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夜のバンカラ街は、まだ熱を残していた。
昼の喧騒が嘘のように消え、街灯の下には人影もない。
ただ一人、その暗がりを歩む影──アマリリス。
机の上に置かれた古びたパソコンの画面には、バンカラ街の匿名掲示板が表示されている。そこには今日も「チーター出没」の報告が書き込まれていた。
「北の倉庫街で、また死人が出た。」
「全身を刃に変える奴が現れた。」
「警備隊も手が出せず逃げたらしい。」
アマリリスの表情は変わらない。だが胸の奥では、静かに怒りの火が燃えていた。
黒いコートを翻し、彼は無音で路地を進む。
懐に収められた黒い拳銃が、わずかな金属音を響かせるたびに、夜の空気は張り詰めた。
「……ここだな。」
彼の視線の先、廃墟と化したビルの影に、不気味な気配が漂っている。
噂の「刃のチーター」
現れるたびに数人を切り刻み、路地に血の川を作る。
被害者は誰も彼の姿を語れない。残されたのは斬り裂かれた肉片と、壁に刻まれた無数の刃痕だけだった。
ギィ……と錆びた扉を押し開ける。
そこには、鉄臭い血の匂いが充満していた。
壁、床、天井にまで刻まれた切り傷が、不気味な模様のように広がっている。
「ようやく来たな、狩人」
闇の奥から、声。
次の瞬間、何もない空間から銀の刃が幾本も突き出した。
刃のチーターが姿を現す。
痩せた体、しかしその全身の皮膚から無数の刃が生え、呼吸に合わせてギラギラと光る。
目は血走り、口角は裂けんばかりに吊り上がっている。
「俺は待っていたんだ……お前みたいな獲物をな!」
鋭い音と共に、四方八方から刃が伸びる。
アマリリスは即座に銃を抜き、跳弾を計算して壁に一発撃ち込んだ。
──キンッ! 弾丸は壁に当たり、角度を変えてチーターの手首をかすめる。
「っ……!」
「乱雑なチーターだな。」
刃のチーターは顔を歪める。血が滲み出すが、すぐに新たな刃がそこから突き出した。
「効かねぇよ! 俺の身体は刃そのものだ!」
床を裂き、壁を砕き、幾十もの刃がアマリリスを襲う。
だが彼は冷静そのもの。
姿勢を低くし、最小限の動きで避けながら、銃声を絶やさない。
狙うのは急所ではない。関節、支点、動作の軸──チーターの動きを鈍らせるための一点一点だ。
パンッ! パンッ! パンッ!
「クソが……狙いがいやに冷静だな。」
「狩りに感情は不要だからな。」
銃口はぶれない。
撃つたびに刃のチーターの身体は動きを乱される。
だが奴も化物、痛みに怯まない。
むしろ狂気を増すように笑い、全身の刃を一斉に解き放った。
「終わりだァ!!!」
刃の嵐が押し寄せ、視界すべてを覆う。
逃げ場はない。
だが次の瞬間、アマリリスの瞳がわずかに細まった。
──パンッ!
乾いた銃声がひとつ。
銃口は天井の鉄骨を撃ち抜いていた。
鉄骨が崩れ落ち、刃のチーターの動きを一瞬止める。
アマリリスは迷わず踏み込み、至近距離で銃口を突きつけた。
「裁きの時間だ。」
──パンッ!
