テラーノベル
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先に坤鬼舎に逃げ帰ったわたしは、あとでこっぴどくモリに叱られた。
亜鐘姉さまがとりなしてくれて落着したけど、慌てん坊の夜火の二つ名にまた磨きがかかることとなってしまい後悔している。いずれ挽回したいけど、そんな日が果たして来るのだろうか。
坤鬼舎は主殿から伸びる内廊を経ると、別の建物に繋がる造りになっている。建物の局にはそれぞれ女房の侯名が冠されていて、たとえばわたしの局は『夜火の局』となる。
引き戸の中は塗籠のようになっていて、土壁で隣と仕切られる造りは、修繕したとは言えやはり昔の建物を思わせた。坤鬼舎ではこうした部屋がいくつも並んでいて、女房たちは狭いながらも自分だけの房を持てるのだ。
他の姉さまと距離ができる造りなのでちょっと寂しいけど、今日ばっかりはありがたかった。
ぼんやりした満月が空に飾られた夜。
小袖を着たわたしは局の簀子縁に座り、なんとなく足をブラつかせていた。
坤鬼舎の局の前はそれぞれ庭になっていて、か細い虫の音が草の香りと共に耳目へ優しく囁きかけてくる。壺庭なんて雅なものじゃなくて、ただ空いている縁側の表に花などを植えただけ。けど素朴な野趣があり、こういうものを愛せるようになったのも、ここに来て以来だ。
頭の中で、あえて無関係なことを考える。
だけどやっぱり思い出してしまうのは、昼間の一件。
保憲さま、やっぱりからかっただけだろうな。犬みたいで面白そうな鬼女を。
そうわかってはいるけど、でも、やっぱり引っかかって考えてしまうものだ。自覚していない価値を与えられた。そんな気さえする。
はあと息を吐き、わたしはうしろに両手をついて体を支えた。そして視線を上げてお月さんを眺める。初めての心地に胸がざわざわして、夜が深まっても落ち着かなかった。
それでもそろそろ寝ないと。明日に障る。
早いところ衾でもかぶって眠ろうと思ったとき。
「起きているのか」
不意にうしろから声が聞こえた。でも、心のどこかで待っていたのかもしれない。
「はい」と振り返って遣戸を見る。そこが開くと直衣を緩く着崩した晴明さまが、滑らかな足取りで顔を見せた。
「このような姿で、ご無礼を」
わたしは縁に指をつき、姿勢を正した。
「構わないよ。かしこまるのは性に合わないから」
「そう言って頂けると助かります。堅苦しいことができないので」
わたしの答えに晴明さまは笑い、隣であぐらをかいた。見るとその手には血の色に熟れて割れたザクロを掴んでおり、彼は中に密集する粒をつまんでは、ひょいひょいと口へと運んでいた。
「ザクロの実を賜ってな。羨ましいか」
もごもご頬を回しながら、晴明さまは笑う。わたしも釣られて笑いながら、手近にあった壺を彼の前に差し出した。
「はしたないですよ、晴明さま。ほら、種はこの器に」
「すまんな。しかし私も堅苦しいのが苦手でね」
「陰陽師なのに。お堅い儀式とか勘申とかあるんでしょう?」
「ああいう俗用が苦手なんだよね」
「俗用」
「むしろ、いまやあちらが本道か」
晴明さまはケラケラと笑う。
「先人は上手く嚆矢を放って儲けたものだ。内裏なんて、犬が奥座でした糞を将来の事件の前兆だって占うんだからね。上手く立ち回れば儲かる商売だよ、陰陽は」
「晴明さま、一度怒られた方がいいと思います」
と言いながらも、晴明さまが見せる無防備な姿には特別な感じがあった。わたしなんか未だお手も付けてもらえない女だけど、心だけは許してくれていると思う。
「それで、今宵はどうされました? 霞姉さまのところでお寛ぎかと思ったのですが。晴明さまも眠れませんか?」
「そうだな。吾妹が心配でなあ」
「陸燈姉さま? それとも妾の誰かですか?」
「お前だよ、夜火」
涼しい面相で、晴明さまは言った。
「わ、吾妹って……」
妻? 確か妻とかそういう意味だったはず。だから陸燈姉さまで……。いや、わたしの覚え違いかも……。
「みなはあまり気にしてないみたいだけど、私はどうも妾という言葉は使いたくなくてね。坤鬼舎の鬼女は等しく妻と思っている」
「な、なんと仰います……」
「等しく妻と思っている」
「きき聞こえなかったわけじゃないんです。恐れ多いお言葉で……」
