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昨日の夜半から降り続いた雪は朝になっても止む気配はなく、その朝彼は愛車を慎重に運転しながら勤務先へと向かっていたが、その時、助手席に置いたバッグの中で携帯が映画音楽を鳴らした為、車を停めて慌てて携帯を取りだし耳に宛う。
『ハロ、オーヴェ!』
「おはよう、リオン」
朝の挨拶は今まで何度と無く交わしてきたが、いつからか半同棲状態になっていた今、携帯越しのそれが激しい違和感を感じさせてつい声を翳らせてしまうが、伝わってくる声にも似たり寄ったりの陰を感じ取ってしまう。
『今運転中か?』
「ああ。後少しでクリニックに着く。お前はどうなんだ?」
『んー、俺は歩いてるから平気』
この雪だから今日は電車通勤にしたと笑う声に金属音が重なり、程なくして息を吐く細い音が伝わってくる。
それから煙草に火を付けた事に気付き、そう言えば二人きりになるとあまり煙草を吸わないが平気だったのだろうかとつい気になってしまい、苦笑混じりに問いかければ全く問題はないと返されて瞬きをする。
『煙草は無くても生きていける。でも、オーヴェがいなけりゃ死んじゃう』
どんな顔でこの言葉を告げたのかがありありと想像できる声音に沈黙し、自分もそうだと伝えようとした矢先、今日はこの煙草をボスに売り払って新しいものを買うと、三角に尖った尻尾をちらつかせているような声につい吹き出し、いくらで買ってくれると思うと問われて自分ならば50セントだと答えれば、しみったれてるなぁと長閑な声が返ってくる。
「そうか?」
『そうだって!後10本は残ってるのにたった50セントなんて、商売あがったりだぜ』
お前は煙草屋でも始めたのかと内心で呟くウーヴェの気持ちを知ってか知らずか、ボスは良い顧客だから大切にしなければと、全く思ってもいない事を吐き捨てるリオンに苦笑し、そろそろクリニックに向かわないと行けないと名残惜しさを隠さないで告げると、意味の掴めない沈黙が流れた後、短いがかなり苛立ちが籠もった舌打ちの音が聞こえてくる。
「リオン?」
『・・・・・・・・・電話じゃあ伝わんねぇよなぁ・・・』
くそったれと、ウーヴェが間違いなく眉を顰める言葉を吐き捨て、ついでに煙草も投げ捨てたらしいリオンの気配に目を伏せ、最後の言葉は聞かなかったことにすると呟いたウーヴェは、通話を終える前にこの思いだけでも伝われと願いつつ、大切な何にも代え難い恋人の名を呼ぶ。
「リーオ」
『・・・うん、ごめん。・・・じゃあオーヴェ、そろそろ中に入るから切るな』
「ああ。今日も一日、気を付けて頑張れよ」
『ラジャー!オーヴェもな』
互いの携帯に小さくキスを送りあって通話を終えたウーヴェは、シートに深くもたれ掛かって溜息を一つ低い天井に投げ掛けると、気分を切り替えるように頭を振って己の頬を軽く叩く。
姉がやって来るという理由から様々な混乱をきたした己の脳味噌だったが、それを仕事に影響させる事など到底許せず、しっかりと気分を切り替えた彼は、後続車が途切れた頃を見計らって再度車を流れに乗せ、街の中心部にあるクリニックへと車を走らせるのだった。
いつものように一足先に来ていたオルガに今日も寒いと声を掛けたウーヴェだったが、オルガの顔が緊張している事に気付いて瞬きをする。
「おはよう、フェル」
「ああ、おはよう、エリー」
彼女の緊張の元がキッチンスペースから顔を出し、誰もが見惚れる笑みを浮かべて朝の挨拶をしてきた為、オルガのデスクの横を通ってキッチンスペースへと向かうが、その途中で何気ない動作で彼女の肩をぽんと叩いて合図を送れば、彼女がしっかりと受け止めた事を示す溜息が背中に伝わってくる。
