新生活が始まった。
大学時代に寮生活はしていたけど、完全なるひとり暮らしは初めてだ。
とりあえず必要最低限のものは揃えて、これからはここから会社へ行く。
朝食を済ませて家を出ると、エレベーターでばったり千秋さんと出くわした。
「やあ、おはよう」
彼は笑顔で挨拶をした。
「おはようございます」
なるべく顔を見ないように、ぼそぼそと挨拶を返す。
どうしても、私は彼とまともに目を合わせることができない。
結局あの夜はそのまま爆睡して気づいたら朝。
私はまた完璧な朝食をいただいて、ゆっくりして帰った。
「それで、考えてくれた?」
「え?」
「俺と付き合うこと」
「えーっと……」
朝食を食べているときに2回目の「付き合う?」を聞かれたのだけどそのまま保留にしている。
別れたばかりなのにもう次の人と付き合うのはどうかと思ったし、だいたい千秋さんは軽い感じだから遊び人のイメージが拭えないのだ。
もう少し彼のことを知ってからでないと先のことは考えられない。
ただ、ひとつだけ付き合いを前向きに考えてもいい理由はある。
相性、最高なんだよね!
「まだ、考えさせてください。もう少し落ち着いてから」
「そうか。わかった。無理強いはしないよ」
その返事を聞いてほっとしたと同時に少し残念な気持ちも拭えない。
だって千秋さんに恋愛感情はないのに体の関係だけで一緒にいたいなんて死んでも言えない!!
「最近、大丈夫? 変な電話来てない?」
「あ、はい。最近はまったく」
優斗からメッセージは来なくなった。
優斗の母もまったく電話をしてこない。
私が慰謝料の話を持ち出したからなのか、彼らは静かになった。
だけど、千秋さんは知り合いの弁護士を紹介してくれると言った。
私としてはあんまり大ごとにしたくないんだけど、何があるかわからないから今までのメッセージ履歴と留守電の録音を証拠として残している。
お願いだからもう面倒なことをしないで引っ込んでほしい。
だけどあの人たちがこのまま静かでいてくれるとは思えない。
「宇宙人だからいつ何を仕掛けてくるかわからない。注意しておかないとね」
私が今、言おうと思ったことを千秋さんが口にした。
しかも、真面目な顔をしてさらっと言ってくれる。
新しい生活が始まったとはいえ、すべてがクリアになったわけじゃない。
優斗も乃愛も同じ会社にいるし、おそらく会うことはほぼないだろうけど、気にならないと言えば嘘になる。
実家からは相変わらず母が帰ってこいと連絡してくる。
ブロックしたい気持ちはあるけど、やっぱり母親と縁を切るなんてできなくて、こんな相反する気持ちで揺れている自分に苛立ってしまう。
ずっと心の中に重い石がドカッと居座っていて気分が悪い。
だけどそれも、千秋さんの顔を見ただけですっきりする。
「どうしたの? もしかして俺の顔を見て安心した?」
彼の発言はまるでハンマーで、私の重石を簡単に粉々に砕いてくれる。
「それ、自分で言うセリフじゃないですよ」
「わかるよ。俺の顔、いいよね?」
相変わらず話が通じねぇっ!!
「千秋さんも宇宙人かもしれませんね。違う意味で」
冗談っぽく笑って言ってみたら、彼は驚いた顔で私を凝視した。
なんとなく彼が何を言いたいのかわかるから、こっちから先に言ってやる。
「『どうしてわかったの?』とか言う定番のボケは要りませんよ」
「名前で呼んでくれた」
「えっ……?」
そっち???
「だって名前で呼べって言ったじゃないですか」
「ああ、それは君を抱……」
「言わなくていいので!」
エレベーターにふたりきりでよかった。
誰かに聞かれたら恥ずかしい。
それにしても、優斗と言い、優斗母と言い、乃愛と言い、千秋さんと言い、私のまわりはなんでこんな変人ばかりなの?
