⚠︎ケーキバースを題材にした作品です。カニバリズムや倫理観の欠如した描写が苦手な方は読まないでください⚠︎
🌩️は終始可哀想だし、🤝は多分SAN値があんまり残っていない。全方向に配慮していないので無理だと思ったらお戻りください。
作中碌に説明も入れていないのでケーキバースがよく分からない方は読まない方がいいです。これが初ケーキバースであっていいわけがないので……。
12000字あるのでお暇な時にどうぞ。
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「リトくんってさぁ、フォークなんだね」
カシャン、とカトラリーが指からすり抜けて、洗い立てのスープ皿の上へと落ちた。
頭が真っ白になって口をはくはくさせることしかできない俺を覗き込んで、テツは「大丈夫?」だなんてまるで他人事みたいに言う。
「……な、なん、で……それ、」
「いやほら、ヒーローになるとさ、栄養士さんみたいなの付くじゃん。某アプリみたいな。……で、ちょっと特殊な権限でね、リトくんの担当の人にこっそり聞いちゃって」
「………………」
血の気が引く、とはこういうことを指して言うんだろう。手足の先から力が抜けてどんどん冷たくなっていく。心臓が耳のすぐ近くで鳴っている。
今からならまだ誤魔化しが効くんだろうが、生憎俺はそんなに咄嗟に言い訳を並べられるほど器用な人間じゃなかった。思考を放棄した脳はどうする、どうすれば、と疑問符を浮かべるだけで、ただただ時間が過ぎていく。
「……ね、リトくん。こっち向いて」
「…………っ、」
無理だ。
泡だらけのスポンジを握りしめたまま微動だにしない俺に痺れを切らしたのか、テツは俺の肩を掴んでずいっと顔を近づけてきた。恋人の大胆な行動に慣れていない俺は、珍しく静かな怒りを滲ませたテツとうっかり目を合わせてしまう。
「なんで今まで隠してたの? 僕らさ、付き合ってもう2ヶ月経つよね」
「……そ、れは、……だって、…………」
「だって?」
「…………怖い、だろ」
フォークというのは、ただ一瞬の欲を満たすためだけに人に危害を加えるような犯罪者予備軍を指す言葉だ。実際のところはともかくとして、世間一般で言うフォークとはつまりそういうものだろう。それが分かっているから、こうしてテツと恋仲になってからも頑なに隠し通してきた。
……まさか、こんな形で明るみにされるだなんて。
またすぐに視線を逸らす俺に、テツは軽くため息を吐いた。
「……きみねぇ、さすがに僕のこと見くびりすぎじゃない?」
「は……?」
「僕はそんな狭量な男じゃない。愛する人の欲求不満のひとつくらい、受け入れてあげるくらいの甲斐性は持ち合わせてるんだよ」
テツはシンクに転がったカトラリーを拾い上げると、泡を洗い流して食器置きへと立てかけた。
そのやたらと説得力のあるバリトンボイスに一瞬流されそうになったが、フォークという性質はそんな精神論でどうにかなる問題じゃない。俺は反論しようと口を開くも、またテツによって阻止されてしまった。
「──それでなんだけど、きみケーキ食べたことある?」
「……人のほう?」
「うん。人のほう」
「あるわけねえだろ」
「んー、だよねぇ。……じゃあさ、食べたいって思ったことはある?」
「…………、ねえよ」
「……ふうん? そっかぁ……」
手についた洗剤を洗い流し、タオルで拭く。その何気ない動作を終えて振り向くと、テツは今にも触れてしまいそうなほど近くまで近づいてきていた。
「へっ!? お、まえ近っ……!」
「……ところで、僕が持ってるちょっと特殊な権限っていうのがね……?」
「は、……ぇ、?」