何をしているんだと顔を出しながら問えば、オルガに美味しい紅茶の入れ方を伝授して貰っていたと教えられる。
「リアの紅茶は本当に美味しいから」
「あれは紅茶の種類よりもリアの腕前だったのか?」
「そうに決まってるでしょ!私が同じ茶葉を買ってきてもあんなにも美味しい紅茶は淹れられないわ」
頬に手を当てて切ない溜息を零す姉に苦笑し、エリーは紅茶よりもコーヒーが好きだから特にそう感じるんだろうと肩を竦めたウーヴェは、今日の予定を問いかけて母親と一緒にお買い物でもするわと教えられ、帰る前に連絡をするわとも告げられる。
そのやり取りを何気ない表情で交わしていたウーヴェだが、脳裏では昨日の光景を思い浮かべ、その時に感じ取った違和感の欠片を寄せ集めて一つに纏め上げようとしていた。
普段の姉の言動からすれば昨日の来訪が異常な事態であると、昨日の違和感が今になってそう教えた為、ウーヴェは拳を顎に宛って脳裏でうごめく思考を何とか繋ぎ合わせようとするが、まだピースが足りない事に気付いてひとまずは棚上げすることを自身に納得させるために溜息を吐く。
「ドクトル・ウーヴェ、今日も一日よろしくお願いします」
キッチンスペースから出て来た彼の前、オルガが表情を消して一礼した為、ああと答えながら診察室のドアを開け、同じく姿を見せた姉を振り返って母さんによろしくと告げる。
「午後に時間があれば美味しいスイーツを買ってくるわ」
白くて細い手を振りながら笑顔で弟を見送った姉は、受付デスクに座って仕事を始めた旧友にも笑顔でまた後で連絡をするわねと告げて踵を返し、颯爽とした背中を見せてクリニックを出て行くのだった。
彼女を見送ったオルガは、その背中が完全にドアの向こうへと立ち去り、静かに閉まったと同時に磨かれて光っているデスクに溜息を零し、ちらりと背後のドアを振り返る。
「・・・・・・フラウ・オルガ、今日の予約リストだが・・・」
「はい。こちらになります」
ファイルに一纏めにしたリストと、予約が入っている患者のカルテをリスト通りに並べたものを差し出すと、ウーヴェが内容を確認しつつ何でもない声で当分ここに顔を出さないと思うと告げた為、オルガが昨日に引き続き仕事中にもかかわらずに驚愕の表情で己のボスをまじまじと見つめる。
「ウーヴェ・・・?」
「ケンカをしたとかそう言うことじゃない」
溜息の中にだけやるせなさを混ぜ込み、つい先程姉が出て行ったドアをじっと見つめながら彼女がいる間は極力逢わないことにしたと呟くと、何故か彼女自身が恋人に言われたような顔色になって口元を両手で覆い隠す。
「リア?」
「どうして・・・?友達だと紹介すれば良いじゃない」
何故と真っ青な顔色で問いつめられて心底困ったような顔でウーヴェが苦笑し、眼鏡の下の双眸にも困惑と寂寥感を混ぜて小さく首を左右に振る。
「・・・・・・・・・あいつのことを友達だと紹介したくないな」
昨夜、誰の前であっても自分だけが許される呼び方でいつものように呼ばせてくれと許しを請われたが、ウーヴェもまた同じように最早リオンの事を友達という言葉では紹介できなくなっていたのだ。
いつもの穏やかさとはまた違う静けさで告白され、それならばと言い募ろうとした彼女に分かっていると頷いたウーヴェは、気分を切り替えるように肩を竦め、受け取ったリストを再度彼女の手に握らせる。
「嘘も方便だとは分かるが・・・嘘は吐きたくない」
例え恋人と一緒にいるためだったとしても、だからこそ一時凌ぎになるような嘘など真っ平だと裡に秘めた強さを感じさせるような声で、だから当分の間はあの金色の嵐はここにはやってこないとも告げ、ドアが静かに開いたことに気付いて瞬間的に表情を切り替える。
