「金と銀」
🟦🏺 両片思い
黄色い声の混じった歓声と、グラスのぶつかり合う音が時折騒がしいフロアに響く。
色とりどりの服が入り乱れ、概ねポジティブな感情しかないやり取りがそこかしこで繰り広げられる。
甲高い声で問いかけられた言葉を意識の狭間に素通りさせながら、少し離れた席を見ると、楽しそうに笑い喝采を浴びる想い人の姿があった。
何度目かわからないため息が漏れる。それを悟られないように口元をグラスで隠し、苦いだけの酒を流し込む。
承諾したとはいえ落ち着かない状況に、青井は苦い液体を飲み込み、無意識にため息をついた。
「頼むらだお、出てくれ」
「やだ」
話は数日前に遡る。それは両手の指でも数えられるか怪しいほど繰り返された会話だった。腕組みをしてそっぽを向く青井の前で成瀬はエモート、もとい感情表現豊かな体の動きで土下座しながら上半身を器用にバタバタさせている。
先週開催されたキャバクライベントに引き続き、数日後、年末の慰労も兼ねて市のイベントでホストクラブを開催することになっていた。運営に関わっている成瀬はもてなす側、つまりホストをやってくれる人をほうぼうで探していた。救急隊や飲食店はもちろん、果てはギャングにも声をかける中、本人も所属する警察のメンバーから選出しないはずがなかった。
「お前ギャングの奴らからも人気だろ?頼むよ、お前がいるってだけで喜ぶ客が結構いるんだよ」
腕をグラグラと揺さぶるが青井は腕組みを解かない。苦々しさすら纏う口調で答える。
「成瀬こそみんなに人気じゃない、俺いなくたってうまくやれるでしょ」
「俺は運営側だし、せっかくやるからにはいろんなジャンルの人を揃えておきたいわけよ」
なんたって年末のお祭りイベントなんだし、と成瀬は手を合わせて頭を下げる。
言いたいことは青井にもわかる。だが想像するだけでもきらびやかな場所で、衆人の目を向けられるのはどうにも恥ずかしかった。
そんな青井のわかりやすい葛藤など、人一倍他人の悩みや感情に聡い成瀬には筒抜けだった。空にいるときは強気なのに、地上に降りた途端に弱気になる先輩をせっつく方法などいくらでもある。
「いいのか?お前の代わりに俺がどれだけ航空機ディーラーの仕事やってるか知りたいか?」
「ぐっ」
「お情け?いやまあお情けなんてひどいこと言うつもりはないぜ?でもお前がいい子ちゃんしてるときにさあ、俺はあのクソデカトラックを一人寂しく走らせてるわけよ。でもまあお前も忙しいし?頑張ってるからって売上を折半してるけどさぁ、どうしよっかなあ!」
「ううっ」
ペンギンの顔が鬼の顔ギリギリまで迫る。でもそれは副業優先で警察対応を犠牲にしてるじゃないか、と言いかけて全く同じことがブーメランのように突き刺さることに気づいて青井は黙った。阿鼻叫喚の無線を無視して入荷に行ったことは一度や二度ではない。
もともと優柔不断で丸め込まれやすいのに、口プで成瀬に勝てるわけがない。さらに痛いところに鋭いパンチが刺さっている。これ以上の傷を受けたら立ち直れない。唸った末に青井は首を縦に振った。
「……ちょっとだけなら」
「よーし言ったな、逃げんなよ」
成瀬はガッツポーズをしてからスマホに何やら記入している。
「今回の売上の一部はちゃんと入れてやるからさ、な?」
慰めと言わんばかりの声色(おそらくマスクの下では満面の笑みを浮かべている)で成瀬は青井の肩にポンと手を乗せた。
別にお金欲しさに承諾したわけではない。面白みがないくらい堅実な青井はそもそも貯金するばかりで使うことがない。むしろいつも世話になりっぱなしの成瀬に恩を返す気持ちのほうが大きかった。
後ろめたさと感謝の気持ちはどちらも心を動かすに足る。次の人を探しに駆けていく成瀬の背中を、青井は複雑な顔で見送った。
