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無造作に煙草を一本取り出すと
ソーレンはライターで火をつけ
紫煙をゆっくりと吐き出しながら
琥珀色の切れ長な目を細め
遠くを見るように視線を漂わせた。
レイチェルは黙って
細く煙を吐く横顔を見つめた。
ー
ガキの頃の記憶なんて、曖昧だ。
けど、一つだけ
はっきりと覚えてる事がある。
俺には母親がいなかった。
死んだのか、捨てられたのか
それすら知らねぇ。
ただ、家にはいつも
知らねぇ女がいた。
入れ替わり立ち替わり
酒と香水のきつい匂いを纏った女達。
中には
肌を露出したままソファに転がって
息も絶え絶えの奴もいた。
「ママって呼んでいいのよ?」
そう言った女の顔は思い出せない。
けど、微かに焼けた甘ったるい煙草と
鼻を突く薬品の匂いだけが
記憶の底にこびりついてる。
親父が何で俺を傍に置いてたのかは
わからねぇ。
母親の忘れ形見だからか
売り飛ばすつもりだったのか
それともただの気まぐれか⋯⋯
今となっちゃ
どうでもいい話だ。
結局、俺は
都合のいい
〝サンドバッグ〟でしかなかったんだから。
意味もなく浴びせられる罵声
唐突に飛んでくる拳。
腹を蹴り上げられ
床に転がる俺を見下ろす親父の顔は
いつも愉しそうだった。
その度に、頭の何処かで思ってた。
ー俺はなんで⋯生きてんだ?ー
生きていたって
意味なんかねぇのに。
そんな日々が続いたある日
俺はやっちまった。
空腹に耐えかねて
パンを切り分ける前に
先にひと齧りしてしまった。
たったそれだけの事で
親父の顔が醜く歪んだ。
怒鳴るより早く
親父の手には鉈が握られていた。
「てめぇ⋯⋯っ!」
視界が揺れる。
刃がギラリと鈍く光り
俺の頭上で振り上げられる。
⋯⋯ああ、終わるんだな。
10歳ぐらいだったか?
俺の人生は
こんなもんなんだって
何処かで諦めてた。
でも、同時に
心の奥底で何かが引っ掛かっていた。
ー此処で終わっていいのか?ー
ー俺は本当に⋯死にたいのか?ー
⋯⋯違う。
生きたい。
生きて、何かを掴みたかった。
このまま終わるなんて
冗談じゃねぇ。
その瞬間⋯⋯何かが弾けた。
何をどうすればいいのか
何ができるのか
頭で考えるより早く理解していた。
まるで
生まれた時から
この力の使い方を知っていたかのように。
ー重力が、捻れた。
親父の身体が
鉈ごと床に引き摺られるように落ちた。
「⋯⋯っ、あァ?」
親父の顔が苦痛に歪む。
そのデケェ身体が
あり得ねぇ程の力で
押し潰されていた。
「なん、だ⋯⋯っ!?」
親父は
何が起きているのか理解できねぇまま
藻掻いた。
でも、もう遅ぇ⋯。
次の瞬間〝何か〟が
弾けるような音がした。
豚みてぇな声だったよ。
ズブズブと骨が砕ける音。
皮膚が裂け、肉が潰れ
血がじわじわと染み出していく感覚。
床に沈み込むように
親父の身体は
どんどん足元で圧縮されていった。
骨が軋む音が耳に残る。
次第に声も出せなくなり
親父の姿はぺちゃんこに潰れ
床にべったりと広がる赤黒い染みになった。
鉈だけが
転がるように床に落ちた。
ーああ。スカッとしたー
これが〝解放〟ってやつなんだな。
俺は、息をつく。
胸が妙に軽い。
親父が消えた家の中は
静寂に包まれていた。
外の喧騒が
まるで別世界みてぇだった。
俺はゆっくりと立ち上がり
潰れた血の海を跨ぐ。
もう、殴られることも
蹴られることもねぇ。
俺は⋯⋯自由だ。
初めて手にした〝力〟が
俺に生きる理由を与えた。
この夜、俺は全てを捨て
ただ一人、暗い街を歩き始めた。
親父を潰してから
俺は街を彷徨った。
行く当てなんざ
最初からねぇ。
寒かろうが
腹が減ろうが
泣き言を言う相手すらいない。
ただ、身体が動く限り
何処までも歩いた。
けどな
何処に行こうが
俺に向けられる目は同じだった。
親父もそうだったが
街にいる奴らも
誰もかれもが
俺を蔑む目で見てやがった。
小汚いガキが一人でうろついてりゃ
当然かもしれねぇ。
ボロボロの服
傷だらけの手足
泥と血に塗れた顔
⋯⋯まるで野良犬だ。
いや、違うな。
野良犬ですら
まだ〝可哀想〟とか言って
餌を投げる奴もいる。
でも、俺には
そんなものすらなかった。
目が合った瞬間
眉を顰めて道を避ける。
店先で物を漁ってりゃ
石を投げられる。
言葉を掛けてくるのは
酔っ払いか
同じように汚ねぇガキばかりだ。
それでも
生きなきゃならなかった。
名前なんざ
親父が居た頃から
呼ばれた事もなかった。
「おい」
「てめぇ」
「クソガキ」
それが
俺に向けられる全てだった。
だから俺は
自分の名前すら知らなかった。
そもそも、そんなもん
必要とも思わなかった。
だって
目の前にいる奴らは
皆、敵でしかなかったからな。
生きるために、盗んだ。
腹が減ったら、パンを掠め取った。
そしたら、今度は誰かに盗まれた。
何度も何度も繰り返すうちに
自然と身体が動くようになった。
奪われたくなかったら、奪え。
殺されたくなかったら、殺せ。
それが
俺がこの街で生き残る
唯一の手段だった。
俺は本当に
ただの汚ねぇ野良犬だったんだ。
何歳だったかなんて
数えてる暇もなかったな。
そんな日々が
いつまで続いたか。
変わらねぇ日々の中で
ある時⋯⋯
街に異変が起きた。
見慣れない奴らが
静かに紛れ込んできたんだ。
最初は気付かなかった。
でも、何日か経つうちに
違和感が募っていった。
コイツらは……何か、違う。
ー街に馴染みすぎているー
新しく来たはずの連中が
まるで最初から
この街にいたかのように振る舞う。
いつの間にか市場に顔を出し
いつの間にか酒場に入り込み
何の疑いも持たれずに人々と話している。
商売人か? いや、違う。
ただの旅人か? それも違う。
こいつらは⋯⋯武装集団だ。
武器を持って歩いてる訳じゃねぇ。
でも、俺は
本能で理解していた。
コイツらは
何かを〝狩る〟為に
此処にやって来たんだってな。
目つき、仕草、立ち振る舞い
そして何より⋯⋯
〝匂い〟が違う。
獲物を探す狼の群れのような雰囲気。
表向きは穏やかに見えても
常に周囲を警戒し
目で測り
耳を澄ませている。
街のゴミ溜めで生きてる
俺みてぇなもんには
一発でわかった。
ー追ってる獲物が、この街にいるー
ってな。
俺は興味を持った。
コイツらの目的は何なのか。
何を狩ろうとしているのか。
俺みたいなクソガキが
どうこうできる話じゃねぇが⋯⋯
本能が告げていた。
この連中に関わるのは
〝何か〟を変える
切っ掛けになる⋯⋯ってな。
だから俺はそいつらを
遠くから観察し始めた。