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あの日から一週間。瀬名は本当にぴたりと理人に触れてこなくなった。
以前なら平日でも三日に一度は飲みに行き、帰りにホテルへ……というのが定番の流れになりつつあったのに、今回は自分が悪かったと思ったのか、ビジネス上の会話以外は一切なし。終業後もさっさと定時で上がってしまうことが多くなった。
最初のうちは、金魚の糞のようにまとわりついてくる存在がいなくなり、むしろほっとしていた理人。
だが、一週間もプライベートでの交流が途絶えると、どうにも落ち着かない気分になる。
決して期待していたわけではない。だが――「キスだけならOK」との約束を取り付けた時点で、何かしらのアピールがあるのではと予想していた。
ひとくくりにキスといっても、唇だけとは限らない。瀬名のことだ、なんだかんだと理由をつけてはきわどい場所に唇を寄せる……そう考えていたのに。
それにしても、あまりにも素っ気なさすぎる。別に期待していたわけじゃない。だが、もう少し何かあってもいいんじゃないだろうか。
そんなことを悶々と考えながら年末の仕事に追われていると、瀬名のデスクを数人の女子社員が囲んでいるのが見えた。
忘年会のときに一緒だった営業部のOLたちだ。
相変わらず仕事モードの時は前髪を下ろし、伊達眼鏡をかけている瀬名。しかし一度素顔を知ってしまった女子たちには、そんなカモフラージュは通用しないらしい。何を話しているのかまでは分からないが、楽しげな雰囲気だけは伝わってきた。
(仕事中に他の課に入り浸ってんじゃねぇよ、クソッ)
理人が内心いらついていると、瀬名がほんの一瞬だけこちらを振り返り、目が合ったような気がした。慌てて目を逸らす。
だがすぐに「やましいことなど何もないのだから逸らす必要はなかった」と気づき、チッと舌打ちした。
そんな理人の様子など気にも留めず、静かな室内に女子たちのきゃぴきゃぴした笑い声が響く。
この年末の忙しい時期にサボりか? 営業部の女どもはそんなに暇なのか?
瀬名も、彼女たちと話している間は完全に手が止まっていた。……もっとも彼の場合、こうして雑談していたとしても終業時刻までには自分の分を完璧に仕上げ、さらには新婚旅行で不在の萩原の案件まで代わりに処理してしまうのだから、問題にはならない。
それでも――面白くない。モヤモヤする。
こんな時は係長の朝倉がそれとなく注意してくれてもいいはずなのに。
朝倉はここ数日ずっと上の空で、ただでさえ悪い作業効率がさらに落ちてしまっている。
(チッ……本当に使えねぇ野郎だな……)
眉間にシワを寄せ、目の前の資料を睨みつける。
だが女子たちの黄色い笑い声は何度も耳に入り、集中できない。
落ち着け。今日は金曜日だ……。
さっさと仕事を終わらせて定時で戻れれば、きっと――。
終業時間になり、ふと、気が付いた時にはもう瀬名の鞄はなくなってしまっていた。
トイレにでも行っているのか? とも思ったが10分経っても戻ってこないので、きっと帰ってしまったのだろう。
以前までの瀬名だったら、金曜の夜になれば当たり前のように理人の仕事が終わるのを待ってくれていたのに……。
別に約束を取り付けていたわけじゃないし、泊まりに来いと言った覚えもない。
だから、瀬名がいつ何処で何をしようが、理人に咎める権利など無い筈なのに。
「……一言くらい、言えよアホが……っ」
ぎりっと、音がしそうな勢いで歯噛みして拳を強く握りしめると、理人は苛立ちをぶつけるようにダン! と机を叩き立ち上がった。
「――はぁ~……」
結局、理人は会社を出るとまっすぐ帰宅せず、気が付けば一人でナオミの店に足を運んでいた。
「あら? 今日は一人なの? 珍しいわね。喧嘩でもした?」
「……別に。つか、なんで俺がいつもアイツと来ることが前提なんだよ」
「だって……、ねぇ?」
ナオミは肩をすくめながら、机に突っ伏して暗雲を背負っている理人を眺め、近くにいた湊と顔を見合わせた。
「あいつは来ねぇよ。今頃は女たちと楽しくやってるんだろ」