ウーヴェがやってきた患者を診て表情を変えた為、オルガも少しだけ俯いてきつく目を閉じた後、いつもの無表情ながらも患者には何故か評判の良い顔で不安を抱えてやって来る患者を出迎え、ウーヴェにリストの一番上にあったカルテを差し出すのだった。
その日の午後遅く、一日を一緒に過ごした母を屋敷まで送り届けた彼女は、雪も止んで晴れ間が見え隠れする空の下を、再び弟のクリニックがあるアパートへと車で向かっていた。
後少しで着くと言う頃、通りを大股に歩く一人の青年の姿が視界を過ぎり、慌ててウインカーを出して道路脇で停車をし、窓を開けて声を掛ける。
「ちょっと、あなた・・・!」
「・・・・・・・・・へ?」
彼女の声に行き交う人々が皆顔を向けるが、そんな人々の視線などものともせずに彼女が呼び止めた青年が振り向いたことに内心安堵し、車から降り立つと彼の前に歩いていく。
「あー、オーヴェのお姉さんかぁ」
どうしたんですかと暢気な声を挙げたのは、仕事が終わった為にこれからホームに帰ろうとしていたリオンだった。
「オーヴェ・・・?どなたのことかしら?」
聞き馴染みのない名前に彼女が眉を寄せ、誰のことを言っているのだと問いつめようとした時、リオンがとぼけたような表情から一瞬のうちに表情を切り替えて彼女の頭越しに声を張り上げる。
「車上荒しかぁ!?それとも狙いは車そのものかよ!!」
「!?」
表情の割には暢気な声が飛び、さすがに彼女も何のことかに気が付いて振り返った先では、こそこそとした様子の男が開けっぱなしだった車のドアに手を掛けている所だった。
ほんの僅かしか離れていない場所だった為に油断した彼女が真っ青な顔で己の車を見つめた時、自分と正対していたリオンが力強く石畳を蹴ったかと思うと、今にも逃げだそうとしている男に飛びかかる。
石畳の上に押さえつけられた男が痛みに藻掻く様を冷めた目で見下ろし、男が握っていたハンドバッグを奪い返したリオンは、真っ青な顔色のまま駆け寄ってきたアリーセを置き引き犯を見るよりも醒めた目で見つめ、バッグを無言のまま差し出す。
「・・・・・・ありがとう・・・」
「これが俺の仕事なんで。ったく、狙うならもっと他の場所で狙えよなぁ」
何で俺の前で置き引きなどするんだ、馬鹿野郎と口汚く罵った後、携帯で何処かに連絡をし、駆けつけた制服警官に取り押さえた犯人を引き渡す。
「被害者は・・・まあ未遂だから聴取は要らないかな」
駆けつけた警察官がリオンの顔馴染みの警官だった為、手短に事情を説明し、真っ青になってハンドバッグを胸に抱え込んだまま立ち尽くす彼女を二人で見た後、警官の腰を拳で軽く叩いて今回の手柄は総てやると笑うと再度彼女の前に向かう。
「バッグ、取られなくて良かったな、お姉さん」
そのハンドバッグも乗っている車も、何処からどう見ても一目で高価なものだと分かるのだから気を緩めるなと苦笑し、弟のために被害に遭わなくて良かったと率直な感想を口に出す。
「それはどういう意味かしら・・・?」
「ん?そのままの意味だけど?」
あんたが車のドアを開けっ放にしてバッグを盗まれようが車を盗まれようが自業自得だが、その事をオーヴェが知ればきっと悲しむに違いない。
あいつの悲しむ顔など、見たくはない。
真っ青を通り越して真っ白になった顔色で見つめてくる彼女に気負うでもなくごく当たり前のように告げて肩を竦め、用がないのならば帰ると告げたリオンは、我に返ったような彼女をただ見つめ、震える唇が流し出した言葉を一つ一つ脳裏に刻んでいく。
「あなた、あの子の何なの・・・?」
