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第29話:手のひらを返す者、返さない者
椿様の稽古が一段落してから、数日が過ぎていた。後宮では秋の恒例行事の菊の宴が開かれ、庭園には黄、白、薄紫と、様々な色の菊が咲き誇っている。着飾った令嬢たちが三々五々、歌や茶を楽しむその輪の中に、私は椿様に付き添われ、初めて足を踏み入れた。
以前とは、明らかに空気が違う。すれ違いざまに向けられる会釈は、以前より明らかに深い。遠巻きに囁かれていた陰口も、完全に鳴りを潜めていた。
菊の花壇の傍らで、一人の令嬢が意を決したように歩み寄ってくる。
「月白様。少し、よろしいでしょうか」
一礼するその令嬢。名前は憶えている、萩乃だ。彼女は以前、あの茶会で他の令嬢たちと共に、扇の陰から私を嘲笑っていた顔ぶれの一人だ。
「……ええ、構いません」
「以前、あの茶会の折には、大変失礼な態度を取ってしまいました。……あの時は、月白様のお力をまだ存じ上げず、ただ噂だけで判断しておりました。申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる萩乃に、私は静かに応じた。
「顔をお上げください。過ぎたことです。それに、噂だけで判断するのは、人の性というものでしょう。今こうして、直接お言葉をくださったこと、ありがたく思います」
「……以前とは、話し方も随分と……」
萩乃様が、少し驚いたように顔を上げる。
「多少、手直しをしましたので」
以前なら、こうは返せなかった。
萩乃は安堵したように微笑み、その場を辞していく。入れ替わるように、扇を口元に当てた桔梗が近づいてきた。
「随分と、板についてまいりましたこと。……ですが、上辺をいくら取り繕っても、中身までは変わらないものですわ」
「仰る通りです。中身は、以前と何も変わっておりません」
桔梗様、勝ち誇ったように微かに口角を上げるのが見えた。この程度の皮肉なら、問題ない。返せる。
「ただ、それを包む紙を、少し上等なものに変えただけのことです。……中身が同じなら、外側くらいは見苦しくない方がよろしいでしょう?」
「……っ。失礼いたしますわ」
桔梗様は言葉に詰まり、扇を強く握って踵を返した。その背を、私はしばらく見送った。
手のひらを返す者もいれば、返さない者もいる。まあ、当然だ。どちらでも、やることは変わらない。稽古で身につけたものが、こうして早速役に立つとは思わなかった。皮肉を皮肉で切り返すのではなく、相手の言葉をそのまま拾い上げ、その先に、返しようのない一言を添える。椿が繰り返し言っていた「言葉の使い方一つで、刃は刃のまま、より鋭くなる」という教えの意味が、今になってようやく、腑に落ちた気がした。
喧騒から少し離れた庭園の奥まった一角で、声をかけられた。
「玲様! 少し、よろしいですか」
振り返ると、彩が小走りに近づいてこようとして、途中で歩調を整えるのが見えた。以前なら、そのまま勢いよく駆けてきていたはずだ。
「彩さん。ご無沙汰しております」
「……本当に、驚きました。歩き方も、言葉遣いも……以前の玲様とは、まるで別人のようです」
まじまじと私を見つめる彩に、私は先ほど桔梗に返したのと同じ言葉を返す。
「中身は変わっておりません。ただ、外側を少し直しただけです」
「いいえ。……玲さんは、本当にすごい方です」
――いま。
彩殿の呼び方が、一瞬だけ崩れた。「玲様」ではなく「玲さん」。そう呼ばれたのは、これが初めてだった。
彩は少し困ったように微笑みながら、続ける。
「以前は、あんなに血だらけで、泥だらけで……お互い自分のことで必死、という感じでしたのに。今の玲様は、もう、手の届かないところにいらっしゃるようで……」
彩はそこで言葉を止めた。何かを飲み込むように、小さく首を振る。
「……いいえ、なんでもありません。玲様がお幸せになれるのなら、それが一番です」
その笑顔の端に、微かな翳りのようなものが滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
