テラーノベル
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古い管理棟の扉を、今度はトウマが鍵で開けた。
ハルは少し変な気分だった。
前は窓から忍び込んだ場所へ、今日は正面から入る。
同行したのはトウマとセイジ。
シンは「子供だけで記録を扱わせるな」と言っただけで来なかった。
埃の匂いは変わらない。
C-17の文字も。
壁の古い地図も。
「ここ」
ミオが迷わず通信室へ向かった。
机に残る紙束。
トウマが慎重に箱を下ろす。
「破るなよ」
「分かってる」
「お前の分かったは――」
「信用ならない、でしょ」
ハルが先に言う。
父は苦笑した。
記録は日付順に並べられていた。
中央からの定時通信。
物資の供給予定。
設備更新の指示。
医療品の配分。
昔は、この場所だけで完結していなかった。
「薬も外から来てた」
ハルが言う。
「部品も」
ミオが別の紙を指す。
セイジが頷いた。
「最初から完全に自給する場所ではなかったんだろうな」
「学校で習ってない」
「俺も今、初めて細かく見てる」
先生まで知らなかった。
記録をめくる。
通信の間隔が少しずつ空いていく。
毎日。
数日。
一週間。
そして。
ミオの指が止まった。
「これ」
以前、二人が覚えた日付。
最後に中央から通信を受信した日だった。
内容は短い。
『各居住区は現状の安全手順を維持。次回指示を待機』
ハルは読み返した。
「次回指示」
「その次は?」
紙をめくる。
手書き。
『通信なし』
次の日。
『通信なし』
その次。
『通信なし』
一週間。
一か月。
記録は続く。
『中央回線応答なし』
『予備回線確認』
『待機継続』
さらに後。
『物資便到着せず』
『医療品配分なし』
『区域内備蓄へ切替』
文字が変わる。
書いた人が代わったのだろう。
それでも「待機」は残っている。
「何年?」
ハルが聞いた。
ミオが日付を追う。
「ここで一年」
次の箱。
三年。
五年。
十年。
中央からの新しい通信はない。
代わりに、村の内部記録ばかりになる。
水量。
出生。
死亡。
収穫。
修理。
『中央指示到着まで現行規則を維持』
さらに何年か後。
『現行規則を維持』
「中央って言葉が消えた」
ミオが言った。
ハルも気づいた。
最初は「中央の指示を待つ」だった。
いつの間にか「規則を守る」だけになっている。
「これ、誰が決めたの?」
セイジが紙を見る。
「その時の管理者だろう」
「中央から言われたんじゃなくて?」
「連絡がない以上、そうだろうな」
「じゃあ、最後の命令って」
ハルは最初の紙を指した。
「次の指示を待て、ですよね」
トウマが頷く。
「そう読める」
「次の指示、来てない」
誰も答えない。
「何年待ってるんだ?」
ハルの声が通信室に響いた。
セイジが目を伏せる。
トウマは古い端末を見る。
「俺たちが生まれるずっと前からだ」
「それ、おかしくない?」
「おかしいかもしれない」
父の答えにハルは驚いた。
「でも」
トウマは続ける。
「連絡が来なくなった理由が分からない」
「中央がなくなった?」
「可能性はある」
「外が全部だめになった?」
「それもある」
「他の居住区は?」
「分からない」
結局、何も確定しない。
ただ一つだけ確かなこと。
今、境界を閉じろという新しい命令は来ていない。
帰る前、ミオは地図を見た。
C-17。
そこから伸びる道。
31。
「この道、中央の物資が来てた道?」
トウマが地図を確認する。
「たぶんな」
「じゃあ31にもつながってた?」
「この地図だけじゃ分からない」
「でも、他の居住区があったのは本当?」
セイジが古い文書を一枚持ち上げた。
そこには『各居住区』とある。
「少なくとも複数あった」
ハルの胸が高鳴った。
外に人がいる証拠ではない。
昔、他にも人がいた証拠だ。
「先生」
「何だ」
「何でこれ、学校で教えないの?」
セイジはすぐ答えなかった。
「必要ないと思っていた」
「誰が?」
「俺もだ」
先生は正直に言った。
「読み書き、計算、農業、修理。ここで生きるために必要なことを教える。それで十分だと思ってた」
「外のことは?」
「知らなくても暮らせる」
ハルはゲンの言葉を思い出した。
知らなくても水は出る。
「でも、知らないから決められない」
ミオが言った。
セイジが彼女を見る。
「何を」
「このままでいいか」
帰り道、トウマはハルの隣を歩いた。
「見て、どうだった」
「分かんなくなった」
「そうか」
「父さんは?」
「俺もだ」
初めて父と同じ場所に立った気がした。
家に戻ると、ユイが待っていた。
ハルは記録のことを話した。
物資が外から来ていたこと。
通信が途絶えたこと。
