男どもを追い払ったものの、胸の奥に燻る不安は消えんかった。あいつらがここまで来てもうたってことは、ケイナの居場所が他の奴らにもバレるっちゅうことや。次はもっと気合い入れてくるやろうな……。
ワイは舌打ちし、手のひらに滲んだ汗をズボンで拭った。指先がじっとりと湿って、気色悪い。拳を握ると、まだ微かに震えとる。興奮が抜けきらんのやろう。それだけさっきの連中がしつこかったってことや。
こいつは厄介なことになったな……。
ワイはリンゴ畑を振り返った。夜の闇の中、静まり返った木々が風に揺れ、葉の擦れる音だけが響く。まるで、何事もなかったかのように穏やかやった。でも、それはただの錯覚や。嵐の前の静けさってやつや。
一瞬、今すぐケイナを連れてどこかに逃げるべきかとも考えた。でも、それじゃキリがない。どこまで行っても、あいつらは追ってくる。なら――守るしかない。
ワイはリンゴ畑の奥の小屋に戻った。闇に沈むその建物は、まるで長年放置された廃屋のように見える。壁板はところどころ剥がれ、屋根も歪んどる。風が吹くたび、軋む音が微かに響いた。とはいえ、今のワイらにはここしかない。この場所だけが唯一、外界から身を隠せる場所や。守らなあかん。何があっても。
扉をそっと押し開けると、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。室内には、乾いた木の香りと、熟れたリンゴの甘い匂いがほのかに漂っとる。薄暗い部屋の奥、壁にもたれかかるようにケイナは座り込んどった。
彼女は膝を抱え、身を小さく丸めとる。震えとる。華奢な肩が、まるで寒さに耐えかねるかのように小刻みに揺れとった。光を受けた瞳だけが、かすかに潤んどるのが分かる。ワイが近づくと、彼女の目がゆっくりとワイを捉えた。不安げに、迷うように揺れる。
「ナージェさん……。ごめんなさい、私、恐くて……」
か細い声やった。掠れとる。怯えが滲み出とる。その言葉が、息苦しい沈黙の中に溶けた。
「ええんや。ケイナが出てきとった方が、戦いにくかったからな。隠れとって正解や」
できるだけ優しく言うたつもりやった。けど、ケイナの表情は晴れん。唇をぎゅっと噛みしめ、うつむいたままや。
「でも……」
「大丈夫や。もうあいつらはおらん」
ワイは安心させるつもりで微笑んでみせた。けど、その笑顔がぎこちないのは、自分でも分かっとる。嘘くさい笑いや。ケイナも、それを見抜いとるんやろう。彼女は静かに首を振った。
「あの人たち、きっと戻ってくる……。逃げた奴隷を放っておくはずないから……」
かすれた声が震えとった。ほんま、無理もない。ケイナにとって、あの連中はただの追手やない。あいつらは――鬼や。
ワイも、それは痛いほど分かっとった。あいつらはリンゴの秘密も嗅ぎつけかけとった。リンゴ畑とケイナを手に入れるためやったら、どんな手でも使うやろうな。今度はもっと大勢で、もっと厄介な手段を持って。金で雇った荒くれどもかもしれんし、もっと陰湿な罠を張ってくるかもしれん。どちらにせよ、甘く見とったら確実に殺される。
「……くそ、どうするか……」
ワイは頭を掻きむしった。手のひらで顔を覆う。脳内でいくつもの策を巡らせるが、どれも決定打にはならん。ただの素人がどうにかできる相手やない。
そのとき、ケイナがふと顔を上げた。
先ほどまでの怯えた表情とは違う。小さな手をぎゅっと握りしめ、唇を噛み締めとる。決意を固めたような、そんな目やった。
「私、どこか遠くへ行くべきだよね……? ナージェさんに迷惑をかけたくない……」
消え入りそうな声。でも、その言葉の奥には強い覚悟があった。彼女は本気で自分が消えるべきだと思っている。ワイを危険に巻き込みたくないから。だから、自分さえいなくなればいいと、そう考えとる。
ワイは無言でケイナを見つめた。夜の闇に揺れる彼女の瞳は、迷いと決意がない交ぜになっとる。唇をきつく結び、小さな肩を震わせながら、それでも前を向こうとしている。その姿が、なんや腹立たしく思えた。
「バカ言え」
ワイはケイナの頭をコツンと小突いた。力なんか入れとらん。でも、ちゃんと痛みが伝わるように。
ケイナは目を丸くして、ワイを見上げた。
「お前を助けるって決めたんや。今さら見捨てるわけないやろ」
一瞬、ケイナの呼吸が止まったように見えた。驚きと、戸惑いと、それから――安堵。大きな瞳が揺らぎ、張り詰めていた表情が少しずつ崩れていく。唇がかすかに震え、堪えきれずに涙が目尻に滲んだ。彼女は慌てて手の甲でそれを拭う。
「……ありがとう」
声が震えていた。まるで搾り出すように、ようやく出てきた言葉。
ワイは深く息を吐いた。夜の空気はひんやりと肌を撫でる。リンゴ畑に広がる静寂。風が枝を揺らし、葉がささやくように擦れ合う。
でも、この静けさは長くは続かん。やつらは必ず戻ってくる。
ワイは夜空を見上げた。雲間から覗く星が、頼りなく瞬いている。戦うしかない。守るしかない。ケイナを守ると決めた以上、もう迷いはなかった。
「正攻法で何とかするしかないわな」
自分に言い聞かせるように呟いたその言葉は、夜の闇に溶けていった。しかし、ワイの胸の内で燃えるものは、決して消えはせんかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!