リズは私が寝ているベッドの横に椅子を移動させると、そこに腰を下ろした。
突然私を襲った胸の苦しさはすっかり治まり、リズと会話をするのになんの支障もなさそうだ。
「さっきのクレハ様の発作は過呼吸だと思います。すぐに治まって良かったですが、後でお医者様に診てもらいましょうね」
過呼吸は比較的若い女性に多く見られる症状なのだそうだ。リズのお母様もなったことがあるらしい。リズが慌てることなく、私に応急処置を施すことができたのはそれが理由だった。
「過呼吸の誘因は色々ありますが、そのひとつに強い不安や恐怖……緊張に襲われた時に起こると言われています」
「……不安や恐怖」
身に覚えがあり過ぎた。でもあんな発作を起こしてしまうくらい私の心は乱れていたのか。
リズが私の背中を撫でさすり、ゆっくりと息を吐くよう促した。また過呼吸が起こらないようにとの気遣いだった。レオンやお父様には秘密にして欲しいとお願いすると、リズは眉をひそめて不服そうな顔をした。そんな彼女を強引に説得し、最終的には首を縦に振らせた。
「クレハ様……私と会話をして少しでも気持ちが楽になるのなら、私はどんな話でも聞きます。もちろん、その内容を旦那様やレオン殿下に漏らすことはありません……」
目頭が熱くなる。発作が治まったと思ったら、今度は瞳から涙が溢れてきた。
お父様は私の成長を喜び、そして信頼してくれたからこそ、フィオナ姉様の話をしてくれた。それなのに冷静に受け止めることができず、体調まで崩してしまったのだった。こんな有りさまなのに幻滅はされたくないというプライドがあるようで、お父様とレオンには知らせないで欲しいとリズに口止めを行う己のしたたかさが嫌になる。
「ありがとう……リズ」
リズがいてくれて本当に良かったと心から感謝する。彼女にはこれまで幾度も助けて貰っているが、今回もお世話になりそうだ。
リズの優しさと気遣い……そして自分の不甲斐なさで胸が締め付けられ、頬を濡らす涙の勢いが更に増していくのだった。
リズは決して急かすことはせず、私が自然に泣き止むのを待ってくれた。その間もずっと背中を優しく撫でてくれたのだった。
「控えの間にルイスさんが待機してくれています。彼もクレハ様のところに来たかったでしょうに、私に任せて下さったんですよ」
彼が見張ってくれているから、部屋にはしばらく誰も来ない。だから安心してお話しをして下さいと、リズは微笑んだ。
「ルイスさんにも心配かけちゃったね」
「ルイスさんは心配もしてましたが、それより怒ってましたね。旦那様に向かって拳を振り上げ、食堂に突撃しそうになって肝を冷やしました」
「ええっ!!? だ、ダメだよ!! お父様にそんな……」
そんな事をしたら、ルイスさんが罰を受けてしまう。いくら彼が王太子殿下の側近とはいえ、お父様に手を上げて無事ではすまないだろう。それにルイスさんのようなガチガチの軍人さんに殴られたら、お父様なんてひとたまりもない。ただでさえ体力が落ちて痩せ細っているのに、お父様が死んでしまう……
「安心して下さい、クレハ様。このリズがルイスさんをきっちりお止め致しましたから……旦那様は無事ですよ」
「ほ、ほんとう……?」
リズは力強く何度も頷いた。お父様の安否確認が出来て良かった。
ルイスさんの気持ちは嬉しいけど暴力はダメだ。まさかお父様に矛先が向いてしまうなんて……ますますくよくよしてはいられない。
「リズ……あなたはお父様と私の間でどんなやり取りがあったのか気付いてるよね」
いくら彼女がしっかり者とはいえ、ここまでの立ち回りが上手すぎる。私が自宅に戻ったことで、いずれこんな状況が訪れるのだと予測していたのではないだろうか。案の定、リズは瞳を伏せて静かに頷いた。
「……はい」
「フィオナ姉様のこと、びっくりしたなぁ……」