就業直後、見知らぬ女が瀬名を迎えに来ていたらしい――そんな噂を耳にしたのだ。
自分には「浮気は許さない」とかなんとか言っておいて、体の関係を断った途端これか。
今頃はきっと鼻の下を伸ばし、好みの女をホテルにでも連れ込んでいるに違いない。
「…………はぁ……酒くれ。なんでもいい。強めのやつ」
「いいけど……飲みすぎちゃだめよ?」
「うるせぇな。いいから黙って作れ」
行き場のないモヤモヤをどうしようもできず、注文をすればナオミから呆れたような釘を刺される。今日はとことん飲みたい気分だった。
ナオミはそれ以上は何も言わず、小さくため息をついてシェイカーを振り始める。
「どうぞ」
グラスに入った琥珀色の液体をカウンターに置かれると、理人はそれを一気に喉へ流し込んだ。喉が焼けるような感覚とアルコールの濃厚な香りが鼻を抜けていく。
少しだけ気持ちが和らいだ気がしたが、胸の中の黒い霧は晴れそうにない。
「チッ……クソがっ!」
苛立ちを吐き出すように罵声を漏らし、理人はドンと乱暴にグラスを置いた。
「……随分、荒れてますねぇ……喧嘩でもしたのかな?」
接客の合間に湊がそう呟く。瀬名絡みで理人がこうなるのは珍しくないが、他人の前で感情をここまで露わにするのは珍しい。だから心配なのだろう。
「喧嘩っていうよりこれは多分……拗ねてるのよ、きっと」
「えっ!? 理人さんが!?」
「おい、ケンジ。聞こえてんぞ!」
ナオミの言葉に湊が素っ頓狂な声をあげると、理人はすかさずギロリと睨む。
「あっ、ごめんね理人さん……そんなに怒らないでよ」
「……チッ」
バツの悪そうな顔で頭を掻いた湊は、愛想笑いでその場を取り繕った。
「ほんっと、酒癖悪いんだから。――で? 八つ当たりしてないで話してみなさいよ。何があったの?」
空いたグラスを新しいものと入れ替えながら、ナオミが理人の顔を覗き込む。
理人はしばらくむすっとしたままだったが、やがて小さく呟いた。
「うるせぇな……別に何もねぇって言ってるだろ」
「あーもう……嘘が下手なんだから。ほら、話してみなさい? 聞くだけ聞いてあげるから。どうせまた、くだらないことで意地張ってんでしょ」
「うっせ、ばーか」
「……だいぶ酔って語彙力なくなってきてるわねぇ」
理人はすっかりへそを曲げた様子で、頬杖をつきながらふて腐れた表情で酒を煽った。
悶々とした気分で家に戻った理人は、風呂に入ってさっぱりすると、上半身裸のままソファへ腰を下ろした。
ローテーブルの引き出しからタバコを探ると、掴んだのは自分の銘柄ではなく、瀬名が愛飲している箱だった。
「……チッ」
無意識にそれを手に取った自分に舌打ちをする。だが、結局一本を咥え、火をつけて煙を吸い込んだ。普段よりも重い煙が喉を焼き、むせながら吐き出すと、どこか瀬名の匂いがして理人の胸の奥を妙にざわつかせる。
酒のせいか、あるいは欲求不満のせいか。思考は次第にいやらしい方向へ傾いていき、気がつけば下半身へと手を伸ばしていた。
瀬名の煙草を吸いながら、下着の中に手を入れて軽く擦ってやると、直ぐにそれは熱を持ち硬く張り詰めていく。
「っ……ん…っふ……っ」
先端から滲み出た体液を塗りつけ、滑りが良くなったのを利用して上下に扱き上げると、堪らず鼻から甘い声が漏れた。
『理人さん……こんな明るいリビングで股開いてなにやってるんですか? ……いやらしいなぁ』
いつの間にか妄想の中の瀬名が自分を責めるような冷ややかな視線と言葉をを投げかけて来る。
それがまた理人の興奮を煽り、右手の動きが激しさを増していく。
「ん……っ、ぁ……は……っ」
ぐちゅぐちゅと湿った音が響き、理人は耳まで真っ赤にしながら声を押し殺して快感に耐えた。
どうしよう、気持ちがいい。瀬名の煙草をふかすたびに、背徳感と羞恥心が綯交ぜになって、どうしようもなく体がどんどん昂ぶっていく。
理人は目を閉じ、せり上がってくる射精感に身を委ねようとした――が、どうしてもあと一歩というところで物足りなさを感じてしまい、達することができなかった。それどころか体の奥が疼いて仕方がない。
奥で得る快感が堪らなく欲しくなって、つい腰を揺らしてしまう。
