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#獣人
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ステラの名前を呼んだ翌日から、日々は静かに続いていった。
朝はゆっくりと始まり、無理に起こされることもなく、食事の時間が来る。
昼間は聖堂で過ごしたり、部屋で本をめくったり、ただ窓の外を眺めているだけの日もあった。
そして夕方になると、ステラが台所に立ち、二人で夕食の支度をする。
最初の日、ノワールはカトラリーを並べる役目をもらった。
「フォークはこっち、スプーンはここね」
ステラがそう教えると、ノワールは小さく頷き、一本ずつ丁寧に並べていく。
まっすぐに揃えられた銀の光が、テーブルの上で静かに輝いていた。
「ありがとう、助かったわ」
その一言を聞いたとき、ノワールは一瞬、どうしていいかわからなかった。
胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
(……助かったって)
そんなふうに言われたことは、あまりなかった。
二日目には、野菜を洗うのを手伝った。
桶の中で葉を揺らすと、水がぱしゃりと跳ねた。
思わず肩をすくめる。
怒られる、と思った。
けれど、ステラは何も言わなかった。
ただ「水、冷たいでしょ」と笑っただけだった。
(……怒られない)
それだけのことが、信じられないほど不思議だった。
三日目には、火のついていない鍋を運ぶのを任された。
少し重かったけれど、両手で抱えるようにして運びきった。
「助かったわ」
また同じ言葉。
ノワールはその場で、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
(……できた)
小さなこと。
でも、自分でやれたこと。
その感覚が、胸の奥に静かに積もっていった。
四日目、五日目と日々は続き、ノワールは少しずつ台所に立つことに慣れていった。
声をかけられることにも、同じ空間で過ごすことにも、ほんの少しだけ。
(ここなら……)
そんな考えが、心の隅に芽生え始めていた。
⸻
その日の夕方も、いつもと同じように始まった。
鍋の中でスープがぐつぐつと音を立てている。
湯気が立ち上り、やさしい匂いが台所に満ちていた。
ステラが鍋を火から下ろそうとしたとき、ノワールが声をかけた。
「……ぼく、持つ」
ステラは少しだけ驚いた顔をする。
「大丈夫? ちょっと重いわよ」
「うん……できる」
そう言った瞬間、胸の奥で、小さな自信が灯った。
(このくらいなら、できる)
何日か続けて、ちゃんとできていた。
怒られなかった。
役に立てた。
だから、今回も大丈夫だと思った。
ステラは一瞬だけ迷うような表情をしたが、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、気をつけてね」
ノワールは鍋の持ち手を両手で掴む。
思ったよりも重かった。
ぐっと腕に力を込める。
一歩、足を踏み出す。
そのときだった。
足元が、わずかに滑った。
「あ……」
視界が傾く。
鍋が揺れる。
熱い液体が縁から跳ねた。
「ノワール!」
ステラがとっさに手を伸ばす。
次の瞬間――
バシャッ、と音を立ててスープがこぼれた。
ノワールの体は尻もちをつき、
ステラの腕に、熱いスープがかかった。
「っ……!」
小さな息を呑む音。
それを聞いた瞬間、ノワールの頭の中が真っ白になった。
(やった)
(また、やった)
視界の奥に、別の光景が重なる。
床に落ちた皿。
割れた音。
怒鳴り声。
血のにじむ手。
――お前のせいだ。
その言葉が、頭の中で何度も響く。
「ご、ごめんなさい……!」
ノワールの声は震えていた。
息が浅く、うまく吸えない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
何度も、何度も繰り返す。
体が勝手に震える。
逃げなきゃ。
怒られる前に、逃げなきゃ。
立ち上がろうとして、足がもつれる。
「ノワール」
ステラの声がした。
怒鳴り声じゃない。
でも、それが逆に怖かった。
「ごめんなさい……ぼく、また……」
視界がぼやける。
涙が止まらない。
「ノワール、見て」
その声に、ノワールは恐る恐る顔を上げた。
ステラは、少し赤くなった腕を見てから、ノワールを見つめていた。
「大丈夫。たいしたことないわ」
その声は、いつもと同じだった。
怒りも、責める色もない。
「でも……ぼくが……」
「うん、転んじゃったのね」
ただ、それだけの事実を受け止める言い方だった。
「でも、誰も怪我してないわ」
ステラは少し笑った。
「ちょっと熱かったけどね。水で冷やせば大丈夫」
そう言って、流しの方へ歩いていく。
その背中を見ながら、ノワールはその場に立ち尽くしていた。
怒られない。
叩かれない。
追い出されない。
それが、理解できなかった。
「……こっち、おいで」
呼ばれて、ノワールはゆっくり近づく。
ステラは腕を水で冷やしながら、空いている手でノワールの頭を撫でた。
「怖かったね」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、また溢れ出した。
