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五月の風は、どこか柔らかく、そして少しだけくすぐったい。
土曜日の朝、箱根行きのロマンスカーに乗り込んだ風滝涼と山下葵は、並んで窓際の席に座っていた。
「なんか……変な感じですね」
そう呟いた葵は、少し照れくさそうに笑う。
いつもの会社で見るスーツ姿ではなく、カーディガンに白いスカート。
その柔らかな雰囲気に、風滝は朝からずっとドキドキしっぱなしだった。
「うん。でも……似合ってるよ、私服。すごく」
「……涼さんも」
視線をそらす葵の頬は、少し赤い。
車窓を流れる緑が、二人の横顔を柔らかく照らしていた。
***
箱根湯本の駅に着くと、休日らしい人混みに出迎えられた。
手を繋ごうとしたけれど、どちらも少しタイミングを逸してしまい、そのまま並んで歩く。
でも、時折肩が触れるたびに、心が跳ねた。
「お昼、予約してた蕎麦屋さん、こっちですよね?」
「うん。でもその前にちょっとだけ……」
風滝は、駅前の小さな花屋に立ち寄った。
「え?」と戸惑う葵に、小さなブーケを渡す。
「今日の“旅の始まり”の記念。……受け取って?」
「……ありがとう。嬉しいです」
その笑顔は、まるで花よりもやさしくて、風滝は思わず見惚れてしまった。
***
午後はロープウェイに乗って大涌谷へ。
名物の黒たまごを食べたり、足湯でほっと一息ついたり、観光地らしいことを一通り楽しんだ。
そして、夕方。
予約していた旅館の和室に通されると、葵はほんのりと眉をひそめた。
「……あの。これって……部屋、ひとつなんですね?」
「え……うん。ツインだけど、和室だし、そんなに気まずくないかなって……まずかった?」
「い、いえ!違います! 嫌じゃなくて……その……ちょっとだけ、ドキドキしてしまって……」
その言葉に風滝は、思わず笑ってしまった。
「俺も、同じ気持ちだよ」
***
夜は温泉と懐石料理。
浴衣に着替えた葵が部屋に戻ってきたとき、風滝は一瞬、言葉を失った。
「……えっと。変じゃないですか?」
「いや……綺麗。すごく似合ってる」
ふと、視線が重なる。
葵の目は、少しだけ潤んでいた。
「なんか……幸せすぎて、怖いくらいです。こうして一緒に旅行なんて、本当に夢みたいで」
風滝は静かに彼女の手を取った。
「俺も、同じ。……でも、夢じゃない。現実だよ、葵」
その呼び方に、葵は驚いたように目を瞬かせる。
「今、呼びました? 名前で」
「うん。……旅行の時くらい、特別に呼ばせて?」
「……じゃあ、私も。涼さん」
その声は、小さく震えていたけど、とても優しくて、甘かった。
***
夜。
窓の外からは、虫の音と、遠くの川のせせらぎが聞こえてくる。
二人は同じ部屋の布団に並んで横になっていた。
といっても、距離はしっかり空いていて、なんともぎこちない空気が漂っていた。
「……眠れなさそう」
「うん。俺も」
しばらくの沈黙のあと、風滝がそっと言った。
「手……繋いでもいい?」
「……はい」
そっと伸ばした手が、彼女の指に触れ、絡まる。
その瞬間、心の奥で何かがとろけたように、安心が広がっていった。
「……大好きだよ、葵」
「……私も。涼さんのこと、ほんとに大好きです」
ふたりは、繋いだ手のまま、静かに目を閉じた。
その夜、夢の中でも指先はあたたかく触れ合っていた。
***
翌朝、旅館の庭で記念写真を撮った。
少し照れながらも寄り添って写る二人の姿は、どこにでもいる恋人たちのようで、でも確かに世界に一組だけのかけがえのないふたりだった。
「また来ようね、今度は夏か秋に」
風滝が言うと、葵は笑ってうなずいた。
「次は、もっと大胆に手も繋ぎたいですね。……ずっと、離さないくらいに」
「もう今でも、そう思ってるよ」
帰りの電車の中。
並んだ席で、ふたりは何度も目を合わせ、笑い合いながら、眠りについた。
――この旅が終わっても、恋は終わらない。
むしろ、ここからまたひとつ、ふたりの「未来」が増えていく。