*
日が近づくにつれてやめておけばよかった、が心に幾重にも積み重なる。だが無情にもイベント当日になり、青井は胃痛を抱えて控室にいた。
成瀬の見立てに間違いはない。私服のパーカーか、警察服か、他にはお決まりのスーツくらいしか持っていない青井は渡された服に文句を言えるだけの実績がない。腹を決めてさっさと着替えた。
控室のドアを開け、廊下に出た瞬間誰かとぶつかりそうになる。良い服を着た長身の相手にとっさに頭を下げるが、その顔を見上げて絶句した。
「ぅえ?!つ、つぼ浦?!」
「あ、アオセン!!」
全く予想していなかった顔がそこにあった。頭が真っ白になり、しばらく口をパクパクさせてから青井はなんとか言葉を絞り出す。
「な、なんでお前もやってるの、何に釣られたの」
「へ?金」
どうしようもないくらい即物的で、どうしようもないくらい素直な回答に青井は頭を抱えた。
「ああ……」
「キャンピングカーほしいんすよね、その足しになるかなって」
「どうせC4かロケランの弾に消えるやん、はぁ」
悩みの種が増え、青井は肩を落とした。
つぼ浦とて二つ返事で決めたわけではない。ホストなど夜の花、色恋の最たるものだ。そう思ってつぼ浦は追いかける成瀬を振り切って逃げた。
しかし何より提示された金額と、「頼む!らだおしかまだ捕まえてないんすよ!」という成瀬の叫びが足を止めさせた。
自分はともかく、青井の正装は正直なところ見てみたい。つぼ浦は青井がパーカーか警察服か、何か地味な服を着ているところしか見たことがなかった。まれに見せる整った顔がきらびやかな服を着るのだ。合法的に素顔を見られるどころか着飾る姿を見られるなど、こんなチャンスは二度とないだろう。その想像は軽率に頭を縦に振らせた。
つまりここに青井がいることをつぼ浦はわかっていた。わかっていなかった青井は予想外の遭遇に顔を押さえて明後日の方向を見る。
「……なんだそれ、良すぎる、ヤバい」
小声で呟く。目の保養であり目の毒だった。
つぼ浦は薔薇のように濃い赤色のシャツの上に、大柄なつぼ浦ぴったりにあつらえたれた黒いジャケットを着ていた。くつろげられた胸元から覗く健康的に焼けた肌の色に、シャツの赤がよく映えている。スラックスのポケットに親指を引っ掛けて斜めに立つ姿こそ不良のようだが、眼鏡の向こう、柔らかく垂れた目元が凶暴さに幼さという甘みを与えている。
「すごいっすよねこれ、さすがカニくんだぜ」
普段は伊達と酔狂で隠れていた魅力が、服を着替えただけでこんなにも明らかになっている。おおよそつぼ浦匠をラッピングするのに最適な服を前に、青井はつとめて正気を保ち、嬉しそうに胸を張っている姿を見た。
「胸元……開けすぎじゃない?」
じっくり見て出た感想がまずそれだった。指摘してからそんなところにいきなり目をやるやつはいないとハッと気づく。だが青井の下心には気づかず、つぼ浦は首を傾げる。
「これっすか?ネクタイだけは無理って言ったら代わりにこれ渡されたんだけど、一人じゃつけらんなくって。つけてもらっていいっすか?」
つぼ浦はそう言うとポケットから取り出した金色のチェーンのネックレスを青井に手渡した。
「……そういうことじゃないんだけどな」
手の中で金属音を立てる冷たいチェーンをつまむとつぼ浦の背後に回る。つけやすいようにと少しかがんだせいで目の前ですらりと伸びる筋張ったうなじが眩しい。他人に触れさせることなどないであろう場所がすぐそこにある。これ以上見ているとよこしまな気持ちが止められなくなりそうで、青井は目を逸らしながらなんとか留め金を輪に通す。
「できたよ」