息を吸い込む度に煙草の煙がここにいない男のことを思い出させ、ますます会いたくなってくる。
「っ……はぁ……、クソッ……」
もう駄目だ。やっぱり我慢できそうにない。理人ははぁ、と熱い吐息を洩らすと短くなってしまった煙草を灰皿に押し付けて、寝室へと向かった。ベッドの下にある引き出しからバイブを取り出してローションを垂らし下着を脱いでその辺に放り投げた。自立式のソレをベッドの上に置くとゆっくりと位置を合わせて腰を落としていく。
「……ん……っ」
つぷりと音を立てて中に入ってくる異物に体がぴくんと跳ねた。根元まで埋め込んだそれをゆっくりと出し入れして、ベッドヘッドに体を預けると自分の重みでさらにバイブが深く押し込まれた。
「……っ」
胸の飾りを指で捏ねながらリモコンのスイッチを入れると、途端に体内で振動し始める。
「っふ、……んん……っ」
無機質なそれに前立腺を刺激され、たまらず理人は唇を噛んだ。無意識に腰を揺らして、良いところに押し付けようとする。
「あっ、んん……ふ……ぅ……っ」
しかし、どれだけ動かしても足りない。あの太くて硬いもので内壁を思い切り突かれたかった。焦らすような言葉や態度で意地悪をして、でも最後には優しく抱きしめてキスをしながら激しく奥を突いて欲しい。
想像するだけでゾクゾクと背中に快感が走り、陰茎からはだらだらと先走りが溢れてくる。
「瀬……名……ん……っ、く……ぁあ……っ」
もっと、もっと……。
「ん……は……っ、ぁあっイく……っ」
頭の中はそれだけになり、リモコンのスイッチを強にする。途端に中で蠢く振動が大きくなって理人の体内を容赦なく攻め立てた。
「あ……や……っ、―――!」
ビクビクと体を震わせながら、理人は精を放った。白濁の飛沫が腹部に飛び散る。
「ハァ……はぁ……っ」
絶頂に震え、白濁の痕を腹に散らした後、理人は荒い呼吸のまま天井を見上げる。頭が冷めれば冷めるほど、強い自己嫌悪が押し寄せてきた。
「…………はぁ……くそっ、何やってるんだ、俺は……」
賢者タイムに自己嫌悪に陥るも、体の熱は収まる気配を見せない。
――ナオミたちが、可笑しなことを言ったせいだ。
そう自分に言い訳してみるが、収まらない熱は身体に残り続ける。バイブを引き抜き、ぐったりとベッドに横たわった理人は、ふと天井を睨みながら考える。
瀬名はいま、どこで何をしているのか。
こんなおもちゃではなく、瀬名自身で満たされたい。強く、深く、壊れるほどに――。
「……馬鹿か、俺は……」
自嘲の声が、冷えた枕に吸い込まれるようにして虚しく響いた。
月曜日、浮かない気分で出社すると、受付嬢と楽しげに談笑する瀬名の姿が目に飛び込んできた。
「――っ」
先日オカズにしてしまった気まずさと、また違う女と話していることへの苛立ち。両方の感情が一気に押し寄せて、理人は思わず顔を逸らす。即座に足を速めてエレベーターへと逃げ込んだ。
自分は一体、何をやっているのだろう。完全に悪循環だとわかっていても、まともに瀬名を見ることすらできない。
このままではいけない。……けど、どうしたらいいのかなんてわからない。とりあえず平常心を装わないと、部下たちに怪しまれてしまうだろう。
深呼吸をひとつ。ざわつく心を落ち着けるように息を整えると、ゆっくりとオフィスのドアを開いた。
「おはようございます、部長」
「あぁ」
オフィスを見渡すと、既に数名の社員が出勤していた。係長も来てはいるが、浮かない顔のままモニターを睨んでいる。声を掛けるべきか一瞬悩むが――「面倒」という理由で却下。理人は見なかったことにして自席に腰を下ろした。
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。上司の岩隈からのメッセージを見つけ、思わず眉間に皺が寄った。
内容は、大阪支社への出張依頼。現状把握と新商品情報の共有、さらにシステム構築のために社員をひとり派遣してほしい、とのこと。
しかも「人選は一任する」とご丁寧に添えられている。
(この年末のクソ忙しい時期に……! しかも明日から一週間だと? んなもん誰も行きたがらねぇに決まってんだろ!)
