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第一章 壊れた教室、消えた笑顔
あの日、俺はヒーローになったつもりだった。
「やめろよ、やりすぎだろ」
気づけば、そう叫んでいた。
あの時、教室の片隅で怯えていた幼馴染――千景をかばったのは、ただの衝動だった。
でも、次の日から地獄は始まった。
「なんだよ、お前アイツの味方?」「キモっ」「じゃあ一緒にいれば?」
千景は、何も言わなかった。
それが悪いってことじゃない。
彼はただ、黙って転校していった。
残された俺だけが、ずっと“標的”になった。
今、俺は高校二年生。
教室では浮いていて、友達なんてものはとうにいない。
無難に、目立たず、ただ息を潜めて生きている。
なのに、気づくとまた“あの頃”と同じ空気が漂い始めていた。
「なぁ、今日も一人? 寂しくないの?」
「まじ七瀬って、存在してる意味ある?」
無視、陰口、机に落書き。
教師は気づかないふり。
誰にも頼らないと決めていた。
だって、誰かを信じたせいで、誰かを失ったから。
そうして、いつものように時間が過ぎていく……はずだった。
「――転校生を紹介する」
担任の声に、顔を上げる。
そして、息が止まった。
「海堂 千景(かいどう ちかげ)です。よろしくお願いします」
あの名前、あの顔。
少し大人びて、背も伸びて、雰囲気も変わったけれど……間違えようがない。
千景が、帰ってきた。
そして担任が言った。
「海堂の席は……七瀬の隣だな」
その瞬間、クラス中がざわめいた。
(なんで……)
千景は何も言わず、でも真っ直ぐこっちを見ていた。
そして俺の隣に座ると、少しだけ笑って、低い声で囁いた。
「久しぶり、七瀬」
「……今度は俺が、助けるよ」
その声が、まるで夢みたいに優しくて。
だけど俺は――ただ、黙って俯いた。
怖かった。
また誰かを信じるのが。
千景が隣に座るたびに、息が詰まりそうになる。
「七瀬さ、今も苦しんでるんだろ」
授業中、先生の目を盗んで、千景は小さく言った。
ノートの片隅に、意味ありげな落書きを書き込むふりをしながら。
「……別に。関係ないだろ」
それがやっとだった。
見られたくない。情けない自分を、あの千景にだけは。
昔の千景は――臆病で、守られる側だった。
それが今では、背筋が伸びて、どこか堂々としていて、誰とでも普通に話してる。
なのに俺の前では、優しい声で、目を合わせてくる。
「俺、後悔してたんだ」
「……は?」
「お前に助けられて、それで何もできなくて、逃げたくせに。全部、お前に押しつけてさ」
その言葉に、胸の奥がざらっと軋んだ。
「……逃げたんじゃない。そうするしかなかっただけだろ」
「でも、もう逃げないって決めた。俺……強くなったんだ」
あのときの千景からは、想像できないような、力のある瞳でそう言った。
「今度は俺が、七瀬を守るから」
なんて、簡単に言う。
でも、その言葉が、ずっと欲しかった。
放課後。
靴箱を開けたら、また中にぐしゃぐしゃに丸められた紙くずが詰められていた。
それを取り出そうとした手を、誰かが止めた。
「……やっぱり、まだやられてるんだな」
驚いて振り返ると、千景がそこにいた。
放課後の陽が差し込む中で、彼はすこし眉を寄せながら俺の手を見ていた。
「見せて。手、傷ついてない?」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない」
千景は、俺の手をぐっと取って、指先を見つめた。
少し擦りむいた皮膚に、眉をひそめる。
その顔が近くて、鼓動が早くなった。
なのに不思議と、不快じゃなかった。
「無理しないでいい。俺がいるから」
それがただの言葉じゃないことくらい、伝わってくる。
あの時、千景を守った自分が――
今度は、彼に守られてる。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
その日、放課後の教室はもう誰もいないはずだった。
でも俺は、体育で使った上履きを忘れたまま、取りに戻っていた。
人気のない廊下を歩いて教室のドアを開けると、そこには――
「お前、さ。ほんっとにウザいんだよな」
「声も出さないし、反応も薄いし。生きてる意味、ある?」
数人の男子が俺の席のあたりに集まって、俺のカバンを開けて中身をぶちまけていた。
机には「死ね」「消えろ」の文字が油性ペンで書かれている。
最悪だ――またか。
思わずドアに手をかけたまま立ち尽くしていると、
背後から、早足の足音が近づいてきた。
「……あ?」
「……は?」
ドアの横をすり抜けて、教室の中にズカズカと入っていったのは――千景だった。
「何してんの」
その声は低くて、冷たくて、張りつめていた。
彼の目は怒りでぎらつき、教室の空気が一瞬で凍りつく。
「え、なに……海堂? なんでお前……」
「その机に書いたの、お前ら?」
「……は? 何だよ、お前、関係ねーだろ――」
「――“関係ない”?」
バンッ!