「あざっす、腕がつりそうになって困ってたんすよ」
焼けた肌に金色の輝きはとても良く馴染んでいた。グッジョブ、成瀬。青井は満足げに頷く。
しかし想い人のこんな姿を他の人に見せたくはない。もしつぼ浦もホストをやるということを知っていたら青井は全力で止めていただろう。でもつぼ浦をそんな目で見てるのは俺だけ、と青井は繰り返し自分に言い聞かせた。
「アオセンは?こういうの好きそうじゃないっすけど」
自分が釣られたきっかけである青井がなぜ同意したのかが気になり、つぼ浦は問う。青井は肩をすくめた。
「まあ成瀬の顔も立ててやらんとと思ってね」
「本当っすか、意外すぎて弱みでも握られてんのかと思ってましたよ」
「そ…ういうわけじゃない、いつも成瀬には世話になってるし、そう、そういうやつ」
「へぇ、真面目っすね」
「厄介だよ、大人ってのは」
まるで自分が浅慮な子供であるかのように言われてムッとするが、相手は海千山千の鬼の先輩だ。それ以上聞かれたくなさそうな空気を感じ、つぼ浦は話題を変える。
「アオセンも、その……いいっすね、服」
つぼ浦は苦い顔をしている青井の姿を改めてながめる。
青井に用意されたのは青のスリーピースだった。嫌味にならない光沢と、細かな刺繍の入った生地は海のように青く、白いシャツをネクタイの黒が引き締めている。飾りすぎないさっぱりとした雰囲気が青井の白い肌によく似合っていた。全体的にひどく収まりがいいのに、襟からちらりと覗く首筋の黒いタトゥーが静謐さの中で唯一の牙だった。
「本当?なんか普通すぎない?」
腕や裾を見回して青井は首を傾げている。その「普通」をちょっと着るだけでこんなにも美しさの怪物のようになるのが恐ろしくて、つぼ浦は目をさまよわせる。
「ああそうだ、忘れてた。一緒に置いてあったから多分俺のなんだけど、付け方がわかんなくて。お前いつも耳につけてるじゃん、わかる?」
そう言うと青井はポケットに手を突っ込む。手のひらに取り出したのは細身だが存在感のあるイヤーカフだった。
「つ、付け方もなんも……」
「ほら、場所とかあるやん知らんもんそういうの」
つぼ浦は渋々繊細な意匠の入った銀色のイヤーカフを受け取る。青井は紺色の髪をかきあげて耳にかけ、右耳を差し出す。
日に焼けることのない肌が綺麗だった。空の色を宿した目を長い睫毛が彩っている。普段ほとんど見ることのない青井の横顔に目を奪われる。顔の紅潮を感じ、触れたことのない場所に触れるのがまるで禁忌かのようで、耳に置く指もじんわりと熱くなる。つぼ浦が心臓の鼓動と戦っていると、青井の目が急かすようにちらりとこちらを見た。慌てて軟骨に押し込み手を離す。
顔のほてりが全く引かない。至近距離で見る想い人の素顔はあまりにも体に悪い。こんな顔を青井に見られたらまずい。つぼ浦はごまかすように首をあちこちに向けるが、幸い青井は位置がしっくり来なかったようでイヤーカフをいじっていた。
「おっ、いいじゃ~ん二人とも」
廊下の先から成瀬が嬉しそうに拍手をしながら近づいてくる。成瀬本人も正装に着替えているが、二人と違って自然に着こなす姿にはロスサントスの彼氏の二つ名にたがわぬ貫禄すらあった。
「お前は適当にやってもどうにかなると思ってたけど、思ったとおりだぜ。つぼ浦さん、化けたな」
ホクホク顔の成瀬は最後の方だけ小声で青井に言った。
「そうだねぇ……」
「ん?なんか不満か?」
「いやまあ、ない、けど……さあ?」
「あるときのやつやめろ」
成瀬はモゴモゴしている青井を小突く。
不満はあった。この獰猛な美しさの青年を大勢の他人に見せるという不満が。
だが青井にはその手を引いて止めることも、あるいは連れ出して逃げる根拠もない。所詮片思いの自己中な束縛に過ぎない。せめて他人がこの魅力の虜にならないことを願うしかなかった。