「私だけでなく、レオン殿下も『とまり木』の方たちも……クレハ様がいずれ真実を知る時が来るのは覚悟していました。でもそれがいつになるのか、誰が伝えるのかなどは漠然としていて……。知ってしまったクレハ様がどうなってしまうのか、それだけが気掛かりでした。想像するのも恐ろしかったのです」
「お父様も同じこと言ってた。知らなかったの私だけだったんだね。でも、話を聞いて納得もしちゃったよ。そりゃみんな私に気を使うよなって……」
私や姉様のことをよく知っているリズなんて、さぞ居心地が悪かっただろう。それなのにそんな態度は一切見せずに、私に寄り添ってくれていたのか。
「旦那様があの出来事をどのようにクレハ様にお伝えされたのかは分かりかねますが、フィオナ様がご自身の心情を詳しく語られていないこともあり、周囲の人間が憶測や想像で不明瞭な部分を補完しているところがあります。同じ話でも伝える者が異なれば、全く違う印象を受けるだろうことをご留意頂きたいです」
「それって、どういう意味?」
「まだ分からないことがたくさんあるということです。殿下と我々は、その不明な所を明らかにするために調査を行なってきました。少なくともクレハ様にお伝えするのはそれからだと……旦那様は些か性急だったと思います」
お父様は心労を抱えており、普段通りとはいえない状態だ。判断を見誤っても仕方ないとリズは続けた。
「でも……姉様が私とレオンの婚約をよく思っていないのは事実なんだよね。不明な所をはっきりさせるとは言っても、そこが変わらないのならあんまり意味がないんじゃないかな」
「そんなことはありません。大事なことです。どんな事件でも、発生した理由や経緯によって周囲の受け止め方が全然違いますから。フィオナ様の場合は、なぜ頑なにクレハ様の婚約を認めないと主張したのかですね」
「姉様がレオンの事を好きだからって聞いたけど……」
「それはあくまで旦那様の推測なんですよ。フィオナ様がそう言ったわけではないのです」
リズを含めた使用人たち……更にお父様やお母様ですら、フィオナ姉様に抱いているそれぞれのイメージを元に、勝手に想像を膨らませて悲しんだり怒ったりしている。そのせいで、別の問題も起こっているかもしれないとリズは難しい顔で告げた。
「お父様は私のせいではないと、何度も言ってくれたよ。私が気に病む必要はないって。難しいことを言うよね……姉様のことを気にしないなんて無理に決まってるのに」
「でも、そこに関しては私も旦那様と同じ意見ですよ。フィオナ様があのような行動を起こした本当の理由は、現状ご本人しか知り得ないのです。無礼を承知で言わせて頂くと、自分勝手な主張でクレハ様を貶めて周囲の人間をここまで振り回したフィオナ様の行動に、私は疑念と憤りを感じています」
あのリズが姉様に対してここまで言うなんて……
彼女は私を一等大切にしてくれているが、ジェムラート家の人間に対しては、常に尊敬と親愛を持って接していたのに。
リズは実際に現場を見ていた。当時は驚きと混乱で狼狽えるしか出来なかったのだと。でも今は……レオンや『とまり木』の方たちと接したことで、自分の侍女としての在り方などを考えさせられたのだそうだ。
「クレハ様、貴女がフィオナ様を慕い、大切に思う気持ちは充分に理解しています。ですが、だからといってクレハ様がこの件で一歩引き、フィオナ様に対して便宜を図ったりする必要はありません。誰が何と言おうと、レオン殿下の婚約者はクレハ様なんですから」
リズにしては珍しい強い口調だった。内容も厳しいものだったけれど、すぐに弱気になって物事を悪い方へ考えてしまう私には、これくらいはっきり言わないと駄目だと思ったのだろう。最後に『胸を張って堂々としていて下さい』という言葉で締め括った。
頭の中を覆っていた靄が晴れていくような気がした。