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三日後、私は知り合いがやっているバーにお邪魔していた。「やっほー。」
扉を押し開けると、カラン、とグラスの触れ合う音と、落ち着いたジャズの調べが耳に入ってくる。
「やっほー、玲子ちゃん。いつものでいいかい?」
カウンターの向こうから、マスターが手を振る。小柄な体にシックな黒のシャツを着こなし、手際よくグラスを拭いている姿は、いかにもこのバーに馴染んでいた。
「うん」
私は軽く頷き、カウンターの端の席に腰を下ろした。
しばらくすると、涼やかな香りとともに、琥珀色の液体が満たされたグラスが目の前に置かれる。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
この店に来るたびに決まって頼んでいる、特製のダージリン・キール・ロワイヤル。ダージリンティーの深い香りに、カシスリキュールの甘やかさとスパークリングワインの爽やかさが調和した一杯。初めて飲んだときから、私はすっかりこの味の虜になっていた。
グラスを手に取り、軽く口をつける。優雅な茶葉の余韻とともに、ほのかに広がるカシスの甘みが心地よい。
そしてこのバーのもう一つの特徴……それが
「玲子ちゃーん!」
「待ってたわよー!」
突然、賑やかな声とともに、艶やかなドレスに身を包んだ女性たちが私の両側に座り込んできた。
そう、この店はキャバクラも兼ねているのだ。
本来なら私には縁遠い世界だと思っていたのだけれど、気づけばすっかり馴染んでしまっている。
「ねえねえ、今日もカクテル飲んでるの?」
「またダージリンのやつでしょ?ほんと玲子ちゃん、そればっかり!」
彼女たちは私の肩に寄りかかりながら、次々と話しかけてくる。すると——
「ほらほら、玲子ちゃんは私の担当なんだから!」
「違うわよ、今日は私が先に声かけたんだからね!」
突然、私をめぐって彼女たちの間で取り合いが始まった。
ふわふわで、すべすべの大きな胸が、否応なしに私の顔面に押し付けられる。
……うらやましいぜ、まったく。
ふとそんなことを思いながら、私はグラスの中の琥珀色の液体を軽く揺らした。
「それでどうなのよ、獅子合君とは!」
今度は恋バナが始まる。
というのも、彼女たちは私が獅子合に気があると思い込んでいるらしく——
「いやぁ、あいつが私に気があるとは思えないし。」
私はグラスを傾けながら、軽く肩をすくめる。
「でも、獅子合君、ずっとあなたのこと気にかけているのよ?」
「そうよそうよ。きっと獅子合君はあなたのことが好きで……」
キャバ嬢たちが口々に囃し立てる。その時——
「それはないですよ、お嬢さんたち。」
低く、よく通る声が会話を遮った。
店の扉が静かに開き、そこに立っていたのは。
獅子合りょうが—漆黒の髪に白いメッシュが映える男。白いスーツを纏い、その佇まいには隙がない。その横には、ピンクの髪にピンクのパーカー、チェックのジャケットを羽織った弟分・速水が控えていた。
二人の姿が現れた瞬間、店の雰囲気が少し引き締まる。
「俺は極道。玲子は一般人です。」
獅子合はまっすぐ私達を見据え、はっきりと言った。
「俺たちの戦いに、一般人を巻き込むわけにはいかない。」
静かな言葉に込められた、確固たる決意。
「もー、優しいのね、獅子合さん。」
キャバ嬢のひとりがうっとりと呟く。
……昔から、彼はこうだった。
彼は十歳のころから極道に憧れ、春川組に入った。兄貴分たちから厳しい指導を受け、たまに会うときはいつも傷だらけ。ろくに手当てもせず、血が滲んだままの拳で強がるものだから、結局いつも私が手当てをしていた。その頃から、彼の口癖は決まっていた。
——「俺は極道だから。」
「ほら、取り返してやったぞ。」
獅子合が無造作に封筒を差し出す。
「さんきゅー。……あれ、多くない?」
封を開けると、中には八万円の札束。確か取り返してもらったのは五万円のはずだ。
「それは佐山の兄貴からだ。」
獅子合は淡々と告げる。
「いつも世話になっている礼だとよ。」
佐山の兄貴。春川組の幹部であり、獅子合の兄貴分にあたる人物。私も何度か顔を合わせたことはあるが、極道の世界にどっぷり浸かった人間だ。
「それはどうも……」
封筒を握りしめる。これを断れば、かえって面倒なことになりそうだ。佐山の兄貴の性格からして、「礼を受け取らないのは仁義に反する」なんて説教されるのがオチだろう。ありがたく受け取っておくのが正解だ。
「……まぁ、助かったよ。ありがとね、獅子合。」
奥から封筒を持った店長がでてくる。
「やぁ、獅子合君。守代だよ。」
店長が封筒を差し出す。
「いつもすまないな、山城さん。」
獅子合が封筒を受け取り、中身を軽く指で確認する。
守代——この街の治安を守る代わりに、対価として受け取る金。極道の主な収入源のひとつであり、この街で商売をする以上、それは必要経費でもあった。
「さて、私もそろそろお暇するよ。いくら?」
「三千円だよ。」
私はグラスの底に残った氷を軽く回し、一口で飲み干すと、財布からお金を取り出した。
「毎度。」
店長の軽い声を背に、店を出る。
——と、すぐ後ろから足音がついてきた。
「玲子。」
名前を呼ばれる。
振り向かなくても、誰かはわかっていた。
「常々言っているが、俺たちの真似事のようなことはするな。」
獅子合の声は低く、静かに怒りを孕んでいた。
「それは俺たちの仕事だと、いつも言っているだろう。……死にたいのか?」
獅子合の言葉に、私はふっと笑う。
「……知っているくせに。」
夜風が、ひんやりと肌を撫でた。
「私は死なないって。」
そう言うと、獅子合は少し眉を寄せ、頭をガリガリと掻いた。
「あぁ、そうだったな……」
懐から煙草を取り出し、火をつける。煙が夜の闇へ溶けていく。
「だがよ……今、いくつだ?」
「二十四歳。」
私が答えると、獅子合は舌打ちをした。
次の瞬間——
「っ!」
背中に強い衝撃。気づけば、壁に押し付けられていた。
「なんでそんな平気な顔してるんだよ!!」
獅子合の声が、いつになく強い感情を帯びていた。
「……痛いよ、獅子合。」
苦笑しながら、彼を見上げる。彼の手は、まだ私の肩を掴んでいた。
——昔じゃないんだから。
春川組の兄貴たちに鍛えられてきた獅子合は、昔の何倍も強くなった。そんな力で壁に叩きつけられれば、痛いに決まってる。
獅子合は、はっとした顔をした。
「……悪い。」
掴んでいた手を放し、懐から何かを取り出す。
「奇病に詳しい先生がいる。見てもらえ。」
差し出されたのは、金の入った封筒。私はそれを見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
「そんなことしなくてもいいんだよ。」
私の運命は、もう決まっているのだから。
——生まれた時から。
——星形のほくろを持って生まれた、あの日から。
運命は、変えられない。……でも、獅子合は納得しなかった。
「それでも、何か変わるかもしれないだろ。」
煙草を指で弾き、彼は真っ直ぐに私を見た。
「……わかったよ。」
ため息をつきながら、私は封筒を受け取る。
「そこまで言うなら、行ってくる。」
獅子合が何か言いかけたが、私はそのまま踵を返し、家路についた。