会社のロビーに到着すると人の波をかき分けて美玲が飛びついてきた。
彼女は私の肩に手を置き、驚いた顔で訊ねる。
「ちょっと紗那、どういうこと? さっき一緒にいた人って前に話していた謎のイケメンじゃない?」
優斗とのことは報告していたけど、千秋さんのことは話していなかった。
「そうなの。えーっと、どこから話せばいいのか……」
「何か事情があるわけね。じっくり聞きたいわ。今夜久しぶりに飲みに行く?」
「いいよ」
ふわっとかすかに煙草の匂いがした。
「美玲、煙草やめたんじゃなかったの?」
「あー、うん……最近ストレスすごくてさ」
「何かあったの?」
「弟夫婦のゴタゴタに巻き込まれて母親の八つ当たりもすごくて、やってらんないって感じ」
なんだかものすごい既視感だ。
「私も、母親とうまくいかないんだよね。だけど縁が切れなくて」
「あたしも、何度も疎遠にしてやろうかと思った。けど電話が来たらつい出ちゃうのよね。話聞いたって弟のことしか話題にしないのに、イライラしながら聞いてしまう。で、電話切ったあとに煙草吸っちゃうわけ」
美玲ははぁっとため息をついた。
「真面目に働いて生活しているだけなのに、どうしてヤなことばっかりなんだろね」
それは今までにずっと思っていたことだ。
どんなに頑張っても報われなくて、まわりはすごく楽しそうにしてるのに、自分だけどこかに置き去りにされたみたいな虚無感。
今回のことだって千秋さんがいなければ、私は今も虚しさに耐えているかもしれない。
彼との付き合いを前向きに考えられない理由のひとつがそれだ。
ここで付き合っちゃうと彼に依存していることになる。
せめて、自分のことをすべてクリアにして、何もない状態で未来を考えていきたい。
ほぼ満のエレベーターに乗っていたら、扉が閉まるぎりぎりに女子社員が走り込んできた。
「ごめんなさぁーい、乗りまーす!」
その声にどきりとした。
乃愛だ。
私はガチガチに固まった。
一方彼女は私に気づいているはずなのに、まったく気にするそぶりも見せずにスマホをつついている。
早く到着階に着いてほしい。
そわそわしながらようやく降りる階で停止したらドアが開いた瞬間に、私は思いきり前のめりになった。
乃愛に足を引っかけられたのだ。
そのまま膝から転んでしまい、大勢の前で恥ずかしい格好になってしまった。
「やだぁ、大丈夫ですかぁ?」
サイアク……!!!
「紗那、大丈夫?」
美玲と数人が降りてから、エレベーターの扉が閉まった。
その際、乃愛はにんまり笑っている顔が見えてゾッとした。
「あの子にやられたの?」
「うん……そうみたい」
「あの子、もしかして山内くんの……」
「浮気相手」
痛む膝を押さえながらどうにか立ち上がる。
膝は少し赤く腫れていたけどひどい怪我はしていない。
ただ、人の前で派手に転んだことが恥ずかしくてたまらない。
「わざわざ挑発してくるなんて最悪じゃん」
美玲はの乃愛が立ち去った方向を睨みつけながら言った。
本当に何なんだろう。
私は別れたのだからもう関係ないのに、なぜあんな嫌がらせをするのか意味わかんない。
「あの子の部署知ってるわよ。言いつけてやろっか?」
「いいよ。どうせしらばっくれるに決まってる。関わらないようにするから」
「それがいいわ。あたしがいるときは守ってあげるよ」
「ありがと」
乃愛に会わないようにすればいい。
そう思っていたのに、彼女はさらにとんでもないことをしてきたのだった。
昼休みにオフィスビルの1階にあるカフェでコーヒーを買っていたら、背後からパシャっと音がした。
「えっ……?」
振り返ると持っていたバッグにコーヒーがかかっていた。
目の前に立っていたのは乃愛だ。
しばらく呆然として、それから怒りがわいてきたのでつい声を荒らげた。
「あなたね……!」
「ああっ! ごめんなさい! 急いでいたらこぼしちゃいました。これで拭いてください!」
乃愛はハンカチを差し出してきた。
こんなもので誤魔化せると思っているの?
わざとやったんでしょ!
問い詰めようとしたけど、周囲の目がある。
そして乃愛は完璧な演技を始めた。
「本当にすみませんでした。バッグは弁償しますから許してください」
乃愛は今にも泣きそうな顔で、周囲から見たら本当に申し訳なさそうに謝罪する。
ここで私がバッグを弁償しろと言えばこっちが悪者みたいに見えるじゃない。
とにかく、ここを出ないと。
そのために、私も演技をする。
「あなたこそ大丈夫? やけどしなかった? ちょっと出て話そう」
満面の笑みでそう言ったら、乃愛は真顔になった。
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