最後の指示が「待機」だったこと。
ユイは薬棚の方角を見た。
「だから、昔の薬があったのね」
「母さんも知らなかった?」
「供給があったことは聞いてた。でも、どこからどう来てたかまでは」
「みんな少しずつしか知らない」
ハルが言う。
「そうやって何十年も経ったのかもね」
夜、ハルはミオと家の前で話した。
「最後の通信、覚えてた日で合ってた」
「うん」
「ソウさんが出たのはそのずっと後」
「うん」
「その時もまだ待ってた」
「今もね」
ハルは境界の方を見る。
「待って……何年待ってるんだ?」
ミオは答えなかった。
答えられる人はいない。
中央からの通信は止まった。
物資も来なくなった。
それでも村は生き延びた。
自分たちで水を回し、畑を作り、壊れたものを直した。
中央から返事がなくなっても、村の暮らしは続いた。
それでも、最後に届いた「待て」は、今も規則の中に残っている。
ハルはそのことが不思議で、少し怖かった。
紙は黄ばんでいた。
それでも、そこに書かれた「待機」は、今の村にも残っている。
「ミオ」
「何?」
「俺、外に行きたいって思ってた」
「知ってる」
「でも今は、外に行きたいっていうより」
言葉を探す。
「何が本当なのか知りたい」
ミオはしばらく黙っていた。
「私は違う」
「え?」
「明日、話す」
そう言って、ミオは帰っていった。
ハルは呼び止めなかった。
ミオは最後の通信が記された紙を、机の端へそっと置いた。
上部には日付が残っている。
二人が前に覚えた数字。
2081年6月17日。
ハルは声に出して読んだ。
「二〇八一年、六月十七日」
「これが最後」
ミオが言う。
その翌日から『通信なし』が始まる。
日付があることで、急に昔話ではなくなった。
その日、ここにいた誰かが通信を待っていた。次の日も。一週間後も。一年後も。
「最初の人たちは、来ると思ってたんだよね」
「たぶんな」
トウマが答えた。
「じゃあ、いつから来ないって思ったんだろう」
誰も答えられなかった。
ミオは後年の記録を探した。
『通信設備点検』
『受信機交換』
『北部回線への再接続を試行』
失敗。また失敗。
さらに数年後には、通信設備そのものの記録が減っていく。
「諦めた?」
セイジが首を振る。
「諦めたというより、優先順位が下がったのかもしれない。壊れた水の設備と、返事のない通信機があったら、どっちを直す?」
「水」
答えはすぐ出た。
生活を続けるために、返事を待つ機械から部品を外した可能性もある。
中央とのつながりは、ある日突然切られた一本の線ではなかった。
返事がない日が積み重なり、直すものが増え、待つことより今日の水を守る方が大事になり、少しずつ生活から消えていった。
それなのに「待つ」という考えだけが残った。
「変なの」
「何が?」
「機械はなくなったのに、命令だけ残った」
セイジがその言葉に反応した。
「命令、か」
「違う?」
「最初は命令だっただろう。でも途中から、それを守ると決めたのはここの人間だ」
「じゃあ、今は中央の命令じゃない?」
「簡単には言えない」
先生は紙を並べる。
「中央が『次の指示を待て』と言った。それを何年待つかは書いてない。返事がない時にどうするかも書いてない。その空白を、その時代の人たちが埋めたんだ」
「閉じたままにするって」
「そうだ」
トウマが口を挟んだ。
「結果として、それで村は残った」
「うん」
ハルは素直に頷いた。
「だから間違いだったとは言えない」
「でも、正しかったから永遠に続ける、も違う」
ミオが言った。
トウマは彼女を見る。
「そうかもしれない」
ハルは、ここで通信を待っていた昔の人を想像した。
最初の一週間なら、自分も待ったと思う。一か月でも。一年ならどうだろう。十年なら。
自分の子供が生まれ、その子が大人になっても返事が来なかったら。
「父さん。もし父さんが、通信が止まった最初の人だったらどうした?」
「水と畑が動いてるなら、しばらく待つ」
「しばらくって?」
「分からん」
「十年?」
「その前に年を取る」
「じゃあ俺に引き継ぐ?」
トウマは答えなかった。
トウマの沈黙が、そのまま答えに見えた。
答えが出ないまま、次の世代へ渡された。
危険だったという記録と、待てという言葉と、黒ずんだ鍵と一緒に。
コメント
1件
うわ、これ……ぐっときましたね。特に「通信なし」が積み重なっていくページの描写、紙の黄ばみが本当に伝わってくるようでした。あと、「機械はなくなったのに命令だけ残った」ってセイジの台詞、この村の本質を突いてるなあと。親子で同じ「わからない」に立つラストも良かったです。答えが出ないまま次の世代へ渡される、そのじわじ来る諦念と温かさが混ざった感じ、すごく好きです。