する、と俺の首筋をテツの骨張った指が這う。水気を拭き取ってもいないそれはやけに冷たくて、鎖骨へと伝う水滴に気を取られているうちに唇を塞がれてしまった。
やばい、こいつとキスすんの初めてなのに。数年単位で片想いした相手とのキスがロマンチックとは程遠い状況で叶ってしまった後悔は、鼻先をくすぐる甘い香りによってすぐさま塗り潰されていく。
甘くてほろ苦い、何かものすごく──美味しそうな、匂い。
「ンっ、んむ……っふふ、」
「……ッ!! っふ、……!!」
含み笑いとともに上唇をちろりと舐められ、甘い香りはより一層強くなる。あっという間に呼び覚まされた欲望に抗えないまま、薄い唇を割り広げるように舌をねじ込んだ。瞬間、ずっと待ち望んでいた甘露が舌の上に広がる。
熱く柔らかい粘膜が纏っているのは、日頃馬鹿みたいに吸っている煙草のせいだろうか、キャラメルのような深みのある甘さの奥にほんの少しの苦みを感じるような、極上の『味』。それがたった今テツから与えられている、俺が渇望して止まなかったもの。
あまりの歓喜に打ち震えながらその華奢な顎を掴むと、かぱっ、とまるで『ご自由にどうぞ』とでも言わんばかりに開かれた口に葛藤する間もなくかぶりついてしまう。
「っ、んはっ……そんなに慌てなくても、僕は逃げないって……ッぁ、」
舌の裏側をつついてやれば、新しい唾液がじゅわりと湧いてくる。それは今しがた飲み下した分よりも更に暴力的なまでに甘く、麻薬のように俺の思考を鈍らせていく。口の端から垂れるひと雫さえもたまらなく惜しくて、品がないことなんか分かっているのに舌で掬い取ってしまうのがやめられない。
テツに頭を撫でられながら夢中になって貪っている俺はさながら、ペット用の給水器にしゃぶりつく犬にでもなった気分だ。
……どれくらい経っただろうか。
フォークの本能なのか、それとも生来の食い意地のせいなのか、俺は目の前に差し出されたごちそうを食い尽くすのに時間が経つのも忘れるほど没頭してしまっていた。もう少し、あとほんのちょっとだけ……と、やめどきひとつの区切りも付けられないでいる俺の胸元を、テツが軽く叩いてくる。
あぁ、テツはきっとファーストキスだったんだろうし、息継ぎができていないんだろう。名残惜しいが、かわいい恋人が窒息してしまう前に唇を解放してやる。
「ん、ふぅ゛……っ、〜〜〜ッは、はァ……っ、〜〜ッし、死ぬかと思った……♡」
「っは、……っごめん、」
案の定テツは姿勢を崩し、シンクにもたれかかりながら肩で息をしている。健気に上下する背中をさするくらいはしてやりたいが、どうも今触れてしまうと抑えが効かなくなるような気がしてできない。
頬どころか首から上を全部真っ赤に染めて荒い呼吸を繰り返すテツは恐ろしいほど煽情的に見えて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「……っふ、……ふー〜〜……っ、……ぁは、なんて顔してるんだよ……もう言う必要もないと思うけど、お察しの通り俺、ケーキなんだよね」
そう言ってTシャツの首元をぱたぱた扇ぐテツからは、今しがた味わったものともまた違う、とてつもなく良い匂いがした。思わず唾液がこみ上げてくるのを隠すように、俺はふいと顔を逸らす。
──薄々勘づいてはいた。訓練終わりに汗だくになっている時や、任務で大きな傷を負った時。そんな時にテツから漂ってくる、香水や柔軟剤ともまた違った甘ったるい香りに。
でも、だからこそ怖がらせたくなかった。
俺を含むフォークという生き物は、加虐性と切っても切り離せない人種だ。人を食べる欲望を制御しきれない人間なんて、ケーキじゃなくたって怖いものだろう。ただでさえ俺は筋骨隆々で変身デバイス持ちの大男だっていうのに。