「で、具体的にどうしたらいいんっすか?ホストなんて、知らないッスよ」
つぼ浦は成瀬に問う。「知らないで引き受けたのかよ…」という青井のドン引きした声を横目に成瀬は笑った。
「あ〜大丈夫大丈夫、いつものつぼ浦さんをちょ〜っとお行儀よくするだけでいいんで」
「そんなハリネズミの針全部抜くみたいな」
「お行儀~?正座とかっすか?」
神妙な顔で明後日のことを言い出したつぼ浦に青井は言って聞かせる。
「バットは?」
「出さない」
「中指は?」
「立てない」
「水掛け論は?」
「あ~あ~わかったッスよアオセ……」
「手錠もかけない、詐欺もしない、賭け事もしない、お客さんを論破しない、腹が立っても殴らない、あとなんだ?なんかある?成瀬」
「そ、んなことするわけないじゃないっすか、人聞きが悪いっすねえ青井先輩も!」
心当たりしかないことをズバズバ言われてつぼ浦は思わずたじろぐ。成瀬が「そもそも武器持ち込み禁止だしイベテロ適応ですよ」と口を挟むが、この後輩に散々仕事で辛酸を舐めさせられている青井はまだ抜け道がないかと考え込んでいた。
「まあまあ、つぼ浦さんを指名するってことは”わかってる”人しか来ないと思うんで、ほんと、お行儀よくしてるだけでいいっすよ」
押さえに入った成瀬の気の利いた言葉も、青井にとっては逆効果だった。
ただきれいな服を着た姿を見ているだけなら良かったが、他人に見せる時間が近づいてきている。自分のことよりも、着飾った相手が誰かに見られることが小骨のように引っかかってやまない。
「それでまぁお酒飲んで、気分よくお話するだけですから、簡単簡単」
「あ、飲ませないでやってね、こいつ酒弱いから」
「はいはい、伝えとくぜ」
ひらひらと手を振ると成瀬は先に出ていく。ちらりと横を見ればドレスアップした相手と目が合い、どちらともなくパッと目をそらす。
「チクショウ、緊張……するッスね、なんか」
「そ、そうなんだ、珍しいね」
「アー、さっき言ってなかったけど切符は切ってもいいんすか?」
「駄目に決まってんだろ」
「イベントテロ罪は名誉っすよ」
「お前だけだよあれを勲章だと思ってるのは」
顔に熱が集まるのがわかる。指摘されたら逃れられない顔色を隠すように、二人はお互いを視界に入れずイベントが始まるまで中身のない会話を続けた。
苦い酒を飲み下し、青井はぎこちない笑顔で当たり障りのない会話を続ける。相手は好きで青井を指名してくるので適当なことを言っても笑ってくれるのが楽でもあり、苦痛でもあった。
ステージの前で成瀬は歯の浮いたような台詞を流水のごとく話している。もはやほぼ無意識に離れたテーブルをちらりと見ればひときわ大きな歓声が上がっている。つぼ浦が白い歯を見せて笑っていた。その屈託のない笑顔が可愛らしく、自然に口元が緩んでしまう。
つぼ浦匠の面白さはロスサントス中の人間が知っているだろう。今日も一見いかつい格好をしておきながら、その口から出るのは妙にインテリめいた美辞麗句なのだろう。大げさな身振りで如才なく話し続けるつぼ浦に素直な羨ましさを感じ、青井は首を引っ込める。
年齢というものは勝手に積み重なるわりにそのままでは人生に何ら箔をつけず、そのくせ老獪さだけは残していく。上手くなってしまった世渡りの才だけが、ただこの場を持たせていた。
つまらない時間ほど時計の進みは遅い。早く終われと青井が文字盤を睨んでいると、不意にグラスが床に落ちる音と、悲鳴が聞こえた。
「つぼ浦さん?!」
成瀬の声で青井もはじかれるように席から立ち上がる。遠くのソファーにぐったりと倒れ込むつぼ浦の姿が見えた。
