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あの言葉が、ずっと引っかかっていた──
─お前ならば、害されることも無かろう─
アリアの
深紅の瞳から零れたあの静かな言葉。
確信を湛えた声色。
まるで
そう在ることが当然であるかのような
絶対の前提。
なぜ──彼女は、そう言い切れたのか。
時也はレイチェルの額に
新しい冷却シートを貼りながら
思案に沈んでいた。
彼女の顔はまだ赤く火照り
呼吸は浅いまま。
肺の奥に残る粘り気を含んだ音が
ときおり小さな咳とともに漏れる。
──腐敗の魔女。
──微細菌の異能。
アリアは
〝植物の一族の庇護を受けていた〟
と語った。
(植物と⋯⋯微細菌⋯⋯)
彼の脳裏に
古く学んだ自然界の関係性がよぎる。
土壌に広がる菌糸と、植物の根。
異なる種が
互いの命を補い合うように編み上げた
見えない繋がり。
根粒菌、放線菌、共生菌類──
土の中で見えないままに植物を助け
生き延びさせる存在。
「──っ!⋯⋯〝共生〟か」
低く呟いたその言葉に
ぴたりと思考が合致した。
植物と、菌類。
敵対ではない、排除でもない。
互いが〝在るべき場所〟として
許容し合う関係──
それが
アリアの言葉の本意なのではないか。
「⋯⋯レイチェルさん」
時也はベッド脇に座り直し
彼女の耳元にそっと顔を寄せた。
「聞こえますか?」
彼女の睫毛が、かすかに震えた。
熱に浮かされ、濁った瞳がゆっくりと開かれ
焦点の合わないままに動く。
「⋯⋯と、きや⋯⋯さん⋯⋯?」
か細い声が、唇から漏れた。
それでも彼女は
確かに、彼の名を呼んだ。
「レイチェルさん、僕に擬態してください」
その言葉に、彼女の瞳がわずかに揺れる。
意味を理解しきれぬまま
それでも信じるように彼を見上げた。
「⋯⋯憶測でしかありませんが──
僕の植物の異能で
貴女の中の菌と共生できれば
症状が和らぐかもしれません」
その言葉に
レイチェルの呼吸が少しだけ強くなった。
彼女は、震える指を時也の腕へと伸ばす。
熱に浮かされたその掌が
彼の肌に触れた瞬間──
ふ、と、空気が揺れた。
擬態は〝模倣〟ではない。
それは、その者の魂に触れ
存在の輪郭を上書きする
〝融合〟に近い行為だ。
ゆるやかに、しかし確実に。
レイチェルの輪郭が
時也と同じものへと変化していく。
白かった肌がわずかに小麦色を帯び
長かった黒髪が
しなやかに肩で揺れる男の長髪へと変わる。
瞳が鳶色の深さを帯び
睫毛の角度が変わり
頬の骨格が少しずつ整っていく。
──そして
彼女の体内でも
確かに〝何か〟が変わり始めていた。
時也は、擬態の進行を見届けながら
そっと自らの手をレイチェルの腹部──
胸下のあたりに当てた。
その場所は
植物の異能が最も共鳴しやすい
〝中核〟であり
彼の力が集中する中心部でもある。
彼の掌が淡く発光し
細胞の奥に潜む菌の気配を探る。
その感覚は、どこか懐かしかった。
朽ちかけた樹の根に寄り添うように生きる
菌の気配。
光の届かぬ森の奥
冷たい土中にひっそりと存在しながら
決して敵ではなかったもの。
そして──
その〝菌〟たちが
少しずつ、変化を見せた。
それまで荒れ狂うように
炎症を起こしていた菌たちが
時也の力に触れた瞬間──
ふっと、静かになった。
まるで〝ここは安全だ〟と言わんばかりに。
繁殖を止め、代謝を緩め
侵食の速度を和らげる。
「⋯⋯良かった⋯⋯」
時也は
そっとレイチェルの掌を握った。
