将嗣は、軽く息を吐きだし、気持ちを切り替えるように明るいトーンで話し出す。
「じゃあ、実家に行く話は前向きに検討してほしい。でも、認知の話は進めるからな」
「将嗣は、美優の事を認知していいの? だって、この先、再婚とか考えた時、足枷になる可能性だってあるのに……」
私の言葉に将嗣は眼を細め優しい瞳を向けた。
「夏希と俺の大切な子供だろう」
そう言われて、何かストンと心に落ちた。
「ごめん、今まで黙っていて……」
再会しなければ今でも美優の存在を将嗣には知らせてはいなかっただろう。
自分の意地のために子供から父親を奪い、父親から子供を奪う身勝手な行為をする所だった。
将嗣が寂しそうに微笑みながら言葉を紡ぐ。
「イヤ、夏希は悪くない。悪いのは俺だよ。俺が壊れた家庭を放置しないで、夏希と向き合っていれば、今頃3人で、ごくごく平凡な温かい家庭が築けていたんだ。俺が悪かったんだよ」
将嗣は私の肩に手を掛けた。
うっ、これは、マズイ雰囲気だ。
コイツ、あの手この手で、私を落としに掛かっている。
将嗣から逃れるように、スッと体を反転させて、誤魔化気味に話題を変える。
「そろそろ美優のオムツ替えるころかな?」
「おむつ替え? 俺にも出来るかな?」
頬をポリポリ掻いて、少し照れながらおつむ替えにチャレンジしようとする将嗣。そのパパになろうとしている努力は認め、替えのオムツを渡す。
「はい、頑張れ、新米パパ」
オムツといってもパンツタイプの物を履かせている。ラクな気がするからだ。
生後10ヶ月という月齢は、世の中のすべての物に興味深々でオムツ替えだからといって、おとなしく横になってくれたりはしない。
将嗣が美優を横に寝かせるとすかさず美優は体を捻り、ハイハイの姿勢に持ち込もうと暴れる。こういう時の背筋は乳幼児といえども凄い強力で、押さえつける事が難しい。
「美優ちゃん、おとなしくして」
と、焦っている将嗣を見て、クスクス笑ってしまった。困り果てて助けを求め、縋り付くような目で私を見る将嗣にアドバイスを送る。
「今、履いているパンツの横が破けるから破いて脱がして、履かせるパンツの足を通す所に自分の手を入れて、美優の足を掴んで履かせるの」
すると、悪戦苦闘をしながら将嗣はなんとか美優にオムツを履かせることができた。
ひと仕事終えた将嗣は、満面の笑みで美優を高く抱き上げた。美優もキャッキャッとはしゃいでいる。
嬉しそうにしている二人を見ていると、嬉しいような、申し訳ないような、何とも言えない複雑な気持ちにさせられた。
あの時、将嗣と別れず不倫関係の末、結ばれていたとして、さっき将嗣が言っていたように、ごくごく平凡な家庭が築けていたのだろうか?
私は、父親が浮気、母親は何時も泣いている。そんな、家庭で育った。両親共に自分の事に手いっぱいで、親に愛されたという記憶はない。
それぐらいなら、片親であっても愛情をたくさん注いで育った方が、幸せだと思う。
例え、正式に結婚して子供を成している夫婦でも、何らかの理由で別れてしまうこともよくあるだろう。今の時代、片親なんて特別な事ではない。
それでも子供の事を思えば両親が揃っていた方が良いようなイメージはある。ただ、その場合、両親の仲が良いという事が大前提だ。
知らないうちに不倫関係であった事ですら、あんなにショックだったのに不倫関係を続け、いわゆる略奪婚に至るまで、恐らく私は、将嗣を責め続けただろう。
不倫関係が発覚した時に別れていたからこそ、綺麗な記憶として将嗣の中に残っていたのでは?