内心で毒づきつつ、理人はフロアを見渡した。
係長は頼りなさすぎるし、最近は上の空で使い物にならないので却下。仕事の効率、プレゼンの巧さ、商品への理解度で考えれば萩原か瀬名。だが萩原は新婚旅行中で不在。……となれば、必然的に瀬名しかいない。
「……ぅ~ん……」
自分が行くことも考えたが、課長の仕事まで兼任している身では物理的に不可能だ。
頭を抱えて唸っていると――
「ふふっ、うんうん唸って……便秘ですか?」
「あ? 違うに決まって……ッ」
突然背後から声を掛けられ、理人は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、いつの間にか真後ろに瀬名が立っていた。
顔を見た瞬間、昨夜の痴態が脳裏をフラッシュバックする。視線がぎこちなく逸れてしまったのは、もはや反射だった。
――やばい。これじゃ「なにかありました」って自白してるようなもんだ。
「……っ」
言葉が出ない。出張の話を切り出さなければならないのに、喉が張り付いて動かない。
そんな理人の異変を察したのか、瀬名がふと身を屈めてパソコンの画面を覗き込んだ。
「へぇ、出張ですか……しかも一週間」
理人のモニターを覗き込んだ瀬名が、軽い調子で呟いた。
「……」
「誰に行かせようか迷っていたんですか?」
「あぁ……」
理人は動揺を悟られまいと小さく息を吐き、仕方なく瀬名と向き合う。
「こんな時期の出張だし、おまけに急だから、皆嫌がるんじゃないかと思ってだな……」
「僕、行ってもいいですよ」
――え?
絶対に文句を言うだろうと思っていた理人は、あまりに意外な答えに一瞬言葉を失った。
瀬名はごく普通の表情で、まるで大したことではないかのようにさらりと口にする。
まさかこんなにあっさり承諾されるとは思っていなかった理人は、戸惑いと同時に複雑な気持ちを抱かざるを得なかった。
「丁度、今抱えていた案件が全部一区切りつきそうだったんです。それに――どうせ、後一週間は理人さんに触れないから……」
最後の方は耳元に吹き込むような甘い囁き。心臓がドクンと跳ねる。
――我慢できる自信なかったから丁度いいです。
そう付け加えて悪戯っぽく笑う瀬名の顔に、理人は一瞬呼吸を忘れた。
つまり、この一週間手を出してこなかったのは……理人が出した禁止令を、馬鹿正直に守ってくれていたということなのか。
もしかして、金曜日にさっさと帰ってしまったのもそのため? ……いやいや、まさか。
都合のいい解釈をしそうになる自分を理人は慌てて諌める。
――あんなもの、反故にしてくれてもよかったのに。
危うく口に出しそうになった本音を必死で呑み込み、咳払いをひとつ。瀬名から視線を外す。
「……詳しい資料はお前のPCに送っているから、後で確認しておいてくれ」
「わかりました」
瀬名はそれだけ言って、あっさりと自席に戻って行った。
理人は、自分がどれだけ馬鹿だったのかを思い知らされる。瀬名を疑い切れなかったのは自分も同じじゃないか。
最近は、女性と楽しそうに話す瀬名の姿ばかりが目に付いて、勝手に疑心暗鬼になっていた。もう飽きられたのだと――。
それが杞憂だったとわかった瞬間、安堵と共に胸の奥がじんわりと温まる。
緩みそうになる頬を必死で引き締めながら、理人は出張の詳細ファイルを瀬名へ転送し、残りの作業を片付けるべくキーボードを叩き始めた。
その日は、珍しく瀬名が遅くまでフロアに残っていた。パソコンに向かって作業をしていた理人が顔を上げると、「お疲れ様です」と、言ってタイミングよくコーヒーを差し出してくれる。
