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「かきまぜてっ!」
浴室の扉が開くなり、幾ヶ瀬がそう叫んだ。
「あぁ?」
いまいち意図が伝わっていないと悟ったか、髪から水滴を滴らせ、腰にタオルを巻いたままの姿で狭いキッチンに飛び込んでくる。
お玉を持ってコンロの前に立ち尽くす有夏が、顔をしかめて振り返った。
「有夏、鍋みててって言ったでしょ」
細い身体を押し退けるようにしてガスを切ると、お玉を奪い取る。
「底が焦げてる。せっかくのシチューが台無し……。有夏が食べたいって言うからつくったのに」
恨みがましい視線に有夏は唇を尖らせる。
「幾ヶ瀬、見ててって言ったじゃねぇの。有夏、ちゃんと見てたよ?」
「ボーっと突っ立ってただ眺めてたのを、見てたとは言わないよ! そんなの、子どもの言い訳!」
「あぅ……」
いいかげん夜も遅いのだが。
職業柄か、幾ヶ瀬は料理のこととなると少々エキサイトする。
「あとちょっと温めるだけだったのに。いい、有夏? 水はサラサラだから放っておいてもいいけど、シチューみたいに粘度のあるものは鍋底にくっ付くんだよ。それが焦げちゃうから、時々かき混ぜて中身を動かしてやらないと」
「なべぞこ……」
その理屈がすでに理解できない様子で、有夏はムスッとしたまま突っ立っている。
「有夏、ちゃんと見ててって言ったのは単に鍋を見つめることじゃないんだよ? そんなの居ても居なくても一緒だよね? まぁ途中で風呂に入った俺も悪いんだけど。でも、それは有夏が見ててくれるって言うから」
ちょっと香ばしい感じではあるけど、まぁいけるかと呟く幾ヶ瀬。
珍しくしつこく怒られた有夏は俯いてしまっている。
「あ、有夏? ごめん、言い過ぎた。でも有夏が見てるって……」
「幾ヶ瀬しつこい。そんなに言わなくても有夏、自分で分かってるし」
「有夏?」
「料理できないし、片付けもできないし、掃除もできないし……」
「もしもし、有夏さん?」
できないことはまだまだあるとばかりに、指を折って数えている様子。
「洗濯もしたくないし、できればダラダラ暮らしていたいし、永遠にゲームしてたいし……」
それから有夏は突然、顔をあげた。
「幾ヶ瀬は有夏のどこがそんなにいいんだよ。やっぱ顔?」
「やっぱ顔って聞いちゃう、そのふてぶてしい所は結構好きだけどね」
苦笑するしかないといった様子で、幾ヶ瀬は最後にもう一度鍋をかき回した。
そんな彼の風呂上がりの首筋に、有夏の腕が回される。
「有夏のナカは?」
「えっ?」
動揺からお玉を鍋の中に落とした幾ヶ瀬を、笑みを浮かべて見上げる。
「有夏のナカも、かき混ぜたい?」
「い、いいの?」
例のネカフェ騒動以来、少しでも触れようものなら拒まれ、殴られるという罰を被っている幾ヶ瀬は、これだけで腰に巻いたタオルが落ち着かなく揺れる有り様。
上ずった声で「本当にいいの?」なんて繰り返す様は、ちょっと情けないものがある。
「どうかなー。そこまで期待されるとなー」
有夏の唇の端が吊り上がる。
「幾ヶ瀬ぇ……」
甘えた声。
餌に吸い寄せられる犬のように幾ヶ瀬の顔が近付いて来る。
荒い呼吸を近くで感じて、有夏は勝ち誇ったように頬を紅潮させた。
唇が触れる──その一瞬前。
「残念ながら腹がへったな」
有夏は身体を引いた。