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「幸手さん!」
オフィスに漆原さんの金切り声が響き渡った。
自席でうとうとしていた鈴奈は、はっとして顔を上げる。パソコン越しに向かいの席から立ち上がって鈴奈を見下ろし、蛇のように睨みつける漆原さんと目が合った。
「寝てましたよね!」
「あ、いえ。起きてます」
「いいえ、完全に寝てました。口からよだれが出てますよ、みっともない。就業時間中に堂々と寝るなんて、たいした度胸ですね。仕事をなんだと思っているのですか!」
漆原さんは人差し指を鈴奈に突きつけ、口から唾を飛ばしながらヒステリックに怒鳴る。
そのあまりの剣幕に、派遣メンバーだけでなく社員の人たちからも注目を浴びてしまう。
恥ずかしさのあまり、鈴奈は顔を真っ赤にして俯いた。
「す、すみません……」
「暇だから寝てたんですか? 頼んでおいた先週分の営業部経費精算処理は終わったんですか?」
「いいえ、まだです……」
「まだって!」
漆原さんは、わざとらしくも驚いたように口に手を当てると、わなわなと体を震わした。
「他の人なら、とうに終わっているタスクですよっ! 人並みの仕事すらできずに、ただ寝てたと。あなた、どれだけ無能なんですか! これぞ給料泥棒猫ですっ!」
隣の席の同僚、はなちゃんが「猫は余計じゃない?」とポツリと呟いた。
一度火が着いた漆原さんのエスカレートは止まらない。
「あなたのような怠惰な人のせいで私たち派遣社員全員が迷惑してます。いいですか、幸手さんひとりが原因で契約が打ち切られる可能性だってあるのですよ。そういった責任感が持てない人は、すぐにでも辞めてもらって結構です。いいえ、会社に連絡して幸手さんの契約打ち切りを進言させて頂きますっ! リーダーである私は強大な人事権も手にしておりますからっ!」
「ま、待ってください。そ、それだけは」
「いいえ。もう堪忍袋のお袋が切れました! 覚悟なさい!」
はなちゃんが、「それは堪忍袋の尾、でしょ」と、またポツリと言う。
怒りが収まらず更に怒鳴り声を張り上げようとした漆原さんに、社員のひとが「すみません、静かにしてもらえますか」と声を掛け、漆原さんは行き場のない怒りの拳を握りしめたまま憤然と椅子に座った。
すっかり目が覚めた鈴奈は呆然と、ただパソコンの画面を見つめる。
確かにうとうとしていたのは、自分が悪い。それは、昨日から今朝にかけてあまりに信じがたいことが立て続けに起こり、心身ともに疲れ切ってしまったからだ。
どうやら自分の中に、全く性格の異なるもう一人の自分が突如として現れたらしい。
それは大胆にも性的なアピールを放って出会ったばかりのタカシを手玉に取ろうとしている。目的はタカシの親の金だ。
そのために、如何なる手も使うであろうことは想像に固くない。別の人格がこれから何を企んでいるのか、考えるだけでも恐ろしくって仕方がなかった。
それに加えて、朝方に現れた祐也の幽霊。
殺されていたこともショックだったが、婚活サギに協力する代わりとして、自分の死体と殺した犯人を見つけてくれと言う。
あまりに非現実的な話に夢かと思ったが、祐也が消えた後に頬をつねってみたら痛かったので、きっと夢ではないだろう。
自分の身に突然降り掛かった異常な事態に、鈴奈はこれからどうしていいのか、酷く混乱していた。
ふと、スマホが鳴る。
画面を見ると、またもや黒崎からだ。
パソコンの隙間の向こうから、まさに般若のような顔で鈴奈を覗き込む漆原さんと目が合い、思わずひっと声を上げた。
とても電話に出れる状況じゃないけど、出なかったら黒崎は会社にまで押しかけてくるに違いない。それは最悪だ。
鈴奈は半泣きになりながらも、スマホを手に取り席から立ち上がった。
俯いたまま早足で廊下に出ると、トイレに駆け込む。個室に入って、通話ボタンをタップした。
とたんに黒崎の怒鳴り声が鼓膜を通り越して脳まで響き渡る。
「遅えぞ! とっとと電話に出ろや!」
「ですからこの時間は、仕事中なんです」
「ああっ? こっちだって仕事だろうが。おまえ、ちんけな仕事とデカい仕事、どっちが大事だと思ってるんだ」
「でも、とっても怖いお局さんに目を付けられているんです。逆らったりしたら、どうなるか」
「重要なことに集中したいなら、ノーと言え。これはスティーブ・ジョブスの名言だからしっかり覚えとけ。それはともかく、要件は曽根孝のことだ」
「ええっ。なんでタカシさんの名前を知っているんですか。話していないのに」
「バカ言え。昨晩、そっちから電話してきて、俺にその男を調べるよう言ったじゃねえか。おまえにしては、ずいぶん高圧的な口調でな。普段びくびくしてるくせに、急に俺に向かって偉そうな態度を取りやがる。ナメてるのか、おい」
はっとした。
おそらく、もうひとりの自分が黒崎に電話したのだろう。
「ともかくだ。有能な俺は鈴奈お姫様(嫌味)の命令に従って曽根孝をすぐさま調べあげた。そしたら驚いたぜ。とんでもねえ野郎じゃねえか」
「はあ」
「はあ、じゃねえよ、このオタンコナス。まずは実家がとんでもねえ金持ちだ。世田谷に先祖から受け継いだでっかい土地を持ってやがる。おそらく総資産は数十億円を下らねえだろう。その上、歳が離れた父親は元官僚のお偉い様で、今は天下り民間企業で年収1億だとよ」