もし仮に俺がケーキの立場だったとして、自分のことを食料だと思っている人間が近くにいたら怖いなんてもんじゃない。すぐさま距離を置いて二度と近寄らないことだろう。
もう随分前から恋心を拗らせてしまっていた俺にとってそれはとてもじゃないが耐え難くて、結局口を閉ざすという選択肢を取ってしまった。こんな間違いが起きないように必要以上にスキンシップを取らないようにしていたし、キスやそれ以外のことだって今までずっと我慢してきたのに。
なのに──俺を見上げるテツの目には恐怖や緊張なんて微塵も感じられなくて、代わりに期待と恍惚で満ち満ちている。口角を三日月の形に吊り上げたまま、テツは「ねぇ」とため息混じりの声を吐いた。
その吐息が、また甘い。
「もう一回聞くけど──リトくん、ケーキ食べたくない?」
「…………」
「無言は肯定と受け取るよ」
「……っ、でも、そんな……」
今も首筋から胸元へ垂れる汗から目を離せない俺がこの期に及んで口籠ると、テツは心底わけがわからないというような顔をした。
「……もしかして倫理観とか気にしてる?」
「するだろ普通……ッ!!」
俺は思わずテーブルに突っ伏して叫んだ。
当たり前だろ。誰が好き好んで人を食いたいと思うんだよ。
テツは後頭部をぽりぽりと掻きながら「しょうがないにゃあ」と相変わらずのド低音で呟くと、おもむろに調理器具を手に取り出した。フライパン、木べらに包丁、圧力鍋──次々と並べられていくそれらの調理器具を見てふと嫌な予感がよぎってしまい、しかし純粋な親切心を止めることもできずしどろもどろになる。
「ちょっ……なあ、テツ、俺が悪かったって。今まで黙ってたの謝るからさ、一旦落ち着いて話し合おう? な?」
「え何? 俺別に怒ってるとかそういうんじゃないんだけど……まぁでも『材料』用意しちゃってるしさ、味見くらいしてみない? 大丈夫、ちゃんと然るべき機関で『解体』してもらったから、感染症の問題はクリアしてるって」
「そ、そういう問題じゃ──」
「──あぁ、安心して。僕、料理は人並みにできる方だから」
ニコ、と爽やかな笑顔を浮かべるテツとは反対に、俺はさっと顔を青くする。
──だから、そういう問題じゃねえんだって!!
俺の魂の絶叫が届くはずもなく、テツは鼻歌交じりに手を洗い始めてしまう。そうだった、こいつは一度やり始めたことは意地でも行けるとこまで行ってしまう性分だった。
「ちょうどいいじゃない? なんていうか──まぁ多少豪華なデザート、くらいに思ってくれればいいよ」
「……多少って……」
もちろんフォークの俺にとってケーキというのは、『多少豪華』なんて言葉じゃ到底収まらないようなとんでもないごちそうだ。だからってそう易々と受け入れられるものでもないが。
「ちょっとそこの取ってもらえる?」と指さされた場所は、冷蔵庫の1番下の引き出し──つまり、冷凍庫。
ここ数日ほど確認していないそこに果たして何が入っているのか。それがもし俺の予感通りであれば、サイコホラー的展開は免れないことだろう。できれば絶対に中を覗きたくないが、万が一本当にただの食材なんかだった場合は単に俺が不親切な同居人ということになってしまう。
俺は深く深くため息を吐き出し、意を決して引き出しに指をかける。できることならこの予感が単なる杞憂でありますようにと心の底から願いながら。
§ § §
「はい。たんと召し上がれ」
「……………………」
目の前に差し出された皿を見て、俺はため息を吐くことすらできず両手で顔を覆った。
普段はパンケーキやトーストなんかを乗せるのに使っている、やや小さめの可愛らしい絵皿。その上でいかにも美味そうに湯気を立てているのは見紛うことなくミートパイだ。作る工程は材料から見ていたし、それが冷凍庫から取り出した新鮮なミンチだったことも確認している。