でも、深追いはしない。きっと彼女も、望んでいない。
「彩さん。……貴女がいなければ、私はまだ、泥にまみれたままだったはずです。今のこれも、その延長でしかありません。感謝しています。これは噓偽りない、私の本心です」
彩は少し驚いたように目を見開き、それから、今度は本当に嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます、玲様」
呼び方は、もう「玲様」に戻っていた。私はそれに、何も言わなかった。ただ、先ほどの一瞬の呼び違いだけが、頭の片隅にひっそりと残った。彩の笑顔の奥にあったあの翳りが、何に所以するものなのか、今の私には突き止める術がない。
日が傾き、菊の宴は正式な夜会へと移っていく。灯籠に火が灯され、正装した貴族たちが広間に集い始めた頃、公務の合間を縫って、焔が姿を見せた。
人前でこうして顔を合わせるのは久しぶりのことだ。広間の視線が、一斉に集まるのが分かった。
「……随分と、板についたものだな」
人前だからか、いつもの伝法な口調は幾分か抑えられている。だが、その分だけ、感情の読めない声色になっていた。
「陛下のお顔に泥を塗らぬよう、精一杯励みました」
一礼して答えると、焔は小さく頷いた。
「……そうか」
それだけ言うと、焔は私の手を取り、周囲に聞こえる程度の声で続けた。
「皆の者、月白玲だ。俺の婚約者として、恥じるところは何一つない」
広間に、控えめなどよめきが広がる。私は求められるまま一礼し、次々と交わされる儀礼的な挨拶に応じていった。その間、焔はすぐに他の賓客への対応へと移り、しばらく私のそばを離れていった。
賓客たちへの対応が一段落した頃、ふと視線を感じて顔を上げると、広間の少し離れた場所から、焔がこちらを見ていた。
金色の瞳が、じっと私を捉えている。
その表情を、私はすぐには読み解けなかった。誇らしげにも見える。だが同時に、何かが気に入らない、というような、微かな不機嫌さも滲んでいる。人前でこうして紹介するのを、当の本人が望んだはずなのに、その顔には、まるで割り切れない何かを抱えているような、微妙な面持ちだった。
どちらなのか。両方という可能性もあるか。理由を尋ねたところで、陛下のことだ。きっと「別に」の一言で終わらせるに違いない。
私はそれ以上深追いすることなく、視線を戻し、次に声をかけてきた老貴族への応対に意識を移した。
〇
広間を移動する途中、私はふと、視線の先に宰相・久我玄安様の姿を捉える。
彼はいつも通り、糸のように細めた目に穏やかな微笑みを浮かべ、若い貴族たちの相手をしていた。
一瞬、視線が交わる。
……なんだ。
ほんの刹那。瞬きよりも短い間、彼の糸目の奥に、昏い色がよぎった気がした。苛立ち、というのだろうか。あるいは、もっと別の何か。
けれど、それはあまりにも一瞬のことで、次に瞬きをした時には、彼は既に人好きした微笑みに戻っていた。何事もなかったかのように、若い貴族への相槌を打っている。
(……気のせい? ……いや、おそらく違う)
私は薬師だ。わずかな変色も、微かな匂いの違いも、見逃さないよう努めてきた。今の一瞬の揺らぎを、見間違えたとは思えない。
あの方は、私の何に苛立っているのだろう。今は、答えが出ない。
私はそれ以上、玄安様の方を見ることなく、目の前の会話に意識を戻した。だが、頭の片隅には、今しがた見た一瞬の翳りが、小さな棘のように残り続けていた。宴の灯りが揺れるたび、広間の空気もまた、目には見えない何かを孕んで揺れているような、そんな錯覚に囚われながら、私は次の一礼を交わした。
コメント
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菊の宴のシーン、凄く綺麗でドキドキしたよ🌼 月白様の成長が滲み出てる感じがして…「言葉を包む紙を上等にした」って返し、めっちゃカッコよかった🥀 彩様の「玲さん」呼びの一瞬に切なさが詰まってて胸がぎゅっとなった。焔様の複雑な眼差しや玄安様の一瞬の昏さも気になるし…この宴の空気の裏側、ちゃんと見届けたいって思ったよ🤍