兄が雇った人間が写した大判の写真の中、真っ直ぐにファインダーを見つめているような顔と、昨日弟の診察室に飛び込んできた時の様子を脳裏に浮かべつつ、一体どんな関係なんだと声を潜めた彼女にリオンが蒼い目を瞬きさせるが、程なくして小さく吹き出して背中を丸める。
「またまたぁ。わざとらしいんだからぁ」
これだから上流階級と呼ばれる人達は大嫌いなんだと、陽気な声に最大限の嫌悪感を混ぜ込んだリオンが笑い飛ばし、彼女と視線を合わせるというよりは、上目遣いに見る為に腰を折ってその目を見つめる。
「知ってるんじゃねぇの、オネエサン?」
「!?」
「昨日オーヴェの診察室から出て行く前にすげー怖い顔をされたけど、それってさぁ、俺の事を知ってるって事、だよな?」
「!!」
「さすがに俺も初対面であーんな怖い顔で睨まれる事って滅多にねぇし。この間、カフェで誰かにじっと見られている気がしたんだけど、あ、もしかしてその時に写真でも撮ってた?」
だったら肖像権の侵害で訴えてやると顔中に笑みを湛えながら何故か真逆の感情を表している様なリオンに気圧されながらも、ただ精一杯の矜持から彼女が胸を張る。
「・・・・・・何のことかしら?」
「ばっくれるのならそれでも良いけどね」
そう冷たい顔で笑うリオンを見た瞬間、アリーセの足下から堪えきれない震えが這い上がってくる。
そんな彼女の前でゆっくりと煙草を取り出し、慣れた手付きでジッポーの蓋を弾いたリオンは、喉元まで出掛かった言葉を何とか呑み込もうと努力していた。
もしも彼女が愛するウーヴェの姉でなければ、今頃心身ともに再起できないほどの罵声を浴びせていただろう。
温々と何も知らずに育ち、金や食うものに苦労をしたことのない癖に、そんな人達を見れば可哀想にと憐れみから手を差し伸べる人々に対し、リオンはどうしても抑えることの出来ない嫌悪を抱いていた。
幼い頃の己は確かに食うものも金もあまり無く、傍目には可哀想かも知れなかったが、慈善家面をした人々に好奇心から憐れみの手を差し伸べられたくは無かった。
その憐れみがどれ程リオンの心を傷つけていたのかを知らないで、己が施したそれに満足し陶酔するような人種には、ついリオンは反吐を吐きたくなってしまうのだ。
そんな思いを、煙草のフィルターを噛むことで必至に堪えたのは、ひとえに彼女がウーヴェの姉であるという理由からだった。
どれ程疎遠になっていようとも、仲違いをしていようとも姉は姉なのだ。
リオンが心底望み、決して叶えられないと分かっていても欲する心が蠢き出す、その家族なのだ。
その葛藤を胸の奥深くでのみ繰り広げ、表情には一切出さずに恋人と似通った面立ちの女性を見つめたリオンは、彼女が口を開こうとする寸前に唇の両端を持ち上げる。
「どんな関係かぁ。俺の口から言っても良いんだろうけど、約束したからなぁ」
自分達の関係について話をするかしないかは一任すると、昨夜離れがたい抱擁を交わしつつ約束したことを小さく呟き、結局彼女に対してはナイショという、ふざけているのかと目を吊り上げたくなるような事を告げる。
「じゃあな、オーヴェのオネエサン」
チャオと手を挙げて煙草を街灯に括り付けられている灰皿に押しつけたリオンは、真っ青な顔で立ち尽くす彼女を一瞥すると踵を返し、腹が減ったから早く帰りたかったのにと、彼女の耳に入るか入らないかの声で呟き、もう一本煙草に火を点けると、最早アリーセの存在など眼中にないという背中を見せつけるように石畳の大通りを駅に向かって歩いていくのだった。
まさか姉とリオンが顔を合わせた事など思いも寄らないウーヴェは、窓枠の端に尻を乗せて肩越しにすっかりと日が暮れた街並みを見下ろし、まだ連絡を寄越さない彼女を思っていた。
母と一日一緒にいるが、戻る時には連絡をすると言い残した姉からの連絡が来ないのだ。