「あぁ、すまない」
一瞬戸惑ったもののそれを素直に受け取り、冷ましながらゆっくりと口に含むと、程よい苦味と酸味が心地良く感じてほっと小さく息を吐いた。
「ここの所ずっと残業続きみたいですね」
「まぁな。課長の復帰がまだ先になりそうなんで、雑務が溜まってるんだ」
「そんなの、朝倉さんに振ればいいじゃないですか」
「アイツは駄目だ。ただでさえ使えねぇのにここ最近、ぼーっとしてて自分の仕事すらまともに出来てねぇからな。ミスも多いし……」
「あぁ、確かに」
瀬名も何か感じるところがあったのか、同意するように笑った。
「……で、お前はどうしてこんな時間まで残っているんだ?」
「どうしてって……少しでもあなたの側に居たくて」
ストレートな言葉にドキリと心臓が跳ねた。
「……っ」
不意打ちの言葉に、思わず理人は視線を逸らす。瀬名は時々こうして、恥ずかしげもなくさらりとこんなセリフを言うから困る。いちいち反応していては身が持たないと思いつつも、昨日のこともありどうしても意識してしまう。
「冗談ですよ」
瀬名はクスリと笑うと理人の椅子を反転させ、向き合うような形にすると机の上に手を置いて身を乗り出してきた。
「おい、なんのつもりだ……まだ仕事が――……」
「知ってますよ」
「だったら尚更邪魔するんじゃねぇ」
「わかっています。だから、ちょっとだけ……キスさせて下さい」
「はぁ!?」
突拍子もない瀬名の申し出に、思わず声が裏返る。
「キスだけはいいって言ったじゃないですか」
「……ッ」
確かに言った。だが此処はオフィスで、いつ誰が入って来るかもわからないというのに……。瀬名の真意がわからず、じっと見つめ返すと切なげに揺れる瞳に捕まった。
そんな目で見つめられたら、断ることが出来ない。
「……本当に少しだけだぞ」
「はい」
瀬名は嬉しそうに微笑むと、ゆっくりと顔を近づけて来た。
そっと触れるだけのキスはくすぐったくてもどかしい。
ふわりと降り注ぐように落ちて来た瀬名の煙草の香りに昨夜の痴態を思い出して、ブワッと一気に体温が上がった。
咄嗟に両手で瀬名の胸を突き、慌てて顔を逸らす。
「……っ」
思わず手の甲で口元を押さえた。熱がまだ唇に残っている気がして、どうにも落ち着かない。
「……理人さん……?」
予想外の拒絶に、瀬名の表情が一瞬曇る。ショックを隠し切れないその顔に、理人は胸を痛めた。
本当に嫌だったわけじゃない。むしろ逆だ。
心臓が壊れそうなほど跳ね上がり、あの視線に捕まればいくらでも流されてしまう。
だからこそ――拒んだのだ。
「……馬鹿野郎。ここは会社だぞ」
低く唸るように吐き出した声は、自分自身への戒めでもあった。
瀬名は小さく目を伏せ、それでも諦めきれないように理人の袖口を指先で掴む。
「……わかってます。でも、少しでも触れていたいんです」
そのか細い声に、胸が締め付けられる。
触れたい。抱き寄せたい。けれど、それを許せば一線を越えるのは時間の問題だ。
どうにか衝動を抑え込み、震える吐息を飲み込む。
「……すみません、少しがっつきました……僕、帰りますね」
「あっ、ち、違……ッ」
立ち去ろうとする瀬名の腕を、理人は思わず掴んでいた。
「理人、さん?」
「違くて……その、嫌だったわけじゃ……」
必死に言葉を探すが、声はしどろもどろになる。
そんな理人を見て、瀬名は大きな溜息を吐いた。
「……すみません、少しがっつきました……僕、帰りますね」
「あっ、ち、違……ッ」
