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その晩、あんずはいつもより深く眠った。
ラベンダーミルクティーの余韻が、胸の奥にほんのりと残っていて、
夢の中でも、その優しい香りが漂っていた。
──気がつくと、あんずは空を飛ぶ白い船の上に立っていた。
見上げると、群青の空に満ちた無数の星々。
足元には、雲の海と、柔らかく光る月の道。
「……ここは、どこ?」
声に応えたのは、すぐそばに立っていたツバキだった。
「やっぱり来たね、あんずちゃん」
彼女は満面の笑みを浮かべながら、船の舵を握っていた。
「ここは“月の船”。この喫茶店に来た人の中でも、心の深い部分が動いた人だけが訪れる場所なんだって。
あたしも初めて見たとき、すごく驚いたよ」
夢のはずなのに、空気は冷たくて、月の光がまぶしいほどきれいだった。
「ねえあんずちゃん。あなたが最初に喫茶店に来たとき、ちょっと寂しそうな顔してた。
もしかして、誰かのこと……好きなんじゃない?」
ドキッとする。
「……っ、ち、ちがっ……いや、違わないけど……!」
ツバキはくすっと笑った。
「うん、わかる。好きって、うれしいのに苦しくなるよね。
会えた日は嬉しくて、話せなかった日はちょっと泣きたくなる。
あたしもね、実は……」
ツバキが言いかけたとき、突然、空が波打った。
船の進行方向の先に、黒いもやのような渦が広がっていく。
「また来た……“記憶の影”だ」
ツバキの顔が強張った。
「これは、誰かの心の奥底にある“忘れたくても忘れられない想い”のかたまり。
Yuzuちゃん……これ、あなたのじゃない?」
「……わたしの……?」
もやの中に、あんずは懐かしい声を聞いた。
──「あんずはさ。国語の能力がやっぱすごいよな。」
それは、ある日の川崎くんの声。
国語の授業のあと、ふいに言われた一言。
嬉しかったのに、うまく返事ができなくて、ただ笑ってごまかした。
──あのとき、本当はもっと話したかった。
心の奥にしまいこんでいた“言えなかった想い”が、渦のように浮かび上がってくる。
船が大きく揺れた。
あんずは足を滑らせて、空に落ちそうになる。
「あんずちゃん!!」
ツバキが手を伸ばしてくる――
でもその瞬間、ふっと目の前が暗くなった。
あんずは、自分のベッドの上で目を覚ました。
夢だった。
けれど、心臓はドキドキと波打っていて、あの渦と、川崎くんの声は鮮明だった。
「……また、行かなきゃ。月灯りへ」
朝の光の中で、あんずはそうつぶやいた。