コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
目が覚めたとき、窓の外には薄曇りの空が広がっていた。病室の天井はどこまでも白く、けれどまったく見覚えがなかった。
看護師が名前を呼んだ。
たしかに、それは自分の名前らしい。でも、音としてしか響いてこない。
「〇〇さん、大丈夫ですか?」
その「大丈夫」の範囲に、何を含めればいいのか分からなかった。
あとで知った。脳内出血だったということ。
命は助かったけれど、「以前の自分」は思い出せなかった。
それだけじゃなかった。
何もかもが、「左」と「右」で違って感じられるようになっていた。
左手に触れたタオルの感触は、まるで霧を握っているように頼りない。
右足で踏み出した床の固さと、左足で感じるものは、まるで別の世界のものだった。
体が同じ身体の中で、ふたつに割れてしまったような感覚。
まるで左右で「別の現実」を生きているみたいだった。
たとえば、朝の光。
右目の先には、まぶしさと暖かさがあるのに、
左側には影だけが残っている。
歩いていても、左側にだけ「自分がいない」ような、奇妙な不在感。
自分は誰だったのか。
何を好み、何に怒り、何に泣いたのか。
その輪郭が思い出せないだけでなく、
今この身体が、本当に「自分のもの」なのかも分からなかった。
退院の日。
服を着る。右腕はスムーズに袖を通す。
でも左腕は、自分の意思とは違うタイミングで動く。
違和感は服の下にも、心の中にも染み込んでいた。
「何から始めればいいのか分からない」
それが、毎朝目覚めたときの最初の気持ちだった。
でも、一つだけできることがあった。
「今の自分が、何を感じているか」をノートに書くこと。
たとえ左右がバラバラでも、感覚が薄れていても、
「ここにいる」と言えるために、言葉を綴る。
もしかしたら、世界の感じ方はもう元には戻らない。
でも、それでもいい。
新しく始める自分は、少し左右がズレていても、
確かに「ここに生きている」。
物語は、白紙から始まる。
それは悲しいことではなく、
まだ何色にも染まっていない、可能性の色かもしれない。