額を撃ち抜かれ、刃のチーターは吹き飛ぶ。
床を転がり、刃が砕け散る音が響く。
だが、まだ終わらない。
倒れた体が震え、砕けた肉から再び刃が生え始めた。
「俺は死なねぇ……! 何度でも斬り裂いてやるッ!」
狂気の声。
それに対し、アマリリスは冷ややかに弾倉を叩き込み、スライドを引いた。
「なら、何度でも撃ち抜くだけだ。」
闇に銃声が連続して轟く。
そして廃墟の中に残ったのは、散らばる刃の欠片と、冷徹な狩人の足音だけだった。
バンカラ街から少し外れた丘陵地帯。街の喧騒から切り離されたそこは、静けさと荒廃が同居する中途半端な場所だった。舗装が途中で途切れ、土とアスファルトの継ぎ目がひび割れている。かつての村の名残を思わせる木造家屋がいくつか点在していたが、ほとんどは朽ち果てて倒壊寸前。スロス・レクラムの家もまた、その一角にひっそりと存在していた。
室内は殺風景で、家具らしいものはほとんどない。古びた机と薄い布団と彼女自身の切り落とした小指だった。
「行くか。」
スロスは布団から無造作に身を起こし、ぼさぼさの髪を手でぐしゃぐしゃとかき回した。声には感情が乏しい。長い年月を重ね、ほとんどの感情は摩耗していた。それでも彼女の胸の奥底には、ほんの微かな好奇心がくすぶっていた。
――どれほどのチーターが現れるのか。
――その力を、この目で確かめたい。
それが、彼女を動かす唯一の衝動だった。
インクの銃も持たず、持つのはナイフだけ。スロスが頼るのは己の再生力。どれほどの傷を負おうと、時間が経てば肉は塞がり、骨は繋がる。たとえ焼かれようと斬られようと、彼女は蘇る。
その日の獲物の情報は、街に出入りする噂から耳に入った。
「全身を灼熱に変えるチーターがいる。」
「近づくだけで皮膚が焼けるらしい。」
「火山の化身みたいな奴だ。」
スロスは小さく鼻で笑った。
「……燃えるかどうか、試してみる価値はあるか。」
目的はそれだけ。街を救うわけでもなく、復讐のためでもない。ただ自分の不死性を試し、相手の力を確かめたい。その無感動で無慈悲な好奇心こそ、彼女の存在理由だった。
荒野の奥へ足を運ぶと、地面が焦げて黒ずんでいる場所に出た。草は枯れ、岩は赤熱し、ところどころ煙が立ち上っている。空気が重く、熱のせいで遠くの景色が揺らめいて見えた。
その中心に、奴はいた。
灼熱のチーター――名も知らぬその男は、全身から炎を吹き出し、歩くだけで周囲の地面が溶けていく。皮膚は煤に覆われ、眼は灼けた鉄のように赤く光っていた。
「どちらかといえば、イカの形をした溶岩だな。」
「……ああ、また来たのか。」
炎の化け物は低く呟き、ゆっくりとこちらを向いた。
「死にたがりは嫌いだが……燃やすのは楽しい」
次の瞬間、スロスの目の前に火柱が噴き上がった。
「……っ!」
反射的に跳ね退くが、熱は避けられない。肌が焼け、髪が焦げる。だがスロスは眉ひとつ動かさず、赤く爛れた腕をじっと見下ろした。
「ふぅん……なるほどね。」
ただの観察。痛みは感じている。だがそれ以上に、自分の身体がどう再生するのかに興味があった。焼け爛れた皮膚はじわじわと赤みを帯び、やがて再生の兆候を見せる。
「再生するか……じゃあ、もっと。」
チーターが両腕を広げると、空気そのものが爆ぜ、周囲に火の雨が降り注いだ。岩が弾け飛び、地面は炎に覆われる。スロスの身体はたちまち火達磨となり、皮膚が黒く炭化していく。
「……っ、はぁ……。」
呼吸すら困難。それでも彼女は笑った。歪んだ、狂気じみた笑み。
「うん……悪くない。」
炎の中で立ち尽くす少女を見て、チーターは愉快そうに嗤った。
「化物か。お前も。」
「そうだよ。」
短い返事とともに、スロスは炎の渦の中を突き抜けた。全身が焼け焦げ、肉が剥き出しになりながらも、その足取りは止まらない。右腕を振るい、ナイフで皮膚を切り裂く。