興味本位で集まる野次馬の人垣をくぐり抜け、青井は一番に駆け寄った。
「つぼ浦、どうしたの!?」
割れたガラスの破片が靴の下で嫌な音を立てる。呼吸を確認するまでもなく、つぼ浦からは酒の匂いがした。ちゃんと言ったのに、こいつもわかってるはずなのに、とどこにもぶつけようのない怒りが瞬間的にこみ上げる。
なんと言い訳したのかは思い出せない。青井は無我夢中でつぼ浦の体を支え、周囲の声も聞かず控室へと向かっていた。
自分にそんな権利はないことはよくよくわかっていた。しかしこれ以上つぼ浦を他人に見せたくない気持ちが全てに優先し、酒で溶けた理性が青井を突き動かした。
焦燥のままに足を走らせ、青井は控室のソファーに足のもつれるつぼ浦を座らせた。部屋の外からは成瀬の歌声と歓声が響いていた。ショーは盛り上がっており2人ほど抜けても誰も咎めないだろう。このタイミングの良さはおそらく気遣いの化身、成瀬の配慮だ。どこまでもデキるペンギンの顔に青井は今一度感謝した。
水をもらって戻ってくると、つぼ浦がうめきながら目を開けていた。駆け寄った青井を視界に捉え、ふにゃふにゃの顔がへにゃりと微笑む。
「大丈夫?わかる?」
「は、アオセ……だ」
「飲まさせられたの?」
青井の詰問につぼ浦はわずかに首を動かす。縦か横か判別がつかず、問いただす声に力が入る。
「誰に?!」
切羽詰まった強い声が酔いの回った頭に届き、つぼ浦は大きく首を振る。
「イヤ……すき、なひと、の話題になって」
「へ?」
「あせってのんだら、酒だったぽい」
「ああ……」
腹の底からのため息が出た。続けて何かモニャモニャ言っているつぼ浦に蓋を開けた水のボトルを手渡す。自分の想像がすべて杞憂だったことを悟り、青井は口から水を10%くらいこぼしながら無心で飲んでいるつぼ浦を見守った。
「純粋だなぁ」
白黒入り乱れた世界で生きていくには不自由なほどの透明感に、思わず笑みがこぼれた。そんな青井の鼻で笑う音を聞き取り、つぼ浦はボトルから口を離すと青井をキッと睨む。
「アンタ、の、せいだよ」
「お、俺?」
唐突に刃が飛んできて青井は面食らう。なにかしたか?と酔った頭で過去を総ざらいするよりも早く、アルコールですわった目が青井を見た。
「アンタが、視界に入るとまぶしくって、顔に、出ちまって、からかわれて……」
「えっ」
「そんなかお、誰にも見せたくなくって」
威勢よく始まった言葉がどんどんと揺れ、みるみるその目に涙が溜まっていく。するりと手からボトルがすり抜け、音を立てて床に落ちる。その手で顔を覆うとつぼ浦はうつむきながら吐き出した。
「見られるなら、アオセンだけがいい」
まだ中身の残ったボトルから流れる水が床に静かに水たまりを作っていく。会場から聞こえる重低音と歌声、歓声を背景にスンスン鼻を鳴らす音が部屋に響く。
「アオセンも、かお、見せんなよ、今日すっげぇかっこいいんだから」
「へ……」
「い、いろいろ、言われてたんだぞ!みんなから。だから気が気じゃなくって……」
「つぼ浦、それって」
「うるせぇ、ぜんぶアンタがかっこいいせいだ!チクショウ……、嫌だ、俺なんか、俺なんかじゃ、………」
声は弱々しく消えていき、うつむいたまま泣きじゃくってしまった。
つぼ浦って酔っ払うと泣くタイプなんだな、意外だな、などと冷静に考えるのは青井の頭の一部だけで、残りの酒で溶けた部分がつぼ浦の言葉を理解しようと奮闘する。
しかしどう解釈しても都合よくしか受け取れない。ちらりと横の壁にかかるメイク用の大きな鏡を見ると、酔いのせいだけとは到底言えないほど真っ赤になった自分が映っていた。青井は思わず手で口を覆う。自覚したら顔が火のように熱い。高鳴る心臓が余計に血中のアルコールを回す。
