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「灯台ギャラリー」の評判は、静かに、しかし着実に広まっていた。
町の人々だけでなく、週末には噂を聞きつけた近隣の観光客も海猫軒を訪れるようになり、
アオイの描く海の絵は、新しい希望の象徴となっていた。
アオイは、絵を描くことの純粋な喜びを再発見していた。
それは、誰かの評価や売り上げのためではなく、
ナギの絵がそうであったように、誰かの心を温めるための行為だった。
ある日の午後、アオイがギャラリーの壁を塗り直していると、
ハルさんが受話器を片手にアオイを呼んだ。
「アオイちゃん、東京からだよ。あなたの前の職場の人みたいだね。」
アオイの心臓が一瞬で冷えた。
東京での挫折以来、彼女は前の職場との関係を一切断ち切っていた。
電話に出るのを躊躇したが、もう逃げないと決めた今の自分に、その選択肢はなかった。
震える手で受話器を取ると、聞こえてきたのは、かつてアオイの才能を否定し、
彼女の心を折った、元上司の冷淡で傲慢な声だった。
「…久しぶりですね、アオイ。元気にしていましたか。」
上司は、アオイがこの町で始めた
「灯台ギャラリー」のことを、偶然、地方の情報誌で見つけたという。
「海辺のギャラリーですか。随分と気ままなことをしているようですが、遊びはもうおしまいにして、そろそろ戻ってきてはどうですか?」
アオイは思わず息を飲んだ。
彼の声は、あの頃と同じ、
アオイの才能を「単なる趣味」として見下す響きを持っていた。
「相変わらず、あなたの作品はコンセプトが甘い。アートなんて、所詮は自己満足です。本当に『役に立つ』のは、売れるデザイン、人を動かす広告ですよ。あなたには、そのプロの厳しさが足りなかった。」
その言葉は、まるで過去のトラウマを再放送するかのように、
アオイの耳に突き刺さった。以前の彼女なら、この言葉に心が折れ、
自己否定の波に飲み込まれていただろう。
しかし、今の彼女には、ナギとの文通で得た「未来の証明」があった。
(ナギ君は、私の言葉で孤独から救われた。私の絵は、この町の人たちの心に光を灯している。これは、誰かの心を動かす、最も役に立つことだ!)
アオイは、静かに、しかし確固たる声で言い返した。
「お電話ありがとうございます、課長。残念ながら、私はもう東京には戻りません。」
アオイは、かつて恐怖を感じた彼の肩書きを、わざと強く口にした。
「私がここで描いている絵は、誰かの人生を変えることができます。私の作品は、人の心を救い、勇気を与える光になる。それは、課長が言われる『売れるデザイン』よりも、ずっと価値のある、プロの仕事だと信じています。」
言葉を失った上司に対し、アオイは続けた。
「課長は、私の才能を否定しました。でも、私は、時空を超えて届いた未来の証明を持っています。私の絵は、未来で必ず必要とされている。だから、もう、あなたの評価は必要ありません。」
アオイは、受話器を握る手に力を込めた。
これは、ナギを救ったのと同じくらい、
過去の自分自身を救うための、最後の言葉だった。
上司は、予想外の強い反論に、数秒間沈黙した。
そして、絞り出すように言った。
「…そう、ですか。それは残念だ。では、ご自由に。」
電話は一方的に切られた。
受話器を置いたアオイは、全身の震えが止まらなかったが、
その心は晴れ渡っていた。
長年、彼女の心に巣食っていた「自己否定」という名の呪縛が、完全に解き放たれた瞬間だった。
ギャラリーの窓から、夏の強い日差しが差し込んできた。
アオイは、再び筆を手に取った。
ナギとの文通が、彼女に与えたのは、
「未来への希望」だけではない。「今を生きる勇気」、そして「自分を信じる力」だった。
そして、その日の夕方、ハルさんが、郵便局からの妙な転送ハガキをアオイに見せた。
「アオイちゃん、これ…ナギ君からのお手紙かもしれないんだけど、住所が間違っているのか、転送を繰り返しているみたいでね。」
そのハガキには、ナギの筆跡で、たった一言だけが書かれていた。
「灯台、見つけました。」