に突き出す。
一メートル近いサイズ感も十分威圧的だが、六本の根がウネウネ動く様はとにかく気持ち悪い。
軽く仰け反ってしまうアゲハだが、怯みはしても踏みとどまる。やるべきことは明白な上、恩人の足を引っ張りたくない以上、右腕は自然と動いてくれた。
色白な彼女の指がキノコの白い体に触れると、答え合わせはあっさりと完了だ。蒼い炎が魔物を溶かすように燃やし始める。
この時点でエウィンはウッドファンガーを手放しても良いのだが、そうしない理由は自身が巻き込まれないことを経験的に知っているためだ。
指定した対象だけを燃やす炎。それがアゲハの深葬であり、自然界の火は当然ながら、魔法のフレイムでさえ真似できない。
「何度見てもすごいですね。ウッドファンガーさえも一瞬で……。と言うか、香ばしい匂いのせいで涎が……」
感嘆の声が漏れてしまう。
エウィンの言う通り、魔物はあっという間に燃え尽きてしまった。燃えカスすらも見当たらないほどの、完璧な焼却だ。
その一方で、傭兵の手には火傷の跡が見当たらない。青い炎と接触したにも関わらず、手のひらからは焼けたキノコの匂いが漂うだけだ。
朝食を食べて、それほど経過していない。
ゆえに空腹ではないのだが、食欲を刺激されたことには違いなかった。
「焼きしいたけみたいな、風味。旨味も濃厚そう……」
「お昼ご飯は決まりですね。それはさておき、深葬はここの連中にも問題なく通用する、と。魔物全てを燃やせるのか、どこかで頭打ちになるのか、今後も行く先々で検討しましょう」
「が、がんばる」
ほっと胸を撫で下ろすアゲハに対し、エウィンは笑顔を向ける。
彼女の青い炎は、フレイムとは似て非なる能力だ。魔源を消耗しないばかりか、詠唱という準備段階さえも必要ない。
発現のトリガーは、触れるだけ。
この点だけは魔法に劣るものの、少年にとっての懸念事項は別にあった。
深葬と名付けたこれは、言わば必殺の攻撃手段だ。
しかし、炎が相手を燃やし尽くすことが大前提であり、もしも火傷すら負わせられない魔物と遭遇してしまった場合、アゲハが窮地に追いやられてしまう。
エウィンも傭兵の端くれゆえ、実はある程度予測している。
火の魔法が通用しない魔物は、少なからず存在確認されている。
それらには深葬も効果を成さないのでは?
これこそが現時点での予想だ。
フレイムは氷属性の魔物に致命傷を負わせるものの、水や火を属する魔物には効果がない。傭兵にとっての常識だ。
攻撃魔法を使いこなさなければならない魔攻系ならば、相対する魔物の属性を把握すべきだろう。その知識こそが最善の魔法を選んでくれる。
「んじゃ、次は蹴ってみましょう。もう一体持って来ますので、少々お待ちを……」
「行って、らっしゃい」
またも有言実行だ。少年は風のような速さで駆けだすと、木々にぶつかることなくどこかへ消え去る。
それを合図にアゲハは再度腰かけるも、先ほどまでの気怠さはほとんど解消済みだ。常軌を逸した回復速度もまた、傭兵の特徴と言えるだろう。
腐葉土の匂いを味わいながら。
枝葉が揺れる音に耳を傾けながら。
待つこと一分足らず。先ほどのやり取りを再現するように、巨大キノコを脇に抱えてながらエウィンが帰還する。
「お待たせしました。ふと思ってしまったんですが、ここに住んだら食費に困らないのでは?」
「キノコ採り放題、だもんね。確か南の方に、港町があるよね? そこに、移住する?」
「あ、やっぱり今の無しで。さぁ、次はこいつを蹴ってみてください」
脇道にそれた話題を、少年は即座に修正する。
本題に取り掛かりたいという思惑もあるのだが、最大の理由はその漁村だ。
ルルーブ港。ルルーブ森林の南東に建設された漁村。漁業を生業としており、漁で得られた魚はその多くがイダンリネア王国に輸出される。
実はエウィンの故郷なのだが、両親を失った苦い思い出が足を遠ざけさせる。
(もう十年以上も昔のことだし、今の僕を見たところで気づくはずない……って言うのは楽観的過ぎるのかな? どちらにせよ、行くつもりはないけど)
今ではすっかり王国の民だ。貧困街に住み着いていようと、傭兵として生計を立てているのだから胸を張ってそう名乗っても許されるはずだ。
王国の人間ではない。そういう意味では、アゲハの方がよっぽど当てはまってしまう。
そういう意味では似た者同士なのかもしれない。
「き、気合を、入れて……」
「このタイミングで伝えるのもアレですが、ウッドファンガーの強さに関する指標がありまして」
