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――気が付けば、もう部屋の中に居た。
店を出てから此処までの道のりを、上手く思い出せない。まァ別になんでもいいか、と特に深く考えることはなかった。
「はいはい、分かったから引っ張るんじゃねェよ」
部屋に戻るなり、太宰は餓鬼のように俺の服の裾を掴んで離さなかった。いつもなら鬱陶しさに突き放すところだが、今日は如何いう訳だか、その重みが心地良いとさえ思ってしまうのだから俺はきっと疲れているのだろう。ソファに腰を下ろさせると、太宰は遠慮もなく俺の膝に頭を預けてきた。
「中也の膝も案外悪くないね」
「調子乗んじゃねェ、叩き落とすぞ」
文句を云いながらも、振りほどく気にはならなかった。膝の上、後頭部を撫でる仕草に、太宰は満足げに目を細める。窓の外はもうすっかり暗くて、部屋の灯りだけが二人の輪郭を淡く照らしていた。
グラスに注いだ葡萄酒を一口含む。喉を通る熱さに紛れて、太宰の視線がじっと俺を見上げているのに気付いた。
「…何見てンだよ」
「別に。ただ、こうしていると意外と悪くない夜だなと思って」
いつもの軽薄な調子とは、少し違う声色だった。柔らかくて、掠れていて、まるで本音を零したような。
「…手前ェが素直な口利きやがると、気味悪ィな」
「酷いなァ。素直な太宰君は嫌いかい?」
「嫌いとは云ってねェ」
思わず本音が零れて、しまったと思う間もなく、太宰の冷たい指先が俺の頬に触れた。その冷たさすら愛おしいと思ってしまうのが我ながら莫迦みたいだった。――冷たい。何時からこんなに、此奴の体温は冷たかったのか。
「中也はホント、分かりやすいよね」
「五月蝿ェ」
「そういうところが、」
言葉が途切れる。太宰の顔がゆっくりと近づいてきて、額同士がこつんと触れた。鼻先が掠める距離。太宰の吐息が、やけに熱く感じた。いつもは温度のない筈のその声も、この瞬間だけは確かに何かを孕んでいるような気がして。
「手前、何の心算だよ」
「さぁ、なんの心算だろうね」
はぐらかす癖に、その手は俺の襟元を掴んで離さない。
「….莫迦か」
呆れながらも、俺の方からその距離を埋めた。唇が触れる。柔らかくて、少し冷えていて、それでいて何処か焦がれるような熱を孕んでいた。太宰の手が俺の後頭部に回り、引き寄せるように深くなる。息が上がる。心臓の音が、やけに大きく耳の奥で響いていた。――だが、聞こえるのは自分の鼓動だけだったように感じる。離れた後、額を合わせたまま、太宰は珍しく黙っていた。ただ、俺の頬を親指で撫でる仕草だけが、やけに優しくて。
「…なンだよ、その顔」
「否?中也はこういう時だけは可愛い顔をするなと思って」
「五月蝿ェ」
照れ隠しに突き放そうとする俺の腕を太宰は緩く捕まえて、そのまま自分の胸に引き寄せた。トクトクと、規則正しい鼓動の音が耳元で聞こえる。――規則正しい。当たり前だ。当たり前、の筈なのに。何故だろう。その音が今更になって、やけに耳につく。
「…このまま、もう少しだけ」
「…嗚呼」
「愛してるよ、中也」
そう囁く声は、いつもの軽薄さが嘘みたいに掠れていて、甘くて、何処か苦い。俺はそれ以上何も言わず、ただその体温に身を委ねた。――何時迄も、こうして居られればいいと、そう思った。其れが叶わぬ甘夢だと、本当はとっくに分かっていた癖に。
コメント
1件
わあ、第2話、すごく良かったです……。最初の「気が付けばもう部屋の中に居た」っていう冒頭から、既にどこか夢と現の境が曖昧な空気感が漂ってて、惹き込まれました。太宰の「愛してるよ」の台詞、掠れて甘くて苦いっていう描写が本当に胸に刺さります。最後の「叶わぬ甘夢」で一気に切なさが加速しましたね。この二人の関係性、続きが気になります。