──そのはずが、俺の鼻と脳天に届いている涎が出そうなほどに芳しい香りは、これを『ブルーベリーのパイ』だと主張していた。
「……いや…………いや、無理だろ。無理だって」
「まぁまぁそう言わずに、まずはひとくち」
「そのひとくちで失うもんがデカすぎんだっつの……」
テツは「早く食べないと冷めちゃうよ」などと宣いながら隣の椅子に座ってきた。その駄々を捏ねる子供を宥めるような口調はまるでこちらがわがままを言っているとでも言いたげだ。なんでお前は平気なんだよ。というか一体どんな気持ちで『自分の肉』を調理してたんだ。
どこから突っ込めばいいのかと頭を抱えつつ、横目でテツの表情を伺ってみる。──くそ、本当に何の躊躇も抵抗もなさそうな顔しやがって。
どうしてこの状況でフォークの俺の方が尻込みしてるんだ? 一向に手を付けようとしない俺に、テツは呆れたようにやれやれと首を振った。
「まぁ、ね。こうなるだろうと思ってたよ。きみってばほんと優しいんだから」
「いや優しいとか関係なくね? 人として最低限の……何? 倫理観? とか、そういうのだろ」
「──そう思う?」
半笑いで呟かれたその言葉が引っかかって、思わず顔を上げる。テツは相変わらずいつもとさして変わらない笑みを浮かべてはいるが、目の奥だけがちっとも笑っていなかった。
「……リトくんのそれってさ、デバイス適合手術受けてからでしょ。発症したの」
「あ、ああ……まぁ」
「僕もなんだよね、これが。困ったことに、世にも珍しい後天性のケーキでさ」
身体能力の飛躍的向上、及びそれに耐えうる肉体強化のために施術される、俺達が勝手にデバイス適合手術と呼んでいるもの。
フォークというのは大抵後天性のもので、幼少期は普通に過ごせていてもある時から突然味覚を失ってしまうケースが多いと聞く。俺はそれが自然発生したわけではなく、そのデバイス適合手術を受けてから発症した割と珍しい例らしい。
しかし、それよりも更に稀なのがテツのような後天性のケーキだ。そもそもケーキとは生まれ持った体質のようなものだし、本来であればただ機械デバイスに適合するための手術で発症するものでもない。
機械でも、キリンちゃんみたいな生物でもない要素というと──思考を巡らせたところで、沈黙に耐えられなくなったテツが観念したように口を開いた。
「──あのー、残機ね、残機。あれのせいで偶然ケーキに変質しちゃったの、俺」
「残機……ってお前それ、」
「うん、まぁ……フォークの皆さんからしたらさ、夢みたいだよね。食べてもなくならないケーキなんて。……だからさぁ、なんか、フォークが主体の団体とか協会とか? そういうのからいっぱい連絡とか来てたんだよね、一時期。今でもたまに来るっちゃ来るんだけど」
テツはそう言ってくたびれたように笑い、俺は頭の中が妙に冷えていく感覚に陥った。
機械デバイスではないテツの特殊な能力と言えば、残機か+∞の呪いかの二択だろう。そして今回は前者らしい。よりにもよって。
『残機』というのは科学でも西の技術でも説明のつかない特異点のような能力で、その詳細は国の極秘事項となっている。本人すらぼんやりとしか理解できていないらしいそれは、例え肉体が死んだとしても段階を踏めば瞬く間に次の新しい肉体が生成される、世界の法則を根底からひっくり返すようなものだ。
だからといって全くリスクが無いというわけでもなく、テツの精神や国で管理できる限界として1日に消費できる数が制限されていたりはするんだけど。
──要するに、フォークにとってのこいつはいくら食べても『おかわり』が来る、無尽蔵の食料なのだ。