サンドバッグを後ろから支えるように、エウィンは巨大キノコを突き出している。
一方、見様見真似のファイティングポーズへ移行したアゲハだが、少年の発言を聞き逃さない。
「指標?」
「はい。拳銃ってあるじゃないですか。僕は見たことありませんけど」
「うん。私も、現物は見たことないよ」
「矢だか玉を当てさえすれば、草原ウサギは一発二発で仕留められます。対してこいつは、十発近くは撃ち込まないと倒せないとか何とか……。噂話なので嘘か本当かはわかりませんが……」
真偽が不明であろうと、傭兵は噂の類に食いついてしまう。情報共有の一環なのだが、それゆえにギルド会館の中は多種多様な会話で盛況だ。
「十発も……、すごい生命力……」
「草原ウサギと違って、歩くキノコは中身もぎゅっとキノコですから、内臓の有無が大きいのかもしれませんね」
「あ、そんな気が、する」
人間に置き換えればわかり易いか。
腕や足を撃たれたところで、死ぬほど痛いが死にはしない。ショック死や出血死は起こりえるも、拷問のような時間に耐えられるのなら即死だけは免れるだろう。
しかし、頭部や心臓を撃ち抜かれてしまったのなら話は別だ。
それがたった一発の弾丸だったとしても、生死に関わってしまう。
ウッドファンガーの頑丈さについて、エウィンは体の構造の差異を絡めて予想するも、その推測は概ね正しい。
だからこそ、アゲハを納得させるには十分な説得力があった。
「なんとなーくですが、こいつらは頭と言うか傘の部分が弱点っぽい気がします。単なる経験則な上、そもそもそこが一番殴りやすいだけなんですけど」
「げんこつみたいな、感じ?」
「そうですそうです。あ、じゃあ、こうやって持ちます」
ウッドファンガーを披露するように抱きかかえていたが、自身の発言から持ち方を変える。
触手のような根がこそばゆいが、それに耐えながらキノコの傘を彼女に向けて胴体を掴む。傘の裏側、ひだがじっくりと観察出来る状況ながらも、そのこと自体に少年は感動を覚えない。
むしろ、それどころではなかった。
(こ、この状況は! キノコを突き出す僕、キノコの前にはアゲハさん。なんかその、アレなんじゃ⁉)
他意はないのだが、第三者に目撃されないことを願わずにはいられない。
「がんばる、ね」
「あ、はい……」
ムエタイ選手のように構えるアゲハとは対照的に、エウィンは縮こまってしまう。自分でそう指示したものの、この構図に気づいてしまった以上、男としては複雑な心境だ。
それゆえのミスか。
黒髪を揺らしながら一歩を踏み出し、その直後、彼女の右足が豪快に振り抜かれる。
その結果、ウッドファンガーの頭部を右から左へ蹴ってみせるも、エウィンの支えが不十分だったため、魔物はドスンと落下してしまう。
零れ落ちたキノコだが、傘が部分的に潰れただけで外傷としてはその程度だ。
つまりは軽傷でしかなく、己の使命を果たすため、動き出すことに支障はない。
六本足を操作しながら、それは器用に起き上がる。
ここまで連行され、ついには拘束されたまま蹴られたものの、眼前の人間二人はその程度の実力らしい。
ならば、躊躇など不要だ。
自分を運んだ人間から片付けるか?
蹴った方へ仕返しするか?
決めるべき事柄はその順番だけだ。
緑髪の人間から脱却出来た以上、復讐と殺意を原動力にして、ウッドファンガーが前進を開始する。
「え?」
標的は彼女の方だった。
魔物とアゲハの距離は離れておらず、落下の時点で数歩分。つまりは二人の真横に着地しており、ウッドファンガーでなくとも距離を詰めるのに一秒もかからない。
所詮はキノコと侮ったのなら、その認識こそが誤りだ。これは紛れもなく魔物であり、その瞬発力は人間の比ではない。
俊敏性だけでなく、運動エネルギーも段違いだ。重量自体はそれほど重いわけではないのだが、非常識な加速が生み出すその速度は、自身を凶器に変えてしまえる。
ぶつかるだけで、人間を破壊可能だ。それをわかっているからこそ、ウッドファンガーは頭突きのような要領で体当たりを試みる。
その判断および目論見は正しい。
次の瞬間にはアゲハという人間を殺せるのだから、一人目の始末はあっさりと完了だ。
ここにエウィンという傭兵がいなければ、完遂出来ていたのだろう。
「しっ!」
両者が接触する直前、片方がそこからいなくなる。
排除されたのはウッドファンガーの方だ。
アゲハがそうしたように、今度はエウィンが蹴り飛ばした。
左脚を大きく踏み込み、最小限の動作で右足を下から上へ振り子のように振り抜く。
