「今の家、素敵だったね」
振り返ると、予想より5mほど後ろを歩いていた由樹は、熱心にメモを取っていた。
「由樹―」
言いながら駆け寄り手帳を覗き込むと、今日覗いてきたメーカーの特徴がびっちりと書かれていた。
「………うん。すごかった!」
遅れること約30秒。やっと返事が返ってきた。
「無垢材って素敵なんだね。漆喰だっけ?ああいうの、お洒落なカフェとかでしかみたことなかったから、すごく新鮮だった。
それに何がいいってさ。経年劣化が“味”になるってところだよね。壁が汚れてきたり、テラコッタタイルが割れたり。それも全部“味”って言いきれるところがいいよ」
「そうね」
キラキラと光る笑顔で嬉しそうに話す由樹を、千晶は笑いながら見上げた。
「でも営業さんが、“家が趣味”って言うほど手がかかるって言ってたじゃない?その点は大変だよね」
「そうだね。でもそれも好きな人だったら、たまんないんだろうなー」
そう言いながら、キョロキョロと次のアトラクションを選ぶ小学生みたいな顔をしている、かつての恋人を見つめる。
さきほどからずっとこの調子だ。ライバルであるはずの他のメーカーを手放しで褒めたたえている。
千晶と付き合っていたころは、セゾンの家作りのことは褒めこそすれ、他のメーカーなんて眼中になかったのだが―――。
(成長したってことでいいのかな?)
思わず研究者としての血が騒ぎ、その真意を見極めようと覗き込むと、由樹は照れたようにこちらを見下ろした。
「な、何?」
「どういう心境の変化かなーって。他社研究なんて。転職でもするの?」
言うと由樹は大きな目をますます見開いて笑った。
「まさか!俺はセゾンの基礎に骨を埋めるんだよ!」
「んな大げさな……」思わず笑う。
「教えてもらったんだ。セゾンもいい。でも、他社もいい。それでもセゾンが良いって言いきれないと、家は売れないんだってこと」
由樹の瞳がキラキラと光っている。
「へえ。良いこと言うわね、篠崎さん」
由樹はなぜか少しだけ罰が悪いような顔をして、曖昧に笑った。
「いや、違うんだ。ライバルメーカーの営業マン」
千晶はその何とも言えない顔を見上げた。
「……誰それ?」
「牧村さんって人で。他社の商談客をひっくり返すのがめちゃくちゃ上手いんだ。その秘訣が、さっき言った『自社は良い。他社も良い。でも自社はもっと良い!』これなんだって!」
言いながら嬉しそうに笑っている。
「………へえ」
「だから他社の良さを知らなきゃって思って、今日付き合ってもらったんだ。ごめんね、せっかくの休みに」
由樹は片目を細めながら手を合わせた。
別れてからもうすぐ2年が経とうとしているが、こういう仕草はまるで変わらない。
千晶は微笑みながらその頭を撫でようと手を伸ばした。
「あ」
頭がさっと避ける。
「ご、ごめん。条件反射で」
「条件反射?」
聞き返すと、由樹は気まずそうに頬を指で掻いた。
「あ、えっと。俺がすぐ人に触られるから、この間、結構本気で怒られたって言うか、なんていうか……」
「怒った?篠崎さんが?」
言うと由樹は少し目を細めて頷いた。
その反応に、思わずほっと胸をなでおろす。
正直、仕事であるはずの日曜日にわざわざ休みを取り、元彼女である自分を堂々と誘うなんて、もしかして彼との関係に終止符が打たれたのかとヒヤヒヤしていたが、そうでもないらしい。
「そもそもそれも、牧村さんがさあ」
由樹が唇を尖らせる。
「不意を突いて頭を撫でるから悪いんだよ。年もそんなに変わんないのにさぁ」
「頭、撫でられたの?」
「そう。ホント、俺のこと馬鹿にしてんだから」
由樹はハウジングプラザの管理棟から空に伸びたアドバルーンを見上げた。
その横顔を見つめながら、千晶は一昔前のことを思い出していた。
『本当におっかない上司でさ』
前職の空調メーカーの会社で、“上司”にひどい目に合わされたはずの由樹は、それでも笑って千晶に報告した。
『でもいい人なんだ。すごく。毎日勉強になることばかりで、メモしきれないよ!』
困った顔をしながらも、やけに嬉しそうだった
ものすごく嫌な予感がしたから、鮮明に覚えている。
その時の由樹の表情と――――。
(似てる………)
