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それから六年の月日が流れた。
晴れ渡った空の下、いとは九条家の広い広い庭で夫を待っていた。
と、一羽の雀がいとの元へ飛んでくる。
褐色の小さな翼が風を切り、雀は自由に飛んだ。
いとは雀の姿に、ふわりと笑みをこぼす。
そこで後ろから芝生を踏む音がした。
「いと」
いとはゆっくりと振り返り、着飾った貴時に笑いかける。
「貴時様」
貴時も笑みを浮かべていた。
「待たせたな。そろそろ行こうか」
「はい」
貴時がいとの肩を抱いて庭を後にしようとした時だった。
「坊っちゃま!お嬢様!」
香世の叫び声が聞こえた。
ふたりが振り返ると、五つほどの少年と三つほどの少女がふたりの元へ駆け寄ってきていた。
香世は茶々丸と後ろから追いかけてくる。
ふたりは屈み、貴時は少年を、いとは少女を抱き留める。
「どうした、貴和もあさも」
貴時は少年少女、もとい貴和とあさにやわらかく笑んで尋ねた。
「ごめんなさい。僕たちどうしてもお見送りしたくて……。もう行ってしまうのでしょう?」
貴和は寂しそうに言う。
あさはこくりと小さく頷いた。
貴時は笑みを深め貴和とあさの頭に手をおく。
「ありがとう、ふたりとも」
すると香世と茶々丸が四人の元へたどり着いた。
香世は息切れしながら言う。
「申し訳……ありません」
「いや、構わない」
貴時は香世を見上げ、首を横に振った。
ふとあさがいとの指を握る。
「おかあさま……」
あさの寂しそうな呟きに、いとは苦笑した。
「夜には帰って来るから。すぐに会えるわ」
いとはそう言ってあさの小さな身体を抱きしめる。
いとはこの小さな温もりを愛おしく感じた。
「いと、行くぞ」
貴時が立ち上がって言う。
「はい、貴時様」
いとも立ち上がって頷いた。
貴時といとは子供たちに手を振り返しながら九条邸を後にした。
屋敷を出た後、貴時といとは手を絡めて繋ぎ、道を歩く。
「落ち着いたと言っていたが、本当につわりは大丈夫なのか?」
何度目かもわからない問いに、いとは苦笑した。
貴和を身籠ってからというもの、貴時はさらに心配性になった。
くしゃみをしただけで大袈裟に心配する。
貴和の時もあさの時もつわりは酷い方だったが、今回は特につわりが酷く、いとは苦しめられていたが、三週間前から落ち着き始め、今はもう全くない。
つわりがかなり落ち着いた一週間前、いとは最近全然お出かけに行けていないことを思い出した。貴和を身籠ってからつわりや出産や子供の世話で気を取られて時間がなかったのだ。
たまにはお出かけしたいなあと貴保の前で思わずこぼしたところ、子供たちは見ておくから、久しぶりに貴時とふたりで行ってきなさいと貴保が言ってくれたのだ。
最初こそ貴時は心配のあまり猛反対だったが、貴時としてもふたりで出かけたい気持ちはあったらしく、最終的に頷いた。
「大丈夫です。とっても元気ですから」
いとがそう言っても、貴時は納得していない顔だ。
「もう。心配性なんだから」
いとは白い頬を膨らませる。
いとにつわりがあったとき、貴時は休日はずっと傍にいてくれ、いとが望めば仕事がある日でも休んで一緒にいてくれた。
労りの言葉をかけ、いとの背中をさすり、いとの口に食事を運んだ。
俺が代われたらいいのになと言われたときは嬉しくて泣いてしまった。
お前は泣き虫だなと貴時がくしゃりと笑い、涙を拭ってくれたのもいい思い出だ。
「今日は貴時様だけの私なのですよ」
貴時は小さく笑った。
「確かに、今日は俺だけのいとだ。存分に楽しむとしよう。だが、やはり夜までというのは駄目だ」
「……夜までって約束だったのに」
いとはむっとした顔をする。
「確かにそう約束したが、無理は駄目だ」
貴時は断固として譲らない。
しかし。
「ね、お願い。いいでしょう?」
いとは立ち止まり、貴時の手を両手できゅっと握る。
そして愛らしく小首を傾げた。
貴時は数秒固まった後。
「……………………わかった」
渋々頷いた。
こんなにかわいく言われては、貴時は断れない。
貴時はいとのお願いにめっぽう弱いのだ。
いとは美貌を輝かせた。
「ふふ、ありがとうございます」
いとは上機嫌になって満面の笑みで貴時の手に再び自分の手を絡め、先程よりも強く握る。
貴時は、全く妻には敵わないと苦笑いをこぼした。
けれども、妻のこんなかわいい顔が見られるのなら、折れて正解だったのかもしれないとも思う。
どんな素晴らしい宝石も大金も妻の笑顔には及ばない。
心を明るくしてくれる、貴時にとってなくてはならないもの。
自分が折れたら妻の笑顔が見られるのだから、結局貴時はいつも折れてしまうのだ。
「貴時様?」
いとはぼんやりしている貴時に首を傾げた。
「お前は今日もかわいいな」
口からついて出た言葉だった。
いとはここで言われると思っていなかったので少し目を見開いて、花がほころぶように笑った。
愛してるやかわいいという言葉は日常的に伝えられているものの、やはり言われたら嬉しいものだ。
「まあ、ふふ。ありがとうございます。貴時様も今日も素敵ですよ」
心からの言葉。
いとにとっても、貴時はいつもかっこよく見えるのだ。
六年前も、今も。
貴時は口角を上げる。
「ありがとう」
ふたりは互いに恋をし続けているのだ。
それはきっと、何十年経っても変わらない。
そしてふたりは歩いていくのだった。