千景が拳で机を叩いた音が、教室に響いた。
一瞬、全員の動きが止まる。
「俺の大事な人に、手を出してんだよ。どう関係ないって言うんだよ」
「お前らみたいなクズが群れて、ひとりを追い詰めて、笑って。何が楽しい?」
「弱いのはどっちだよ。数でしか人を潰せないくせに」
口調は淡々としていたのに、その怒りは明確だった。
それまで周囲に馴染んでいた彼の姿は、どこにもなかった。
まるで、過去に何かを誓ったような――そんな目だった。
「二度と七瀬に近づくな。次やったら……俺が黙ってねぇから」
その“目”に圧されたのか、加害者たちは何も言い返せず、そそくさと逃げていった。
静かになった教室に、俺と千景の呼吸だけが残る。
「……見たくなかった」
千景が、力なく言った。
「お前が、こんなふうにされてるとこ。俺、見たくなかった」
その手は、ずっと震えていた。
「ごめん……七瀬」
「お前を守るって決めたのに、俺、まだ間に合ってなかった」
「……でも、絶対、もう誰にも傷つけさせない」
千景の目に滲んだ光が、本気だってわかった。
あの頃とは違う。
逃げたり、俯いたりしない千景が、今は目の前にいる。
俺は、小さく息を吸って、口を開いた。
「……千景」
「うん?」
「ありがとう」
たった一言なのに、喉が焼けるようだった。
でも、それを言えた瞬間、少しだけ胸が軽くなった。
千景は、優しく笑った。
「何言ってんだよ。お前のためなら、当たり前だろ?」
あの日から、千景はいつも俺の隣にいた。
昼休みも、登下校も、体育の移動教室も。
気がつけば、千景の存在が“当たり前”になっていた。
不思議なことに、彼がそばにいるだけで、クラスの空気が少し変わった。
俺に近づいて何か言おうとする奴らも、千景の視線を感じると途端に黙る。
「まるで、ボディーガードみたいだな」
そう言ったら、千景はちょっとだけ苦笑して言った。
「んー……そういうつもりじゃないけど。俺がそばにいたいだけだよ」
そんなふうに自然に言うから、ドキッとしてしまう。
言葉が出なくて、無言のまま歩いた帰り道。
いつの間にか、千景の手が俺の袖を軽く掴んでいた。
「ん?」
「……七瀬がどっか行きそうで、なんとなく」
「……行かないよ。どこにも」
それは、きっと自分でも気づかなかった本音だった。
千景が帰ってきてくれて、助けてくれて、それでもずっと怖かった。
――また失うんじゃないかって。
でも、こうしてそばにいてくれるなら。
もう、少し信じてもいいのかもしれない。
数日後の放課後、ふたりで屋上にいた。
下校時間直前、夕焼けが校舎を赤く染めている。
フェンスの向こうにはオレンジ色の空。
「七瀬さ」
「ん」
「……なんであの時、俺のこと助けてくれたの?」
昔の話だ。
あの教室の隅で、俺が千景をかばった日のこと。
「さあ……」
「……“さあ”じゃないでしょ」
「……たぶん、見てらんなかった。お前が泣きそうな顔してんのに、誰も何もしなくて……俺、腹が立ったんだと思う」
「……そう」
千景は少しだけ黙って、ふっと息を吐いた。
「だから、今度は俺の番だって、ずっと思ってた」
「七瀬が俺を助けてくれたから、今の俺がいる。だったら、俺も……今のお前を守りたい」
まっすぐな言葉だった。
風が吹いて、制服の裾が揺れる。
「……ありがとう。ほんとに」
そう返したつもりだったのに、千景は首を横に振った。
「ありがとうじゃ、やだ」
「……え?」
「俺、七瀬のこと好きなんだよ」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
「昔からずっと。気づいたら、好きだった」
「だから“ありがとう”じゃなくて、俺のこと、どう思ってるか教えて」
言葉が、出なかった。
でも、胸の奥がじんわり熱くて、気づいてしまった。
怖くて目をそらしてきた。
傷つくのが怖くて、誰も信じなかった。
でも、千景だけはずっと――
「……俺も」
「え?」
「俺も、たぶん。千景のこと、好きなんだと思う」
「たぶん、って」
「今言ったばっかりで、ちゃんと“自覚”したのは今日だから……でも、本気だよ」
千景は一拍、黙って、ゆっくりと笑った。
「なら、今日から“自覚”していい?」
「……ああ」
次の瞬間、千景の手が、そっと俺の手を包んだ。
指先が触れる。重なる。
夕焼けの中で、俺たちはたしかに繋がった。
怖がらずに言える。
この人と、歩いていきたいと。
春の終わりが近づいていた。
桜の花びらが、窓の外を静かに舞っている。
季節がひとつ終わるたびに、俺たちは少しずつ変わっていく。
クラスではもう、あの頃のような空気は消えていた。
あれから、千景は俺の隣にいることをまったく隠さなかった。
俺の机に貼られていた落書きは、いつの間にか誰かがそっと消してくれた。
教室の空気が“変わっていった”というより――
“変えてくれた”んだ、千景が。
そして俺自身も、逃げないことを覚えた。
誰かに助けられながら、自分の足で立つってことを。
放課後、屋上。
いつものように二人で並んで、空を見ていた。
「……気づけば、春だな」
「うん。もうすぐ新学期か」
「また、同じクラスになれるかな」
「んー、俺が先生に頼んでみようか?」
「……バカ」
笑いながら、自然に肩が触れた。
もう、無理に距離をとったりしない。
千景がそばにいてくれるなら、それでいい。
「ねぇ、七瀬」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒にいていい?」
それは、まるで“未来”をたしかめるような声だった。
俺は一度だけ瞬きをして、言葉を選ばずに答えた。
「当たり前だろ。……千景がいないと、俺はまた間違えるから」
「俺もだよ」
千景は、ふわっと笑って、俺の手をとった。
その手は、あの頃よりずっと大きくて、でもぬくもりは変わらなかった。
あの日、君に助けられて――
あの日、君を助けて――
きっと、俺たちはずっと繋がってた。
これから先、どんなに不安な日々があっても、もう大丈夫だと思える。
だって今は、隣に“君”がいるから。
風が優しく吹き抜ける。
春の匂いのなか、俺たちは静かに笑い合った。