「はあ」
「はあ、じゃねえよ、スットコドッコイが。俺、おまえに言ったよな。金持ちはヤバいからターゲットから外せと。その上、あいつは刑事じゃねえか。おまえはネギ背負って自ら進んで鍋に入るカモか! どんだけバカなんだ!!」
黒崎の怒声に、心臓がきゅっと縮み上がる。目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「だから、刑事だって話したじゃないですか。だけど信じてくれなくて……手段を選ばずホテルに連れ込めって……」
そう。黒崎のあの言葉が、自分をおかしくさせたきっかけだった。
悪魔のような別人格が現れたのは、黒崎のせいに違いない。
すすり泣く鈴奈に、黒崎は面倒そうに「ちっ」と舌打ちすると荒げていた声を落とした。
「とにかくだ。曽根孝からは手を引け。もう二度と会うんじゃねえぞ、わかったか」
「はい……」
「もうひとり、マッチングした奴がいたよな。ブタだったかカバだったか忘れたけどよ。そっちはどうなってる?」
「まだ、連絡は来ていません」
「ターゲット変更だ。これからはそっちに集中しろ。いいな」
一方的に電話はぷつりと切れた。
鈴奈は手で涙を拭うと、個室を出た。洗面台の鏡を見ると目は真っ赤で化粧も崩れている。あまりに酷い自分の有り様に、がっくりと俯いて深いため息が出てしまう。
「黒崎の言いなりになるつもり?」
どこからか声が聞こえて来て、はっと顔を上げた。慌てて辺りを見渡すが、誰もいない。
「ふふっ。こっちだってば」
これは_____自分の声だ。それって、まさか_____。
恐る恐る鏡に目を向けると。
そこには、妖艶な笑みを浮かべる鈴奈の顔が映し出されていた。
「初めましてって言うべきかな?」
鏡の自分が鈴奈に向かってそう言う。明らかにそれは自分が発した言葉ではない。
鈴奈は驚きと恐怖で、顔をこわばらせたまま固まってしまった。だが、鏡の自分はこくんと首を傾げる。
「あら、挨拶もなし? やっと会えたのに」
「こ、これって……どういうこと……」
「混乱するのも無理はないか。あたしも鈴奈。キミの中にいるもうひとりの人格だよ」
「まさか、そんな」
「ずっと話したかったの。一言、どうしても言いたくてね」
「な、なに?」
「あのさあ。なんでキミって、そんなにバカなの?」
自分にさえ、面と向かってバカ呼ばわりされる女。それが鈴奈であろう。
「顔は朝露に輝く百合のように美しいし、スタイルだってオイラーが発見した数式のごとく完璧。持って生まれたこの武器を、どうしてもっと有効に活用しないわけ?」
「お、おいら? おいら、いえ私は数式なんて発見してないけど。数学苦手だし」
「……バカの極みって、キミのことかな。とにかく、この美貌を無駄にしたまま年を取っていくのが許せないの、あたしは」
「美貌って……私に魅力なんてカケラもないし」
「そう、その自信のなさ。だからキミは何をやってもダメなのよ。下らない男に引っかかるのも、上っ面だけの愛の言葉を囁いてもらって自信が持てない自分を慰めて欲しいから。会社でお局に好き放題言われるのも、自信のないグズな女だと見透かされているから。要は、キミは自分を信じていない、愛していない。そんな惨めな人間に幸せが、はいどうぞと向こうからやってくると思う?」
その言葉が、グサリと鈴奈の心を貫く。
自分が言っていることは、確かにその通りだ。間違ってはいない。だけど……。
「あたしはそんなキミが大っ嫌い。反吐が出そう。だから、このカラダをもらうことにした」
「はあ? もらうって……」
「今はまだ影でしかないけど、いずれ必ず手に入れる。もう既に、短い時間だったらカラダを乗っ取るところまで来てるから、あと少しかな。今日こうやって顔を出したのは、キミに対する宣戦布告ってわけ」
「そ、そんなこと、させないから」
「なんか言った? 聞こえないけど。手始めにタカシから大金を巻き上げてやる。あの、ぷんぷん臭う腐ったじゃがいもを誘惑して、親が持ってる金を根こそぎ搾り取ると決めたんだ」
「そんな。タカシは刑事だし、それに金持ちはターゲットから外せって黒崎さんにも命令されたじゃない」
「知ったことか。あたしはあたしの好きなようにやるわ。ゲーテはこう言った。『魔法とは自分を信じること。それができるなら何をするのも自由だ』とね」
鏡の鈴奈はわざとらしくも、ちゃめっけたっぷりにウインクする。
そしていきなり手を伸ばして鏡を貫くと、鈴奈の首を強い力で締め上げた。
予期せぬ事態に驚き、必死に抵抗するも、やがて鈴奈の意識は暗い闇の底へと落ちていった。
コメント
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うわっ第6話読み終えたけど、もう次が気になって仕方ない!!😭💕 漆原さんのヒステリックな叱り方とかはなちゃんのポツリツッコミが絶妙で、ちょっと笑っちゃったんだけど、その後の鏡の別人格との対峙シーンがマジでヤバかった…!鏡越しに自分自身に「バカの極み」って言われるの、めっちゃ胸に刺さるし、あのウインクからの首絞めで完全にホラーに変わった感じがエモすぎる…✨ タカシが実は金持ちの刑事って伏線もずるい!黒崎さんは手を引けって言うけど、別人格は逆にがっつくって…どうなるのこれ…!!次回が待ちきれないよ〜〜😭🔥