衝撃で炎の化け物が一歩後退する。しかし次の瞬間、爆ぜた炎がスロスの身体を丸ごと包み込んだ。
焼け爛れる音。肉の焦げる匂い。再生は追いつかない。皮膚が再生した端から再び焼かれる。
「燃え尽きろォ!」
炎の奔流が荒野を呑み込み、辺り一面が真っ赤に照らされた。
スロスの姿は、その中に消えた。
真っ黒に炭化した身体が地に崩れ落ち、風に吹かれて灰が舞い散る。再生は……もう追いつかない。灼熱の炎は、彼女の細胞ひとつ残らず焼き尽くしてしまった。
「馬鹿なやつだ。大人しく怯えながら過ごしておけばよかったものを。」
灼熱のチーターは背を向け、炎を収めた。
しかし彼は知らない。
彼女が予め家に残してきた、小指の存在を。
暗闇。意識は一度完全に途切れた。
しかし次の瞬間、視界が再び形を取り戻す。
「……ふ、ぅ…。」
スロスは荒れ果てた自室の中で目を開いた。机の上に置いた木箱――その中に保存していた小指の第一関節から、全身が再生されていたのだ。炭化した肉体はすでに存在せず、そこにあるのは再び蘇ったスロスの身体。
息を吐く。
「……燃やされた。あれに……一度殺されたのか。」
彼女の声には悔しさも怒りもない。ただ、冷たい観察眼と、淡い好奇心。
それだけが再生したスロスを突き動かす。
「もう一度。次狩れればいいんだ。」
その言葉を呟くと同時に、彼女は再び荒野へと向かった。
数分後、再び焦土の現場に到着したスロスの姿を見て、灼熱のチーターはぎょっと目を見開いた。
「……は?」
確かに燃やし尽くした。灰にしたはずだ。それが、今こうして目の前に立っている。
「お前……どういうことだ?」
「どうでもいいでしょ。」
スロスは淡々と返し、歩みを進める。足取りは軽い。まるでさっきの死などなかったかのように。
灼熱のチーターは動揺しつつも、再び炎を放った。
爆炎がスロスを呑み込む。しかし――
「無駄だって。」
声が、炎の中から響いた。次の瞬間、炎を突き破ってスロスの姿が現れる。皮膚は焼けている。しかし焼かれる端から即座に再生していく。
「なっ……!」
「もう分かった。あんたの炎は、熱いだけ……もう効かない。」
スロスの目が細められる。そこには冷たさと、微かに光る楽しげな色が混ざっていた。
「なら、次は……私の番。」
再生しながら迫る彼女のナイフが、炎の身体にめり込む。
灼熱のチーターが呻き声を上げて後退した。炎が揺らぎ、地面を焼き裂く。
「この化物がぁぁ!!」
全力の炎が辺りを包み、まるで地獄の釜が開いたかのような熱量が押し寄せた。
だがスロスは怯まない。焼かれても即座に再生。腕を失ってもすぐに生え変わる。
「そう、これだよ。こうじゃなきゃ……ね?」
狂気じみた笑顔を浮かべ、スロスはチーターの懐に潜り込む。腹に、胸に、顎に容赦なく斬撃を入れ込む。
「ぐっ、がああああ!」
チーターの炎が乱れ始めた。体表を覆っていた火が途切れ、焦げた皮膚が覗く。
「燃え尽きるのは、あんたの命だけ。」
スロスの声が低く響く。次の瞬間、ナイフがチーターの心臓を刺した。
「あ……がぁ……。」
静寂が訪れる。辺りには焦げた匂いと、血の鉄臭さだけが漂っていた。
スロスはしばらく相手の亡骸を見下ろしていたが、やがて小さく呟いた。
「……狩った、か。」
感情はない。達成感も、誇りもない。
ただ淡々と「事実」を確認するだけ。
だがその無表情の奥に、ほんの一瞬――微かな満足げな光が宿っていた。
「次は……誰を狩ろうかな。」
そう言い残し、彼女は再び荒野を去った。
この日、バンカラ街の外れで一人の灼熱のチーターが消えた。
その影に、化物を狩る化物――スロス・レクラムの存在があったことを知る者は、まだいない。