「ああいうのってさ、どこから漏れるんだろうね? 情報とか。……すごかったよ、もう。『佐伯さんの類稀なる体質は我々にとってまさに神の救済です!』『どうかその貴重な財産の一部だけでも提供を!』『謝礼金はご希望の額を提示して頂ければ!』──つって。笑っちゃうよね。素直に『お金は払うので死んで食われてください』って言えばいいのに……」
「……──ぅ゛、」
ぐっと吐き気がこみ上げてきて、咄嗟に口元を手で覆う。
テツの言葉の端々から伝わってくる、フォークという人種に対しての怒り。それは至極真っ当な感情だ。さっきから聞いていればその団体とやらの言い分は消耗しないケーキという存在をてんで崇め奉っているようでいて、テツの意思なんかまるでお構いなしだ。
──その団体と俺で、一体何が違うというんだろう。とにかくケーキが食べたいという欲望を耳触りの良い言葉で飾っているだけの団体と、目の前に差し出されたケーキに本当は今すぐにでも食らいついてしまいたい衝動を抑えながら、薄っぺらな建前を並べ立てている俺と。
本当は──本当はさっきからずっと、口の端から垂れそうになる涎を何度も飲み込んでいる。そんな欲望に忠実な自分が情けなくてたまらない。
「──え、……あぁ違う違う! リトくんのことじゃないって! 昔そういうこと言ってきた人がいてクソ腹立ったってだけで、フォークがみんなそうだと思ってるわけじゃないから!!」
「、でも……」
「あー、ごめん、会話のチョイスミスったわ。ごめんね。……俺が言いたいのは、そういうことじゃないんだよ」
テツは突然えずいた俺にわたわたと慌て出し、背中をさすってくれた。その優しさが余計に罪悪感を刺激してくる。
違う、何も違わないんだよ。フォークがみんなそうだとは限らないかもしれないけど、少なくとも俺とそいつらの本質はそう遠くもない。
……今だって、お前のことが食べたくてしょうがないんだ。
テツは優しい声で「こっち向いて」と俺に言うが、どうしても顔が上げられない。……どんな顔をしてお前に向き合えばいいのか分からない。
俺に動く気がないことを悟ったらしいテツは背中をさすっていた手を止め、代わりに肩を抱いてきた。2人の間に空いていた隙間が埋まり、テツの方からふわりと甘い香りが立ちのぼる。
「じゃあこのまま話すけど。……さっきみたいなことがあって、やっぱどうしてもフォークのことがちょっと怖くなっちゃったし、苦手意識……みたいなのも芽生えちゃったりしたのよ。一瞬ね」
「…………」
「……でも、初めてリトくんがフォークかもって気付いた時さ。なんていうか……──あ、食べられたいかも、って思ったんだよね」
「……、……は?」
話が予想だにしない方向に転がっていき、困惑が口をついて出る。
俺が反応を示したことがよほど嬉しいらしく、テツは「こっち見たね?」とより体を密着させてきた。おいやめろ、それはそれで別の意味でやばい。
「その〜、当時から僕リトくんのこと好きだったから。だからっていうのももちろんあるんだけど、それ以上にね? きみなら多分、すっげぇ美味しそうに食べてくれるんだろうなって思ったんだよ」
「……、何だよ、それ」
「んふふ。いやだってさぁ、あのリトくんだよ? あの食べること大好きで甘いもの大好きで、それが生き甲斐なんじゃない? ってくらいの人が──美味しそうに、幸せそうにがっついて、僕のこと食べてくれたら……とか考えたら、さ」
そう恍惚として呟くテツはそれはそれは目の毒で、俺はもう目が離せなくなってしまった。
肩に置かれていた手は俺の首筋をするすると這い、喉仏をなぞるように行き来する。視線ごとゆっくりと繰り返されるそれは、嚥下する動作を真似ているようにも思えた。
ごくり、と生唾を飲み込む。