明らかに動揺して立ち去ろうとする瀬名の腕を慌てて立ち上がり掴んだ。ゆっくりと瀬名がこちらを振り返る。
「理人、さん?」
「違くて……その、い、嫌だったわけでは……」
自分は一体なにを言おうとしているんだろうか。俯いてもごもごと口籠っていると瀬名がはぁ、と盛大な溜息を吐いた。
「……あー、も~……そんな顔して……」
突然、瀬名が呟いたかと思ったらいきなり抱きしめて来た。戸惑う間もなく顎を掴まれ半ば強引に唇を塞がれた。咄嵯に顔を背けようとしたが、それを許さないとばかりに両手で頭を押さえつけられて身動きが取れない。
そのまま舌先で唇をこじ開けられる。
熱い塊が侵入してくる感覚にゾクゾクとした快感が走った。久しぶりの濃厚なキスに体中の血液が沸騰しそうになる。
「ん……ぅ……ぁ……」
口腔内をくまなく蹂躙され、理人は無意識のうちに瀬名に首に腕を回ししがみ付くように抱き着いていた。自ら瀬名の唇を求めた。すると、瀬名もそれに応える様に激しく求めてくる。
お互いの荒々しい呼吸と厭らしい水音がオフィス内に響き渡る。
此処はオフィスで、もしかしたら誰かまだ残っているかもしれないのに……理性とは裏腹に体は勝手に瀬名の熱を求めて疼いていた。
もっと欲しい、もっと……もっと。理人は夢中で瀬名を求め続けた。
どれくらいの時間そうしていたのか、やがて瀬名の方からそっと唇を離した。互いの唾液が糸を引きながらプツンと切れる。瀬名はそれを指で絡め取ると、名残惜し気にぺろりと舐め上げた。
「……はぁ、堪らないな……」
瀬名はそのまま理人の肩に顔を埋めると、ぎゅっと強く抱きしめてきた。その仕草が可愛らしくて愛おしくて、理人も応えるように背中に手を回した。
「……もう我慢できそうにない」
「……え?」
「今日、泊まりに行ってもいいですか?」
耳元で囁かれる瀬名の声は低く掠れていて、いつもの冷静さなど微塵もない欲情に潤んだ瞳がじっと理人を見つめていた。その目はまるで獲物を狙う肉食獣のようなギラついた光を放っている。
「……だめだつっても、聞く耳なんて持たねぇだろうが」
素直に同意するのはなんだか癪だったので、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「あはは、バレました? もし、ダメって言ったら今すぐに此処で犯しちゃいますけど」
瀬名は楽しそうに笑うと、理人の体をくるりと回転させた。そして、背後から耳元で囁く。
「今、凄くしたい気分なんです。……あなたと――」
その言葉が耳に届いた瞬間、腰から砕けるような甘い痺れが全身を駆け抜けた。
瀬名は自分のどこが好きなのか、未だに理解できない。
それでも、相手にこんな風に求められるのは悪い気がしないのも事実だ。だから――。
「……こんな所で犯されたら堪んねぇからな……少し、待ってろ」
理人は心を落ち着けるために溜息を吐くと、机の上を片付け、パソコンの電源を落とした。
「大丈夫ですか、理人さん」
火照った身体をベッドに横たえていると、瀬名が水と煙草を持って戻って来た。
「……だるい」
「ハハッ、ですよね。水、飲めそうですか?」
「あぁ」
差し出された水をひったくるようにして奪うと、ゴクリと一口飲み込む。良く冷えた水が喉を通っていくのが心地良い。渇きを癒すと、一気に脱力し再び枕に顔を埋めた。
「……たく、がっつきすぎなんだよお前っ」
「すみません、久々に理人さんを抱けるって思ったらテンション上がっちゃって」
恨めし気な視線を送る理人を、瀬名は悪びれもせず笑って受け流す。ベッドの端に腰を下ろし、乱れた髪を優しく撫でてきた。