子どもではないために余計な心配はしていないが、連絡の一つもない事が何やら胸をざわつかせていて、何を心配しているんだと溜息を吐きながら前髪を掻き上げる。
「ウーヴェ、私はそろそろ帰るけれど、アリーセからの連絡はまだなの?」
今日の仕事を今日中にしっかりと終え、長い髪を背中に垂らしたオルガが診察室のドアを開けながら問いかけ、まだ無いと首の一振りで教えられると微かに眉を寄せる。
「随分とゆっくりね」
「そうだな・・・・・・電話をしようか」
「そうね。そうしてみればどうかしら?─────じゃあ、ドクトル・ウーヴェ。明日もよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく頼む、フラウ・オルガ」
何があろうともこれだけは変わることのない挨拶を交わし、オルガがドアを閉めようとしたその時、彼女の肩越しに重厚な木の扉が勢いよく開いたことに気付き、ウーヴェが窓枠から尻を浮かせる。
「・・・・・・・・・アリーセ?遅かったのね」
「ごめんなさい。リアにも迷惑を掛けたわね」
肩で息をしながら旧友の声に謝罪をし、申し訳ないけれどお水を頂戴と喉元を押さえながら告げたアリーセに、診察室から出て来たウーヴェもどうしたと目を丸くする。
「どうしたんだ、エリー?」
「・・・詳しいことは後で話すわ。リア、この後何か予定でも入ってるかしら?」
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきてくれた友人に感謝の言葉を告げてそれを一気に飲み干した彼女は、安堵の溜息を零しながら夜の予定を問いかける。
「え?今日は何も無いけれど?」
「良かった。・・・・・・フェル、帰りはそんなに遅くならないと思うから、また連絡をするわね」
「エリー?」
「どうしたの?」
アリーセの声に込められた怒りとも焦りともつかない色にさすがに二人が顔を見合わせて名を呼び、一体どうしたんだと問いかけるが、平静さを取り戻した彼女の口から出てくるのは何でもないの一点張りだった。
「今日はリアの好きな店に行きましょう」
「ええ!?」
ぐいっと腕を掴まれて引きずられそうになったオルガは、助けを求めるようにウーヴェを見つめるが、彼はと言えばただ姉の剣幕に呆然とするだけだった。
「ちょ、ちょっと待って、アリーセ!」
あなたと食事に行くのは嫌ではないが、少しだけ待ってちょうだいと必至にオルガが言い募った結果、アリーセが深く溜息を吐いて彼女を引っ張る手の力を緩める。
「じゃあ車で待ってるわ。早く来てね」
ひらひらと白くて綺麗な手を振り、なるべく早く来てちょうだいと言い残したアリーセは、呆然とする弟の頬にキスを残し、また後で連絡をすると告げると来た時同様扉を勢いよく開け放って出て行ってしまう。
「ウーヴェ、しっかりしてちょうだい」
「あ、ああ・・・すまない」
何ごとが起きたのかをようやく理解したウーヴェが額を押さえて溜息を零し、彼女も似たり寄ったりの顔で小さく諦めの溜息を零す。
「突然のお誘いは学生の頃から本当に変わっていないわね」
「・・・・・・我が侭だからな、あの人は」
「でも、何の話か・・・何となく理解出来るわね」
「・・・・・・リア」
「安心してとは言い切れないけれど、出来る限りあの子の事には触れないようにするわ」
だからあなたは変に考え込んだりせずに姉の帰りを家で待っていてと頷き、また明日と踵を返す。
出て行く細い背中を見送ったウーヴェは、姉の言動に昨日に引き続き振り回される事への苛立ちと、一体彼女から何を聞き出すつもり何だという疑問が脳裏で混ざり合って軽い眩暈を覚えてしまう。
