テラーノベル
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踏み込んだ日
昼のチャイムが鳴って、
大和はラインの止まった作業場から離れる。
鉄の匂いが残る手を、
ペーパーで軽く拭きながら、
ポケットの中のスマートフォンを確かめる。
通知は、もう珍しくなくなっていた。
――菜月。
ここ数日、
返事は早い。
僕が早くなったから?
以前のような抵抗感は消失していた。
でも、
思っていた以上に、
このやりとりが嬉しい。
自覚してしまう前に、
体が反応している。
聞かれたことには、
ちゃんと答えている。
住んでいる場所。
休みの日の過ごし方。
好きな事。
特別なことは、
何も言っていない。
嘘も、
飾りもない。
それなのに、
言葉を返すたび、
少しずつ、
足元が変わっていく感覚があった。
冷たい。
はずなのに。
思ったより、
嫌じゃない。
それどころか、
じんわりと、
温度が伝わってくる。
沼に足を入れた瞬間に、
引き返せなくなる感覚。
でも、
今の大和には、
引き返す理由を
探す気力がなかった。
聞き返した方が、
いいんだろうな。
そう思う。
会話なんだから。
でも、
どう聞けばいいのか、
分からない。
踏み込みすぎない距離。
踏み込みたい気持ち。
その間で、
言葉が迷子になる。
スマートフォンを見つめたまま、
昼休憩の時間が、
静かに削られていく。
――興味がないと、
思われるかな。
――それでも、
今はこれ以上、
深く触れたくない。
矛盾した感情が、
胸の中で絡まる。
それでも、
このまま黙るのは、
違う気がした。
入力欄を開く。
短く。
でも、
逃げない言葉。
指が、
止まってから、
動く。
――菜月さんは、
好きなこと、ありますか?
送信。
画面を閉じて、
ポケットにしまう。
胸の奥が、
少しだけ、
重くなる。
同時に、
不思議と、
落ち着いてもいた。
冷たいはずの水は、
もう、
足首の感覚を
奪っていた。
抜け出そうとは、
思わなかった。
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