完全にできあがっているつぼ浦がぼやいた言葉が本当かどうか、確かめるなら今しかない。なにしろ青井も程々に酔っ払っていた。失敗しても酒のせいだと言い訳ができ、成功したら役を果たした正気を褒め称えればいい。着ることのない艶やかな服と、騒がしい音楽、酒に溺れた今でなければ伸ばせない手があった。
「お前、相当酔ってるんだろうけどすごいこと言ってる自覚ある?」
「へぁ……?」
「つぼ浦の言ってることぜんぶ好意的に受け取っていい?」
青井はソファーに座るつぼ浦の前にしゃがみ、顔を覗き込む。だがつぼ浦は両手で顔を覆ったまま動かない。
「好きだよつぼ浦、俺も」
落ちてきた愛の言葉に、つぼ浦の肩がビクッと揺れた。ゆるく頭を振りながら、押し殺した声が手の間から漏れる。
「う、うそだ、ぜったい……」
「あれ、違った?」
「うそだ、アオセン、からかってんだろ、あ、あいつらみたいに」
席でよほど言われたのがこたえたのか、顔を上げると思いきや余計に背中を丸めて隠してしまった。
信じないのは酒のせいか、それとも素面でも信じないのか。泣き上戸、いや下戸のつぼ浦が思ったよりもネガティブになっていることに気づき、青井は優しく言う。
「じゃあ信じるまで何度でもいうよ、俺も好きだよ」
「うそ、つくなよ。おもしろくないぜ」
「今日なんて服すごい似合っててさ、見惚れてたんだよ」
「そんなわけ……」
「こんなに良いのがみんなにバレたらさ、お前のこと誰か取らないか不安でしょうがなかった」
「それ、は、俺も……ッ!」
その言葉で思わず顔を上げようとしたが、思ったよりも近くに青井の顔があり甲羅に引っ込む亀のように慌てて顔を伏せる。ちらっと見えた涙で濡れる目が思いのほか可愛くて青井は思わず顔が緩む。
「ねえ顔見せて」
「だめだ」
「俺になら見せてもいいんでしょ?」
「……今はだめだッ」
悲嘆に暮れていた先ほどまでとは違い、今は首まで赤くなっている。期待と失望が混ざり合っている胸の内を察し、青井は赤い耳元に口を近づける。
「俺の顔、見たくないの?」
頭に響くその声で、ゾワッと全身の血管が震えた。もう何度胸を撃ち抜かれたかわからない想い人への恋心は、それを失う迷いと恐怖を抑えて越えた。つぼ浦は顔を隠す手を離し、恐る恐る見上げる。
熱に浮かされる怜悧な顔があった。いつもの冷静さも穏やかさもかなぐり捨てた青井がいた。
その顔から目が離せないでいるうちに肩を押され、気づいたときには青井がソファーに膝をつき、つぼ浦は身体を背もたれに押さえつけられていた。
「ひゃ……」
青井は服にシワがよるのも構わず顔をつぼ浦に近づけた。次の行動への期待から喉が鳴る。耳に当たる熱い吐息に耐えていると青井の口が右耳のピアスを耳たぶごと食んだ。
「ッや、アオ、セン…?!」
ゾワゾワと知らない感覚が耳を甘く噛まれるたびに流れ込む。覆いかぶさる青井の腕をかろうじて掴むが振りほどくことができない。かぷかぷ噛むたびに耐えようと弱く腕を掴む姿がいじらしく、青井は笑いながら体を起こす。
「っは、だからちゃんと右にしたんだよ」
「あ、なにがだよ……?」
「おそろいにしたかった。そろそろ信じてくれる?」
そういうと紺色の髪をかきあげて右耳の銀の輝きを見せた。
途端に数刻前のことを思い出し、つぼ浦は息を呑む。触れたことのない場所に触れるやましさに震えるとき、青井にもまたほのかな下心があったことを知る。
「俺だってこんな顔、お前の前でしかしないよ」
それは酒に浮かれ、恋に夢中な捕食者の顔だった。理性を溶かし欲望に忠実なその顔は、言葉よりも何よりも雄弁に愛を語っていた。