ここは彼女の言葉に従って変に考え込むのではなく、自宅でリオンの声を聞きながら姉の帰りを待とうと苦笑し、帰り支度を始めるのだった。
その日の夜遅く、学生の頃の話しで盛り上がってしまって気付けばこんな時間になってしまったと苦笑する姉に、そんなに楽しかったのかと問いかけながら廊下を進み、玄関ポーチから一番近い、廊下に立って右手に伸びる短い廊下を進み、南に面した大きな窓がある部屋のドアを開ける。
この部屋も他の部屋同様、ウーヴェがこの家に引っ越ししてからは一度も使われたことのない部屋だった為、壁紙も絨毯も全く手を加えていない、この部屋が完成した時のままのものだった。
ウーヴェが常にいるベッドルームとリビングに比べると、壁紙の豪奢なデザインやふかふかの絨毯がこの家の本来の価値を教えてくれるようだった。
肖像画や風景画が織り込まれたタペストリーが吊されていたとしても不思議ではない部屋には不釣り合いとしか言いようのない広めのソファベッドが大きな窓の下にあり、その上には高級そうな寝具一式が丁寧に用意されていた。
「寒くないか、エリー?」
姉のために急遽寝具一式を用意したウーヴェは、この2週間の為だけに買い求めるのも躊躇いを覚えた為、実家に連絡をして彼女が使っていたものを運び込んで貰ったのだ。
屋敷にある自室同様ふかふかのベッドに腰掛けて深く溜息を吐いたアリーセは、弟の気遣いに最大級の感謝の言葉を告げ、寒くないわと満面の笑みを浮かべる。
「バスルームはここにあるのを使っても良いし、廊下にあるのを使っても良い」
ただし、ベッドルームだけは遠慮してくれと素直に告げると、その辺はさすがに姉も理解を示してくれるのか、ここのバスルームを借りると頷く。
「フェル、朝はいつも何時なの?」
「6時半だな」
「分かったわ。しばらくお世話になるのだから、食事の用意は私がするわ」
「エリー?」
ウーヴェに運ばせていた荷物をおもむろにベッドに下ろして開き、着替えだの何だのを取り出した姉に瞬きをしたウーヴェは、明日の朝ご飯は用意してあげるからゆっくりしなさいと片目を閉じられて軽く驚くが、姉の手料理を食べるなど何年ぶりだろうと苦笑する。
「そうよ。久しぶりで口が腫れても知らないわよ?」
くすくすと悪戯っ気を滲ませた緑に近い青い目を細めたアリーセに頷いたウーヴェは、姉の白磁のような頬にお休みのキスをし、お返しのそれを受け取ると静かに部屋を出て行くのだった。
出て行った弟の背中を見送ったアリーセは、パジャマ姿になってソファベッドに潜り込むと、今日一日の出来事を脳裏に思い浮かべていく。
母と一緒の買い物は久しぶりだった為に随分とゆっくりとしてしまい、留守をする事を快く了承してくれた夫へのプレゼントをあれこれと買い求めてしまったのだが、それはそれで非常に楽しい母娘の時間を過ごせた。
だが、その後の街でのあの青年との再会を思い浮かべると、つい無意識に唇を噛んでしまう。
あのように面と向かって馬鹿にされたことなど今まで一度もなかった。
何を持ってして自分を上流階級だと決めつけたのかも分からなければ、金持ちは嫌いだと逆に蔑むような目で睨まれるのかも分からなかった。
それに、どうして兄が彼の調査をした事も知っているのだろうか。調査を受けた本人が図らずも言ったとおり、写真を撮っていた事も気付いていたのだろうか。もしそうだとすれば何という勘の良さだろう。
調査の報告書から弟に同性の恋人がいる事を知り、信じられない許せないと思ったが、それはあくまでも弟の恋愛対象は女性だと信じて疑わないからだった。
彼女自身が知る数少ないウーヴェの交友関係やその言葉の端々から特定の女性と関係があることは理解していたが、相手に同性を選んだのは今回が初めてだった。