「……運命も残酷なことするよなぁ。こんなに食べる楽しみを知っているきみからそれを奪うなんて。……だから、ね。リトくんの『食べたい』って気持ち、僕なら満たしてあげられるから……」
「ッ……い、いや……でも、俺だってそいつらと変わんないんだよ。食欲に負けて、自分の腹満たしたいからって、お前を──」
「──うん。でも、僕にとってリトくんは特別だから。世界でたったひとりだけ、きみになら食べられてもいいよ」
──なんて殺し文句だ。
上目遣いで見つめながらうっそりと呟かれたそれは、フォークとしての俺とひとりの男としての俺を両方いっぺんにぐらつかせる、恐ろしいほどに魅惑的な魔法の言葉だった。
ああ、まずい。こんなところで理性を捨てるべきじゃないのに。くせのある黒髪の隙間から覗く、ぶどう色の虹彩から目が離せない。
テツは俺が生唾を飲み込んだのを確認して、心底嬉しそうに笑った。
そうして一度体を離したかと思うと、先ほど洗ったばかりのカトラリーを手に取り、皿の上に放置されていたミートパイを切り分ける。俺は金縛りにでも遭ったようにその場から動けずに、ただその様子を見て涎を溜め込むことしかできない。
テツはナイフを丁寧に皿の縁に置き、ひと口で食べるには些か無理がありそうな一切れを俺に向かって差し出した。
「リトくん、あーん」
「…………、ぁ……」
抵抗しなくちゃいけないはずなのに、俺の体はどこまでも欲望に忠実で。唇のほんの数センチ先に突きつけられた脳みそもとろけるような甘い香りに誘われて、躊躇う間もなくかぶりついてしまう。
サク、とパイ生地の崩れる心地よい歯触り。このまま生地のかけらが落ちてしまうことすら惜しく思えて、差し出された1ピースを丸ごと、ひと口に頬張った。
「……どう? 美味しい?」
「っ、……」
「んふふ、ひと口デカすぎでしょ。……どんだけ食べたかったのさ、きみ」
問いに答えようにも、口いっぱいまで詰め込んでしまっているせいで何も言葉が発せない。咀嚼に必死な俺を見てテツはニヤニヤ笑い、俺は俺であんまりにも浅ましい姿を見せてしまっている羞恥で変な汗が止まらなかった。
──それでも、どう見られているかなんてどうでもよくなるくらい、そのパイは絶品だった。
サクサクの生地をひとたび噛めば、甘酸っぱいブルーベリーのジャムがじゅわりと溢れる。どうやら生地にも何かが仕込んであるらしく、香ばしく程よい甘さのそれはジャムの酸味を優しくやわらげてくれた。
はふ、と短く湯気を吐き出す。久しぶりにこんなに熱い食べ物を口に入れたかもしれない。いつもは食べるもの全てが無味な上に口に入れた途端香りさえも失ってしまうので、もはやただ熱いだけのものを無理をしてまで食べようと思えなくなっていたから。
名残惜しくも咀嚼し終えたそれを一息に飲み込み、その熱さに舌がヒリつく感覚さえも愛おしい。
「……は、……あー…………うんまぁ……」
「はは。いやぁ、嬉しいもんだね。自分の作ったものをこんだけ美味しそうに食べてもらえるって」
「………………」
テツがあまりにも屈託のない顔で笑うものだから、じわじわと湧き出していた罪悪感も湯気と一緒に霧散してしまう。
そして本当に情けないことに、久しぶり食の喜びを味わった俺の視線は自然と次のひと口へと向いていってしまう。舌に乗せれば心ごと優しく包み込むように広がる甘味、脳天まで突き抜ける爽やかな酸味、呼吸する毎に鼻に抜ける豊かな香気、それらを調和させる熱に食感──ずっと待ち望んでいたそれらを余すことなく楽しめる喜びが、皿の上にあと5ピース分ほど残されている。断面から覗く肉の油分がてらてらと輝き、卵液によって艶めく生地がとっとと食べろと囁いている。
残りのパイに釘付けになっている俺に気付いてテツは「食いしん坊め」とケラケラ笑い、先ほど切り分けるのに使ったナイフとフォークを寄越した。