「でも、理人さんだって途中からノリノリだったじゃないですか。もっと、もっとって強請って、自分から腰振って……」
「や、やめろ! 思い出させるんじゃねぇっ」
羞恥に頬を染めて叫ぶと、瀬名は声を立てずに笑う。その顔が妙に嬉しそうで、余計に腹が立つ。だが、同時に胸の奥がくすぐったくもあった。
「まぁ、可愛い姿が見れて良かったです。お陰で明日からの出張も頑張れそうです」
「っ」
瀬名は理人の前髪を分け、額に軽くキスを落とす。満足げな笑みを浮かべる姿に、また心臓が跳ねた。
「……明日、早いんだろ? もう寝ろよ」
「……まだ、寝たくないです。もう少しだけ理人さんを充電させてください」
甘えるように言って、理人の胸に顔を埋めてくる。
「……たく、ガキみたいな事言ってんじゃねぇよ。ばか……」
呆れ声を出しながらも、柔らかな髪を撫でる手は止められない。サラリとした手触りが気持ちよくて、いつまでも触れていたくなる。
結局、瀬名の押しに負けてしまった形だが、こうして甘えられるのは嫌いじゃない。むしろ、自分にしか見せない顔だと思うと、優越感すら覚える。
それでも――絆されている自分が悔しいような、妙な複雑さも抱えていた。
瀬名は理人の手に自らの手を重ね、安心したように瞼を閉じる。その幸せそうな横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと満たされていく。
自分にも、こんな感覚があるなんて知らなかった。
それがナオミたちの言う「恋」なのかどうかは、まだわからない。
けれど――瀬名の穏やかな寝顔を眺めていると、自然と笑みが零れた。
今夜はゆっくり眠れそうだ。
瀬名の体温を感じながら、理人は静かに目を閉じ、その手を握り返した。
目が覚めると、周囲はまだ闇に沈んでいた。右腕だけがやけに冷たい。上掛けからはみ出していた腕を引き込むと、そこだけがすっかり冷えている。
その冷たさに思わず眉を寄せた。――さっきまで隣にいたはずの瀬名の気配が、きれいさっぱり消えている。
風呂にでも入っているのかと思ったが、耳を澄ましても水音ひとつ聞こえない。
まさか、昨夜のことは全部夢だったのか?
そんな考えが頭を掠め、慌てて身を起こす。だが腰に走る鈍い痛みに顔をしかめた。
「っ……夢じゃ、ない」
昨夜の情事が脳裏に蘇る。理人はぶんぶんと首を振り、両手で顔を覆った。羞恥と後悔と、どうしようもない甘さが入り混じって胸を締め付ける。
シーツを腰に巻き付け、リビングを覗く。そこに瀬名のカバンがないことに気付いた。
今日は始発の新幹線で出発すると言っていたから、着替えを取りに家へ戻ったのだろう。
――どうして昨夜、もっと配慮してやらなかったんだ。
疲れているはずなのに、自分は欲に任せて……。
自責の念がじわじわと込み上げる。スマホで時刻を確認すれば、もう朝の5時を回っていた。今ごろ瀬名は準備を終えて駅に向かっているのかもしれない。
理人はスマホを手に取り、発信画面を開く。……が、指が止まった。
今、電話してどうする? どんな声で、何を言うつもりだ。
「寂しい」だなんて口が裂けても言えるはずがない。
我ながら女々しい思考にうんざりする。
たかだか一週間程度の出張だ。たったそれだけで寂しいなど、あり得ない。
「ハッ……くだらねぇ」
自嘲気味に吐き捨て、スマホをローテーブルに投げ出した。
再びベッドに戻り、布団を頭から被る。――けれど、なぜか二度寝はできなかった。
胸の奥に、妙に落ち着かないざわめきだけが残っていた。