そんな事を考えてしまったが、それもタラレバの話。
とにかく、色々な問題が蓄積されて大変だけれど、私は美優を産んで良かったし、美優を産んで幸せだ。
まあ、将嗣の美優に対する向き合い方は、期待以上のもので見直した。
このまま、友達として、美優のパパとママとして時々会うだけの関係なら素敵なのに……。
将嗣と美優、ふたりを眺めながらそんなことを思った。
帰りの車の中、タワマンから自宅までのわずかな距離だか、振動が気持ち良いのか、将嗣パパに遊んでもらって疲れたのか、美優はスヤスヤと眠ってしまった。
自宅アパート前に到着し、美優を抱こうとすると将嗣が運転席から周り込んで、手を貸してくれる。
「美優ちゃんは俺に任せて、玄関まで抱いて行くよ」
「ありがとう。助かる」
マザーズバックを肩から下げ、家の鍵を取り出した。部屋のドアのカギを開けたところで将嗣から美優を受け取る。
「今日は、ありがとう」
「美優ちゃんの認知の件、弁護士の都合が付いたら連絡する。それと、実家に行く話も考えておいてくれよな」
元カレと元カレの実家には行きたくない。けれど、孫を見たいという将嗣の両親の気持ちもわかる。
直ぐには答えが出せなかった。
「小田原に行ったら、美味しい鰻屋さんがあるんだよなぁ。あと相模湾の新鮮な魚を使ったお寿司屋さん、それに広尾の有名レストランのシェフが趣味でやってるイタリアンとか」
そう言って、将嗣はチラリと私の方を見る。
ハッ!
私ってば、きっと口がだらしない事になっていたかも!?
「ちょ、ちょっと、将嗣、あなたねぇ。私のこと何か誤解していない?」
「いや、俺は夏希のことを良く理解している」
そう言って、うんうん、と首を縦に振り、自信満々に答える。
「チッ」
「なに舌打ちしているんだよ」
「ヤバイ、心の中が、だだもれてしまった」
ふふっ、と笑うと将嗣もふわりと笑う。
「やっぱり、夏希はいいなぁ」
そんな、切なそうな顔を見せられたら、朝倉先生と付き合い始めた話をしようと思っていたのに言い出しにくい……。
「あ、あの……」
「なに?」
と、将嗣の瞳が優しいカーブを描き私を見つめる。
「あの、私……」
そう言いかけた時、将嗣が私の両肩を抑え、その手に力が籠る。そして、唇で唇を塞がれた。
突然の出来事に美優を抱いたままの私は身動きが出来なくて、目を見開いたまま固まってしまった。
唇が離れると「おやすみ」と言って、将嗣は車に乗り込み、車のエンジンが掛かかる。短いクラクションが鳴ると、車がゆっくり走り出す。
突然の出来事に驚きが大きすぎて、その場に佇んだまま車のテールランプが小さくなるのを見つめていた。
フラフラと部屋に入り、美優をベッドへ下ろした。その寝顔を見ていると細かいパーツが将嗣に似ている。
そして、さっきのキスを思い出す。
私の言葉を遮るようなキス。
将嗣は、きっと私が何を言い出すのか、察していたのかも……。
朝倉先生と付き合い始めたと将嗣に告げようと思っていたのに伝えることが出来なかった。
私にとって将嗣は、美優の父親、元カレ、今は友人。
でも、それは、私が勝手に思っているだけ……。
立ち上がりキッチンに移動して、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、クルクルとかき混ぜていると昔のことを思いだした。
そういえば、将嗣と付き合っていた時は、おそろいのマグカップでコーヒーを入れていた。
そのカップは、将嗣が結婚している事を知った夜にゴミ袋へ投げ入れたんだ。
あの夜、この部屋にあった将嗣の物を全てゴミ袋に詰め、気持ちに区切りをつけ、忘れると泣きながら誓った。
その後、お腹に将嗣との赤ちゃんが出来たのは、神様の悪戯だとしか思えなかったけど……。
美優が産まれる時に朝倉先生と出会ったのも神様の悪戯の延長なのかな。
そんなことをぼんやり考えた。
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