由樹は振り返った。
「あ、次はミシェルだ!牧村さんってミシェルの営業マンなんだよ!今日は勉強しまくって、あの人が舌を巻くような知識を身に着けてやるぞ!」
言いながら由樹はひときわ派手な展示場に向けて小走りで掛けていく。
「……ね、由樹?」
その後ろ姿に話しかける。
「ちょっとだけ疲れちゃった。ベンチで休んできていい?」
「……あ!」
由樹が慌てて駆け寄る。
「ごめん!女の子のペースに合わせるの、忘れてたよ」
「いいのいいの。女の子ってガラでもないし」
言いながら千晶は胸の前で手を振った。
「由樹は時間がもったいないから行っといで」
言うと由樹は千晶とファミリシェルターの展示場の間で視線を往復させた後、
「じゃあ、さらっと見てくるよ。休んでてね」
頷くとファミリーシェルターに向けて再び走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、千晶はさっとトートバックから携帯電話を取り出し、ある番号を押した。
◇◇◇◇◇
篠崎は事務所で見積書を作りながら指で唇を擦った。
どうしても客の予算と作成した見積もりが30万円ほど合わない。
同期の某展示場のマネージャーなら迷わずこのままの見積書で行くのだろうが、自分はそうはしたくない。
予算は、予算だ。
客が絞り出した精一杯の額だ。できれば一生に一度の家作りを楽しく進めるため、そこから始まる人生にほんの少しの陰りも生じさせないため、希望の予算内で最高の家を建ててあげたい。
「30万か……」
削るとしたら、奥さんこだわりのキッチンクロークの飾り棚か、それとも姑こだわりの床の間の違い棚か、ご主人こだわりの書斎の本棚しかない。
「うーん」
唸ったところでデスクに置いた携帯電話が震えた。
番号を見て一瞬手が止まるが、篠崎はふうっと軽く息を吐くと、それを手に取り通話ボタンを押した。
『牧村って男、何者ですか?』
開口一番、彼女は言った。
「久しぶり。千晶ちゃん」
『時間がないのでさっさと質問に答えてください。由樹が戻ってきちゃう』
「…………」
面倒くさい人物から面倒くさい話題を振られて、ついため息が漏れる。
「何者もなにも。隣の展示場の営業マンだよ。最近、新谷がたて続けに3件、客を盗られたんだ」
納得できない雰囲気が受話口からビンビンと流れ込んでくる。
『それでどうしてこんなに由樹が懐いてるんですか?』
「……懐いてる?」
『懐いてるでしょ。牧村さんって人にブンブン振ってる尻尾が見えるんですけど?』
さすが新谷の初めての、そして唯一の、元彼女。
新谷に関しての洞察力にかけては、自分の何倍も上だ。
『忘れたんですか?私は、“あなたにだから”由樹を譲ったんですからね?』
「…………」
篠崎は思わずパソコンを閉じて椅子に座り直すと、姿勢を正していった。
「忘れてませんよ。大丈夫だって」
言うと、おそらく2年前に会ったその美しい姿のままであろう彼女は、受話口で囁いた。
『由樹を、ちゃんと見張っててくださいね』
「はいはい。ご心配には及びません」
言うとやっと彼女は安心したらしく、笑ったような諦めたような息をついた後、『それじゃ』と言って電話は切れた。
再び傍らに置き、それを見下ろす。
(見張るも何も……)
新谷が人を好きになったときどういう反応になるかは自分が一番よく知っている。
目を合わさずにいつも頬を赤らめ、こちらが見ていないときはこっちを見上げているはずなのに、こっちが気づくと目を逸らす。
少し触れただけでもビクビクと反応し、顔を真っ赤にして潤んだ瞳で見上げてくる。
思えば新谷は入社した時からそんな反応をしていた。
職場で普通に話せるようになったのなんて付き合うようになってからだ。
だからこそわかる。
新谷は、牧村に何も感じていない。
(まあ、あっちはどう考えてるかわかんないけどな…)
篠崎は軽く椅子をスライドさせ、窓を開けた。
ファミリーシェルターは相も変わらず家族連れで賑わっていた。
バルコニーから覗くオレンジ色の風船がそれを無表情で見下ろしていた。
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