「これ全部リトくんが食べていいんだよ。冷めないうちに早く食べな?」
「い、いいのかよ……?」
「いやだって僕は別にそういう嗜好持ってないし……虫でも土でも面白そうなら食うけど、自分の肉は特に興味ないかな」
「あ、そっか。そうだったわ。……これ、テツなんだもんな」
「…………なんかそういう言い方するとあれじゃない? やらしくない? なんか」
「いやそういう意味で言ってねえわ。どうなってんだよお前の性癖……」
まるでこちらが問題のある発言をしたとでも言うような視線を受け、慌てて取り繕う。……ああいや、恋人の肉を使った料理を前に涎を垂らしておきながらマトモな振りをしている時点ですでに問題ではあるけど。
ここは有り難いお言葉に甘えて、とナイフとフォークを受け取り、欠けた円に新たな切れ目を入れる。ナイフの先端が艶やかな表面にさくりと沈み、透明な脂が皿に落ちてキラキラ光っている。もったいないとは思うが、さすがにそれを舐め取るまでは人間を捨ててはいない。ひと口大に切り取ったパイを皿の上に滑らせて、流れた脂を吸い取らせた。
──テツはただ、その一連の動作をじっと見つめている。
「……え、何? あげねえよ……?」
「いやだから僕は食わねえって。そうじゃなくてさぁ……それ、どんな味がすんの?」
「は? そりゃ……あー…………」
ケーキは自分の味を知覚できない。こんなにも天にも昇るほど美味い血肉を持ちながらそれを味わうことができないなんて、それはそれで可哀想な気もしてくるな。
てんで的外れな同情だということは理解しているが、それほどまでにテツの肉は美味だった。切り分けた断面から漂う芳醇な香りに喉を鳴らしつつ、何とか仔細な言語化を試みてみる。
「何つうか──これがどこの肉かは分かんねえけど、中身はブルーベリーのジャム? みたいな味、かな……ところどころ違う肉混ざってんのか甘かったり酸っぱかったりして結構色んな味する。生地もなんか、ほんのり甘くて香ばしい感じ」
「はぇー……」
「……んで、口ん中はキャラメルみたいな味した。多分煙草のせいでちょっと苦い」
「…………あぁ、そう……」
そこまで聞くとさすがに恥ずかしいのか、テツは視線を外して頬を引き攣らせた。奔放に跳ねた髪の隙間から微かに赤くなった耳が見える。……なんだこいつかわいいな。ケーキとか関係なく食ってやりたい。
つい揶揄ってやるとそっぽを向いたまま早く食べろとせっつかれてしまったので、とりあえず目の前のごちそうを心ゆくまで味わうことにする。こんな機会はそう何度も訪れはしないだろうし、いくら本人が勧めてくれているとはいえテツを消耗品のように扱いたくはない。
束の間の幸福を噛み締めつつフォークに刺したままだったそれをぱくりと口に含む。
……うん。やっぱり、ものすごく美味しい。
§ § §
「──はぁ〜……美味かったぁ……幸せぇ……」
「はぁい、お粗末様でした。よく平らげたね。普通に夕食後なのに」
「いやもうマジで、美味すぎて無限に食えるって。……や、無限に食いたいわけじゃないけど」
「僕の体質としては物理的に不可能ってわけじゃないけどね」と笑われるが、俺はそれに対して笑えばいいのか哀れめばいいのか分からない。
お互いにお前は座ってろとやんややんや言い合いながら食器を洗うのを手伝い、夢のような時間はあっという間に幕を下ろしてしまった。俺は最後にテーブルを拭きながら無意識のうちに唇の端に付いた油を舐め取っていた。
それを横目で見つつ、テツはスマホに何かしらを打ち込んでいる。まさか自分のどこの部位が何の味なのかメモでもしているのか? どうも気になって聞こうかどうか迷っていると、スマホの画面から顔を上げたテツが先に口を開いた。