その驚きから来る拒絶だけが彼女の中にはあったのだが、その相手から思いも掛けない嫌悪の目を向けられてしまった理由を知りたくなる。
確かに弟の恋人の調査など決して誉められたことではないだろう。だが、その調査のそもそもの理由を今日母に知らされた彼女としては、致し方のないことなのだと自身も納得させていたのだ。
それとも、彼があのような目で自分を睨む理由は調査行為以外にあるのだろうかと思案し、報告書に書かれていた簡単な生い立ちを思い出した時、引っかかっていた何かがやっと納まる場所に納まってくれた安堵に溜息を零す。
もしも調査をした理由が生い立ちに関係していると彼が思いこんでいれば、あの目つきも理解出来た。
そうではない事を伝えた方が良いとは思うが、ひとまずは弟に直接彼の話を聞いてからにしようと、何だか長い一日を振り返りながら自然と訪れた睡魔に身を委ねるのだった。
姉が静かに眠りに就いた頃、ウーヴェはベッドに入って本を読んでいた。
いつもならば隣で静かだったり賑やかだったりする温もりがあって背中を暖めてくれていた事を、無くなったことでより一層思い知らされてしまい、本の内容に集中できない苛立ちから本を閉じてサイドテーブルに軽く放り投げると、置いてあった携帯にぶつかって絨毯の上に転がり落ちてしまい、ベッドから手を伸ばして携帯を取り上げた時、軽快な映画音楽が流れ出す。
「Ja」
『ハロ、オーヴェ』
「もう仕事は終わったのか?」
今日も一日お疲れさまと労いの言葉を掛ければ、微苦笑混じりに今日は早く終わったからホームに帰って飯を食わせて貰ったと返されて苦笑する。
「マザーはお元気だったか?」
『うん、元気。ゾフィーも元気だったけど・・・元気すぎてちょっとケンカしちまった』
「彼女と?」
『うん。相変わらず言うことがキツイから、ゾフィー』
恋人にとっての姉のような女性の顔を思い描き、確かに厳しいことも言うだろうが総てはお前を思っての事だろうと、自分の姉の言動と当て嵌めながら呟けば、オーヴェもそんなことを言うのかと拗ねた声が返ってくる。
「拗ねるな、リオン」
『ま、良いけどな。・・・・・・な、オーヴェ』
「どうした?」
『あのさ・・・・・・お姉さんには話をしたのか・・・?』
「まだ、だ」
『そっか・・・・・・お姉さん、俺のことで何か言ってなかったか?』
ウーヴェが申し訳なさそうに答えると、何故かそれ以上に申し訳なさそうな声が返ってきて、どういう事だと眉を寄せるが、何も聞かれていないのならばそれで良いと明るくはぐらかされてしまう。
「リオン?」
『うん、本当に良いんだ。だから気にするなよ、オーヴェ』
「そんなことを言われると気になるだろう?」
枕に肘を突いて頬杖を突きながら携帯を耳に宛っていたウーヴェだが、今すぐキスしたい、お前を抱きたいと全く関係のない言葉を聞かされて瞬きをする。
「・・・・・・お前だけじゃないと言っただろう?」
昨日も今朝も言っただろうと告げると、胸中の葛藤を表すような小さな小さな声が返ってくる。
「リーオ・・・もう少しだけ待ってくれ」
なるべく早く姉には説明をすると告げ、携帯の向こうが同意を示す言葉と沈黙を生んだ為に愛しているという大切な言葉を照れから口早に告げると、同じ言葉がゆっくりと伝えられる。
「明日も仕事だろう?精一杯頑張って来い」
『うん。オーヴェもな』
今朝と同じ会話を繰り返しながら逢えない寂しさを何とか紛らわせたウーヴェは、ほぼ同時に携帯にキスをした後、次に直接キスが出来る日が一日でも早く来ればいいと願って通話を終え、さっきは読めなかった本に手を伸ばし、睡魔が訪れるまで本の世界に没頭するのだった。