紛れもない愛を叩きつけられ、青井とは逆につぼ浦の頭は理性を欲し始める。正気に戻れば戻るほど、目前の愛の質量に目が眩む。
戸惑うつぼ浦を押さえつけたまま、青井ははだけた襟元から金のチェーンの下の肌に手を滑らせる。
「これ本ッ当に目の毒だわ」
苦々しささえ感じさせる声で呟くと、その胸元に口付けた。
「はッ、な、なにやって、アオセン…!」
思わず肩を手で押し返そうとするが、うまく力が入らない。そのまま骨ばった鎖骨へと何度も強く吸い付かれ、思わず声が漏れそうになるのを背中を反らして耐える。
「つぼ浦もこんな顔、俺以外に見せないでね」
けぶる睫毛の向こう、熱に溶ける目で青井はちらりと壁を見た。つられて首を向けたつぼ浦の目に鏡が見えた。青井に襲いかかられ、泣きはらした目にさらに涙を浮かべ、熱に夢中になるとろけきった顔の自分が映っていた。
「ッ……!!見せねぇよ!」
今日一番の自信があるほど顔を真っ赤にしてつぼ浦は顔を思いっきり背けた。自分がどんなに恥ずかしい表情をしているのか自覚して冷や汗が流れる。
だがこんな顔は自分たち以外が見るはずもない。見つめ合う顔はどちらも相手に深く溺れていた。頬に手が添えられ、青井の顔が近づくのをつぼ浦はぼうっと待つ。
互いの唇が触れそうになった瞬間、控室のドアがノックされた。二人して慌ててがばりと身体を起こす。
ドアの向こうからかかる「そろそろラストなんですけど大丈夫ですかー?」というスタッフの声に「はぁーい行きまーす」と青井が返す。
熱が離れていくことに素直に寂しさを覚えた。もしかしてやはり夢で、酔いが見せた幻なのかと悲観しかけたつぼ浦の首の後ろに青井がおもむろに手を回した。
少しのあとにその手がネックレスを外す。白い指が金色をつまんで持っていくのをつぼ浦はただ見送った。代わりに青井は自分のネクタイを引き抜くと、つぼ浦の膝の上にぽんと置く。
「ちゃんと、ボタン上まで閉めてネクタイつけるんだよ。でないと見えちゃうからね」
意地悪そうに笑うと、はだけた胸をとんとんと指差した。ハッとして慌てるつぼ浦の前で青井はシャツのボタンを数個外し、手慣れた動作でネックレスをつけるとそれを見せびらかすように一度だけ振り返った。
「あとでね」
ドアが開くと会場の喧騒がわっと飛び込んでくる。「つぼ浦酔いつぶれてるんで無理でーす」という青井の声がかすかに聞こえ、軋むドアが閉まった。
身体の奥に熱が残ったまま、頭に重たい痛みがあることに気づく。酩酊が終われば残るのはたいてい失敗か後悔だ。だがどちらでもないものが確かに残り、つぼ浦はまだおぼつかない足で立ち上がる。
鏡を見れば、隠すのをやめた愛が残した痕が胸元にいくつもあった。剥き出しの愛情と同量の嫉妬や執着を目の当たりにし、無邪気に顔を眺めるだけの段階を超えたことを知った。
「覚めたぜ、酔いなんか……」
ため息をつく鏡像の自分を見ながらつぼ浦は赤らむ手でネクタイを締めた。
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いろいろな部分に筆が乗って大脱線しました。ホストらしいことあんまりやってねぇじゃねぇか
ネックレスを送る意味って「束縛」「独占」らしいですね。
ネクタイは「あなたに首ったけ」らしいですね。現場からは以上です。
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両片想い成就ありがとう……本当にありがとうございますッ!始終ニヤニヤしっぱなしでした。ネクタイからネックレスに変えて戻って来るaoセンを見てすべてを察するモブになりたいです。素敵なお話ありがとうございました!!完璧なタイミングで呼びに来たスタッフありがとう……!