その結果、巨大キノコは木々をなぎ倒しながら大砲玉のようにどこまでも吹き飛ぶ。
蹴られた時点で絶命したのか、樹木との数度に及ぶ衝突によって息絶えたのか、そのタイミングは定かではないが、少なくとも勝者と敗者は確定だ。
「なかなか良いキックでしたよ。ウッドファンガーはそれ以上に頑丈っぽいですが、それならそれで焼いちゃいましょう。蹴り殺せないってことがわかっただけでも収穫です」
「あ、うん……」
励ましているわけではない。
ましてや、同情ですらない。
エウィンの冷静な分析だ。
アゲハの蹴りでは傷つけるに留まる。この事実に目を背けず、そう結論付けた。
もっとも、彼女が呆けている理由は別にある。
巨大キノコに殺されかけた。
それゆえに唖然としている。
当然の反応だ。
そのはずだが、この少年が平常心を保てている。
(ここの連中って草原ウサギよりかなり格上なんだな。まぁ、深葬があるから問題ないけど。あんな体当たり、いくらでもさばけるし、うん、余裕そうだ)
つまりはそういうことだ。
エウィンの反応速度は、ウッドファンガーの俊敏性を遥かに凌駕している。
ましてや、未来余地のような勘の良さが奇襲さえも阻止可能だ。
不安など、あるはずもない。
慢心するつもりはないものの、必要以上に緊張する必要はなさそうだと学習した瞬間だ。
「それじゃ、アゲハさんの体力が戻り次第、出発と言うことで。今のはあっちの方で死んでるでしょうけど、お昼ご飯のために確保する必要もありませんから、そのまま放置でいいかな」
「あ、うん、わたしならだいじょぶ、だよ」
エウィンの言う通り、蹴られた魔物は遥か彼方で屍と化している。昼食にはまだ早すぎる時間帯ゆえ、それをこのタイミングで確保する必要はない。
二人はそれぞれの背負い鞄を拾い上げると、今まで同様に西を目指して走り出す。
目的地は廃れた鉱山。その内部に巣食うスケルトンを狩らなければならない。
金を稼ぐため。
己の実力を計るため。
強くなるため。
そういった動機を背景に、傭兵としてそこを目指す。
先ほどよりはペースを落として駆けるエウィンだが、その胸中は少々複雑だ。
(アゲハさんの鍛錬はこの森で良さそうだけど、そうなると活動拠点は変えるしかないのかな?)
イダンリネア王国からルルーブ森林に通うためには、マリアーヌ段丘を越える必要がある。
エウィン単身なら一、二時間で通過出来るのだが、アゲハの走力では到底不可能だ。
(と、なると……、やっぱりそうするしかないよなぁ。今回の依頼が片付いたら、ダメ元で一回行ってみるか。すっごく嫌だけど……)
この森の北西にはヘムト採掘場が存在する。
また、南東には王国ほどではないものの立派な漁村が栄えており、立ち寄る傭兵は少なくない。
ルルーブ港。エウィンの故郷であり、苦い思い出の地だ。
漁船と共に父が焼死。
母も幼い我が子を庇ってゴブリンに殺された。
逃げ出すように飛び出して、既に十二年。長いようで短い、曖昧な年月だ。
(父さんだって被害者だった。だけど、船長だから責任を負わないといけないって今なら理解は出来る。子供の頃はわからなかったけど……。それでも、なんで僕と母さんまで責められなきゃいけなかったんだ。そのせいで逃げるしかなくて、母さんは……!)
イダンリネア王国へ避難するその過程で、六歳のエウィンは天涯孤独になってしまった。
忘れられない記憶だ。
同時に、苦い思い出だ。
この地の風景がトラウマを刺激するも、両腕両脚を止めはしない。
(今は出来ることに専念しよう。アゲハさんを連れてここまで来たんだから、ウジウジしたって何も始まらない)
漁を終え、帰港直前だった漁船。父を含めて、多数の船員が乗船していたものの、突然の炎上によって彼らは一人残らず燃えてしまった。
原因不明の火災であり、海へ飛び込む猶予すら与えられず、全員が火だるまと化す。
ありえない光景だった。
幼い少年の脳裏には、今なお鮮明にその赤色が焼き付いている。
真っ青な大海原に咲いた、禍々しい真紅。それは轟々と漁船を燃やしながら、同時に多数の命を飲み込んだ。
その結果、船員の親族および関係者はやり場のない怒りを二人に向けるしかなかった。
一人息子とその母親だ。
ルルーブ港にとっては痛ましい事件だが、エウィンにとっても古傷でしかない。
傭兵は走る。
何かから逃げ出すように、西を目指す。方角的に故郷から離れている最中であり、そのおかげか心がわずかに軽くなる。
遠征、その二日目。
ここはルルーブ森林。
心の傷が疼く中、少年は彼女を牽引するように走り続ける。