擬態の力によって
彼女の内に宿る菌たちは
〝敵〟ではなくなった。
植物の力がそれを受け入れ
緩やかな共生関係へと導きつつある。
それは即効の治癒ではない。
だが──確かな〝共存〟だった。
布団の中のレイチェルの身体が
少しだけ力を抜いた。
微かに熱を帯びていた頬が
心持ち赤みを引いていく。
浅かった呼吸が、ほんの少し
深くなっていく。
時也は、そっと瞼を閉じた。
(ありがとうございます
レイチェルさん⋯⋯
信じて、くれて)
彼女の擬態が解けぬように
彼はその手をしっかりと包み込んだまま
静かに夜を迎える準備を始めた。
静寂の部屋に
ひとつ、微かな嗚咽の音が滲む。
レイチェルの頬に伝うのは
汗ではなかった。
それは熱のせいではなく──
心の奥に溜まっていた痛みが
静かに零れていった証だった。
時也は時計の針に目をやる。
擬態の限界まで、あとわずか。
(⋯⋯三十分⋯⋯)
レイチェルの擬態能力は
時間に制限がある。
それは、他者の記憶や心を写し取り
同化するという特異な力の代償。
共鳴しすぎれば、意識が侵食されてしまう。
今、彼女が擬態しているのは──
他ならぬ、時也自身。
彼の記憶。
彼の感情。
彼の願い。
過去も現在も
全てが染み込んだ〝彼〟という存在。
それを
彼女は三十分という限界まで
受け止め続けているのだ。
「⋯⋯レイチェルさん
そろそろ一度、擬態を解いてください」
時也は囁くように語りかけると
彼女は微かに頷いた。
その瞳は赤く潤んでいた。
「⋯⋯は、い⋯⋯っ」
レイチェルは、擬態を緩やかに解く。
その瞬間
再び菌の活動が少しだけ強まるのが
彼には感覚として分かった。
すぐに彼は、額の汗を拭き
冷却パッドを新しく貼り替える。
水を含ませたタオルで喉元を撫で
体温の上昇を抑えるために足元を軽く冷やす
「少しだけ休みましょう。
五分⋯⋯だけですよ」
「⋯⋯うん⋯⋯」
レイチェルは横になりながら
声を震わせる。
「⋯⋯また、時也さんの記憶⋯⋯
見ちゃって⋯⋯ごめんなさい」
時也は、そっとその手を取り
優しく指を撫でる。
「⋯⋯謝らないでください。
むしろ⋯⋯こちらこそ、申し訳ない」
(僕の記憶など、何度もお見せして⋯⋯
すみません。
ですが、今は⋯⋯
貴女の生命が、優先なんです)
心でそう詫びながらも
声には出さなかった。
「アリアさんに擬態すれば
一瞬なのかもしれませんが⋯⋯
病に侵された心には重いでしょうから⋯⋯」
──レイチェルには分かっているはずだ。
アリアの不死の細胞は
あらゆる異物を焼き尽くす。
その擬態は
間違いなく、完全な回復をもたらす。
だが──
彼女の魂は
アリアの記憶に触れたとき
必ず深く傷を負う。
〝神〟として在った存在の
孤独と、悲哀と、血に塗れた過去。
今のレイチェルでは──
耐えきれない。
それを、誰よりも時也が理解していた。
だからこそ
彼自身が盾になることを選んだ。
五分後。
レイチェルは再び、そっと手を伸ばす。
「⋯⋯もう一度、いくね⋯⋯?」
「はい。お願いします」
時也はその手を包み
静かに擬態を受け入れた。
再び、彼女の輪郭が変わり始める。
そしてその瞬間
微生物たちの活動が、再び沈静化していく。
──命を繋ぐために、痛みを共有する。
それは、決して特別な奇跡ではない。
ただ一人を救うために
もう一人が引き受けるという
静かな祈りだった。
夕暮れが深まり
部屋の隅に夜の気配が落ちていく中──
時也は、彼女の手を離さずに
次の三十分の始まりを見守っていた。