「リトくん。参考までに聞くんだけど、次はどんなのが食べたい?」
「……は?」
「だから、次の料理。何がいい? できれば肉メインのものだと作りやすいんだけど……」
「ん? ……いや待て待てちょっ、タンマ」
淡々と会話を続けようとするテツの両肩を掴み、一応断りをいれて画面を覗かせてもらう。……そこには、ローストビーフやスペアリブ、牛すじ煮込みなどのレシピがずらりと並んでいた。
「えっマジで言ってる……?」
「何が? ……あぁ、がっつり肉の形残ってるやつだとまだ精神的にキツいってことならもうちょい調理工程あるやつにするけど」
「そういう問題じゃなくてね??」
「定期便で頼んであるし、コンスタントに出荷できるから鮮度にも問題はないし……」
「そういう問題でもなくてね? あと定期便で頼んでんのかよ自分の肉?? つか出荷って呼ぶのやめろよお前。そもそもそんなに残機使わせねえから」
慌てふためく俺を見てきょとんとするテツに、こいつには何と説明すれば一般的な倫理観というものが伝わるのかと頭を抱える。
テツはそのままスマホに何事かを打ち込むと画面を消した。改めて俺を見上げる目はどこか濁っているようで、それでいて妖しげな光を灯しているようにも見える。
「……リトくんさ、さっき僕の肉がブルーベリーのジャムだとか、キャラメルだとか言ってたじゃない」
「あぁ? ……まあ」
「ふふ、──なんか優越感湧くね。その『味』がこれからは全部、『僕の味』になっちゃうの」
「…………あ、」
そうして三日月の形に歪んだ瞳と、愉快そうに低く潜められた声を聞いて気付いてしまった。
こいつ、食べられてもいいんじゃない。食べさせたいんだ。
俺に、自分の味を覚え込ませるために。
とんでもない呪いをふっかけられたものだ。 その瞬間目の前に映る恋人のイメージが自分の血肉をパンやワインに代えて分け与える救世主から、過剰な快楽を与えて人を堕落させる悪魔へと変化する。 なんかもう角とかも見える気がするし。
そんな俺の想いは露知らず、テツは再びスマホの画面を点けて鼻歌なんかを歌いながら楽しげに指を滑らせる。その華奢な指先がスクロールする画面にはやっぱり、様々な肉料理のレシピがずらりと並んでいた。
「いやぁ、料理のレパートリーが増えるっていいね。生活が潤う」
「あぁそう……」
ご機嫌でレシピを保存しまくるそいつを咎める気すら起きなくて、俺は脱力感と仄かな期待に、ぼんやりとそれを眺めるだけだった。
[おまけ]
「……そんでさぁ。リトくんには色んな味を楽しんでもらいたいわけだけど、どうしてもほら、保存とか調理に向いてないものってあるじゃん? 主に衛生的に」
「? ……あー、おう」
「分かってないねさては? ……まぁいいや。で、そうなるとやっぱ手段としては、直接摂取してもらうしかないなって感じなんだけど──今夜、空いてる?」
「……え、直接ってまさか、」
「リトくんがいらないなら別にそれでいいよ」
「…………………………、」
「…………シャワー浴びてくる」
「はは、欲望に忠実なのはいいことだよ」
コメント
6件
いやまじでケーキバースめっちゃすきだから癖にぶっ刺さった… ありがとうございます…( ◜ཫ◝) んへあはははははっ(狂) いいねぇ…テツが狂ってる方なのめっちゃ癖ぃ…( ^ᵕ^) リトのその感じも…いいねぇ…好きだわぁ…… いっぱい食べちゃってねぇ…( ^ᵕ^)
新しい癖の扉を開いた気がする… ヤバイ心臓ドクドクいってる… 最高でした!!!!ありがとうございます!!!
ケーキバースは見るの2回目なんですけどttの狂気的表現がめっちゃ刺さりました! 欲を言うと続きが見たいです、、、。贅沢ですみません🙇♀️