名目上だけと思っていた。万が一お手を着けられたとしても、せいぜい召人みたいなものだと。わたしみたいな賊上がりに優しく声をかけてくださるだけでも、もったいないことなのに……。
くちびるを噛み、さっと晴明さまから目を逸らす。しかし彼はツノをつまむと、無理やりわたしの顔を自分に向けた。
晴明さまの紺碧の瞳は、月の光を映して輝いていた。わたしはそこに、常ならぬ力で引き込まれていく錯覚を覚えた。初めてこの目を見たあのときを思い出す。
「あの、晴明さま……」
「モリに聞いたぞ。不義は感心せんなあ、夜火」
「ふ、不義では!」
わたしは驚きで目を見開き、ブンブンと力いっぱい首を横に振った。
「そんなこと絶対にしません! 今日のは、その、成り行きで、たまたま保憲さまがわたしを見ていて……。たぶん市女笠をかずいていたから、わたしがよく見えなかったんだと思います! 逃げてしまいましたけど、でも保憲さまがからかうから……」
「話は途中だ。少し黙りなさい」
必死で弁解していると晴明さまがザクロの粒をつまみ、
「むぐ」
この口の中へと押し込んできた。その筋張って長い指と共に。
突然の異物。けど抵抗はできない。もしかしたら、……喜びさえあったかも。
晴明さまの表情はいつもと変わらなかった。円座にあぐらをかき、腕と指を真っすぐに伸ばして、弄ぶようにわたしの舌をグルグルとかき回す。
「はの、なにを……」
わたしはなす術も分からず、されるがままに彼の指をすすった。戯れのように口の中をかき回す晴明さまの人差し指は、ざくろの仄かな甘みと一緒に歯や舌やその裏を優しくピチャピチャと撫で回す。淫靡な音が坤鬼舎の夜をじんわり濁していた。
「美味いか?」
「は……、ひ」
「うん、お前の口で潰れたザクロを見ると、まるで鬼女が生肉でも食べているようだなぁ。新しい発見だ」
晴明さまはいつもの微笑みを浮かべたまま、なおもわたしの口内を弄ぶ。
「ねえ、夜火。私はね、果子は熟れたものが好みでねえ」
「ん……ん……」
ねじ込まれた晴明さまの指が、わたしの中で意志を持って動いている。生温いそれからは、はっきりと晴明さまの命が感じられた。自分の中が、とても甘く怖く心地良い感情に酔いしれていく。
耐え切れない。
視界は滲み、縋るように目で訴える。
「いいかい、夜火」
晴明さまはわたしの顔を、口の中の指で持ち上げた。
「控え目な気質はお前の美徳だが、自分自身を辛くさせてしまう悪しきところでもある。私が認めて居場所を与えたんだから。怖がらず、もう自分の値打ちを疑わないでおくれ」
「ん……」
「約束できるか?」
晴明さまの確認に、わたしはぼやける視界を上下に動かす。
「いい子だ、吾妹。やろうと立ったなら、もう道は半ばまで来ている。お前の心がもっと熟したそのときは、この続きを堪能させてもらおうか」
晴明さまは柔らかく目を細め、指を口から引き抜いた。くちびると晴明さまの指の間で糸が輝き、すぐ切れた。ザクロの紅と唾液で濡れた彼の人差し指は、月明かりを妖しく反射していた。
「では、霞のところへ戻る。早く寝てしまいなさいよ」
「……御意に」
簀子縁に手をつき、荒い息差しの中から返事を捻り出した。
余韻に浸るどころか感情がぐちゃぐちゃで、我が身になにが起きたのかまだ整理が付かなかった。
わたしは去り行く晴明さまの背中を見送る。やがて彼が遣戸を閉めて見えなくなって、足音すら聞こえなくなっても、しばらく。
晴明さま、わたしなどを心配して、ここに来てくれたんだ……。
また一つ惹かれた気がする。ここからは踏み込むのが怖いほど、この心は彼で溢れていた。
相手にされないからやめておけ。
頭に住むもう一人の自分が、想いの深入りを諫める。だけど晴明さまは、自分の値打ちを疑うなと仰った。わたしは、あのときからずっと……。
「晴明さま……」
舌の上で言葉を転がすと、口の中にザクロの種が残っているのに気が付いた。
わたしは指でつまんで取り出し、手の平に載せる。
種にはまだ、紅の果肉がへばり付いていた。
晴明さまの指のように艶めくだけで、愛想もなにもない種だけど、なんとなくわたしが生きていく先で、これがなにかをもたらしてくれそうな気がした。
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