テラーノベル
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秋の空気は、まだ夏の名残を引きずっている。けれど、この街の風は、いつだってどこか甘ったるかった。特に、あの花屋の前を通る時は。
通学路の途中、ぽつんと佇む小さな店。ショーケースには、丁寧に生けられた花たちと、ガラス越しに笑う男の人の横顔。白いシャツにエプロン、少し肩をすくめた姿勢どこか疲れて見えるのに、微笑みだけは柔らかだった。
名前は「蓮さん」。1度だけ思い切って花を買った時に名札で知った。
「これ、ください」
「ありがとう、気をつけて帰ってね」
それだけの会話だったのに、俺の心には、それ以上に強く残ったものがあった。
どうしてこんなにも目が離せないんだろう。
別に男を好きになったことなんてなかった。今だって、女の子を好きになろうと思えば、なれる自信はある。それでも、あの人の笑顔を思い出す度に胸の 奥がどうしようもなく軋んだ。
それからというもの、俺は毎週金曜の放課後に、その花屋に通うようになった。言い訳みたいに季節の花を1輪だけ選んで、ぎこちない会話をする。それだけでその週を生き延びた気がした。
「このガーベラ、綺麗ですね」
「うん、今日は少し入荷が遅くて・・・・・・でも、状態がいいのが来て良かった」
「・・・来週も、ありますか?」
「多分・・・、君が好きならまた仕入れておくよ」
そんな風に言葉を交わすだけの日々。向こうはただの常連客くらいにしか思っていないかもしれない。でも、それで十分だった。
けれど
放課後、制服のまま、いつもより早足であの店へ向かったあの日。伝えたいことがあった。言葉にするのは恥ずかしいけど、どうしても伝えたくて。
店先には「しばらく休業します」と書かれた紙が貼られていて、人通りの中から聞こえた会話が、あまりにも無遠慮に俺の耳を撃った。
「え、知らないの? 昨日の夜だって。あの花屋の 人・・薬沢山飲んで・・・病院で亡くなったらしいよ」
まるで、世界が突然、停止したようだった。
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その晩、俺は駅から少し離れた廃ビルの非常階段の 踊り場にいた。通行人に見つからない場所をわざわざ選んだ。スマホの画面は消したまま、バッグの中に入れてある。誰にも気づかれないように。
首に巻いたロープを握る手が震えているのは、寒さのせいじゃなかった。
「・・・もっと早く気づいて・・・阻止できてたら良かったのになぁ、」
頬を伝って流れ落ちる涙を気にせず、息を殺すようにして、ゆっくりと足を浮かせる。視界がじわりと暗くなる。世界が、輪郭を失っていく。
そのとき、
まるで脳が焼けるような強烈な光とともに、意識が断ち切られた。
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目が覚め、俺は見慣れた自室のベットにいた。額にはじっとりと汗をかいていて、頭は痛むし、喉も乾いていた。夢だったのかと思いながら、 枕元のスマホを手に取る。
液晶に表示された日付 「9月13日(土)」
脳裏をついたのは、あの張り紙。あの人が亡くなったのは、確か9月18日の夜だった。
つまり、今はその5日前。
まだ俺にはやり直す機会がある。ということだっ た。
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