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ぼやけた視界に浮かぶ天井は、やけに白くて、やけに遠い。
身体の奥にはまだ昨夜の熱が残っていて、動くたびに小さな痛みが走る。
シーツを握る手に力が入るけど、どうしようもなかった。
シャワーの音が微かに聞こえていたが、それが止む頃には、
浴室の扉が開き、彼が髪を拭きながら出てきた。
「……あ、おきた? おはよ、おねえさん」
タオルで髪を拭きながら、軽い調子の声。
その笑顔は昨夜と同じなのに、もうどこか遠い。
何を言えばいいのか分からなくて、ただ小さく頷くことしかできなかった。
彼は服の袖を整え、ベッドの淵に腰を下ろした。
背筋をまっすぐ伸ばしながらも、どこか急いでいるように見える。
私は布団をぎゅっと握り、かろうじて上体を起こした。
「じゃ、僕行くから」
それだけ言って立ち上がる。
ふとこちらを振り返り、少し笑って、軽く肩をすくめた。
「僕、責任とらないよ? だからこれっきり。
……また抱きたくなったら、困るし。
おねえさんのことは、嫌いじゃないけど……ね?」
その言葉が、まるで冷たい水みたいに胸の奥へ落ちた。
彼の独特なアヒル口が、最後の言葉を締めくくるようにきゅっと結ばれる。
私は何も言えず、ただシーツの皺を見つめたまま。
彼はそれに気づかないふりで、軽く頭を撫でた。
優しい手つきだった。だからこそ、余計に残酷だった。
「じゃあね、おねえさん」
ドアが閉まる音が、部屋の中に静かに響いた。
残されたのは、まだ温もりの残るシーツと、
ひとりぼっちの朝の匂いだけだった。
ぼんやりと天井を見上げながら、
喉の奥から、言葉にならない息が漏れた。
「……最低。」
その一言が、誰に向けたのか自分でも分からなかった。
彼にか、自分にか。
ただ、胸の奥の痛みだけが確かに現実だった。
2週間が経っていた。
あの日のことを、できるだけ考えないようにして過ごしていた。
仕事に追われて、少しずつ心も落ち着いてきたと思っていたのに――。
突然、知らない番号から着信。
夜の9時過ぎ、部屋の明かりだけが頼りの静かな時間。
一瞬、誰かの間違い電話だと思った。
「……はい」
耳に当てた瞬間、息を飲む。
聞き覚えのある、あの声だった。
『僕だけど、お姉さん。』
心臓が跳ねた。
しばらく言葉が出ない。
「……もとき、さん……?」
『うん。ねぇ、今から会えない?』
唐突すぎる誘いに、喉がつまる。
頭のどこかで“また”と思いながら、それでも指先が震えるのを止められなかった。
「なんで……責任取らないって言ってましたよね?
それに、なんで番号知ってるんですか……?」
ほんの少し声が上ずった。
受話器の向こうで、彼が小さく笑った気がした。
『そんなの、どうでもいいでしょ。』
静かで、でも有無を言わせない声。
優しさと傲慢さがまざり合ったあの調子。
『会えるか会えないか、聞いてるの。』
部屋の時計の針が、やけに大きな音を立てていた。
答えようとするたびに、喉が乾いて、声にならなかった。
静かなのに、逃げ道のない声だった。
その響きだけで、あの夜の記憶が一気に蘇る。
彼の体温も、吐息も、全部。
「……少しだけなら」
そう言った自分の声が、誰のものでもないように聞こえた。
通話が切れたあと、携帯を握ったまましばらく動けなかった。
また傷つくって分かってる。
“責任取らない”って言われたのに。
それでも、頭のどこかで――
もしかしたら、何かが変わるかもしれないって、
ほんの少しだけ期待している自分がいた。
タクシーの窓から見える夜の街は、やけに明るかった。
ネオンが滲んで、まるで誰かの夢みたいに遠い。
心臓がずっと早く打っていて、
自分でも、どこへ向かっているのか分からない。
「これで最後にする。どうせ、彼の気まぐれだから。」
そう呟いて、スマホの画面を消した。
でも胸の奥では、わずかに高鳴る鼓動が止まらなかった。
タクシーのドアが閉まる。
夜の街が流れていく。
誰かと並んで見るはずだったネオンが、今日はひとりぼっちの窓に映っていた。
着いた先は、都心のビジネスホテル。
前回みたいな、わかりやすいラブホじゃない。
無機質なガラス張りのロビーが、余計に冷たく感じた。
「……こんばんは。408号室で予約しています。」
受付で彼の名前を出すと、
フロントのスタッフは何も言わずにカードキーを差し出した。
受け取ったキーの重みに、少しだけ指先が震えた。
エレベーターの中。
上昇する感覚だけが妙にリアルで、心臓の音がうるさい。
“ほんとに、これで最後”
何度そう思っても、
階数表示が数字を刻むたびに、喉の奥が詰まっていく。
ドアの前で立ち止まる。
カードキーを握りしめた手が、じっとりと汗ばんでいた。
ノックしようとした瞬間、
中から鍵の施錠が解かれる音がして、扉が開いた。
「……おつかれ、お姉さん」
そこにいたのは、
2週間前と何も変わらない笑顔だった。