「ごめんなさい……」
「うん。でも、もう大丈夫」
責めない声。
叱らない手。
ノワールはその場で立ち尽くしながら、
震える肩を押さえることもできずに、ただ涙を流していた。
台所には、まだスープの匂いが残っていた。
でもその空気の中で、誰も怒鳴らなかった。
ただ、水の流れる音だけが、静かに響いていた。
ステラは腕を流しの水に当てたまま、しばらくその姿勢でじっとしている。
赤くなった皮膚の色は、少しずつ落ち着いてきているようだった。
ノワールは、その様子を見つめたまま動けなかった。
(……痛いはずだ)
自分のせいで、そうなった。
その事実だけが、頭の中でぐるぐると回る。
「……ごめんなさい」
また、同じ言葉がこぼれた。
「何度も謝らなくていいわ」
そう言うステラの声色は穏やかだった。
しばらくして、水を止める。
濡れた腕を布でそっと拭きながら、ステラは言った。
「薬、塗ってくるね」
怒っている様子はない。
でも、優しすぎるのも、ノワールには怖かった。
(……どうして)
どうして怒らないんだろう。
どうして、叩かないんだろう。
どうして、追い出さないんだろう。
頭の中で問いが増えていく。
ステラは棚から小さな瓶を取り出し、腕に薬を塗り始めた。
白い軟膏が、赤い部分を覆っていく。
その様子を見ているだけで、胸が締め付けられる。
「……ぼくが、やった」
「…違うわ。手伝おうとして転んじゃっただけよ」
責める言葉は、どこにもない。
ノワールは唇を噛んだ。
「もう……ぼく、やらないほうがいい……」
震える声で、そう言った。
「なにを?」
「てつだい……」
視線を落としたまま、続ける。
「また、やるから」
「また、こわすから」
「また……けがさせる」
声がだんだん小さくなっていく。
ステラは薬を塗り終えると、瓶の蓋を閉めた。
それから、ノワールの方へ向き直る。
「ノワール」
呼ばれても、顔を上げられない。
「今日は、転んだだけよ」
「でも……」
「重たい鍋を持とうとして、足が滑った。それだけよ」
淡々とした言い方だった。
特別な意味づけをしない、ただの事実の説明。
「失敗って、そういうものよ」
ノワールはゆっくり顔を上げた。
「……おこらないの?」
その問いは、とても小さかった。
ステラは、少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく首を傾げた。
「どうして怒るの?」
「だって……」
言葉が続かない。
だって、普通は怒る。
だって、自分はいつも怒られてきた。
でも、それをうまく言葉にできない。
ステラは少し考えてから、静かに言った。
「わざとじゃないでしょう?」
ノワールは首を縦に振る。
「うん。なら、それで十分よ」
それだけだった。
理由も、説教も、長い説明もない。
ただ、それで終わりだった。
ノワールの胸の奥で、何かが崩れるような感覚がした。
緊張で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。
足の力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまう。
「……こわかった」
自分でも驚くほど素直な言葉が、口から出た。
「うん」
ステラは否定しない。
「すごく、こわかった……」
「うん」
同じ返事。
でも、その繰り返しが、妙に安心できた。
ステラは少しだけしゃがみ、ノワールと目線を合わせる。
「また、お手伝いしてくれる?」
ノワールはすぐには、答えられなかった。
その言葉が、胸の奥にゆっくりと落ちていく。
__なんでそんなことを聞くんだ。
喉の奥が、酷く乾く。
「また、、、怪我させちゃうかも、、」
「僕は、また、失敗するかもしれないのに」
ステラはしばらく考えて困ったように微笑み言葉を紡ぐ。
「失敗しても、すぐに全部が終わったりしないわ」
その言葉は、静かにノワールの胸の奥へ落ちていった。
ノワールは、何も言えずに瞬きをした。
(……終わらない)
それは、知らない感覚だった。
失敗したら、終わり。
役に立たなければ、いらない存在。
ずっと、そう思って生きてきた。
でも今、目の前の人は違うことを言っている。
ステラは腕を流しの水に当てたまま、しばらくその姿勢でじっとしている。
赤くなった皮膚の色は、少しずつ落ち着いてきているようだった。
ノワールは、その様子を見つめたまま動けなかった。
(……痛いはずだ)
自分のせいで、そうなった。
その事実だけが、頭の中でぐるぐると回る。
「……ごめんなさい」
また、同じ言葉がこぼれた。
「何度も謝らなくていいわ」
そう言うステラの声色は穏やかだった。
しばらくして、水を止める。
濡れた腕を布でそっと拭きながら、ステラは言った。
「薬、塗ってくるね」
怒っている様子はない。
でも、優しすぎるのも、ノワールには怖かった。
(……どうして)
どうして怒らないんだろう。
どうして、叩かないんだろう。
どうして、追い出さないんだろう。
頭の中で問いが増えていく。
ステラは棚から小さな瓶を取り出し、腕に薬を塗り始めた。
白い軟膏が、赤い部分を覆っていく。
その様子を見ているだけで、胸が締め付けられる。
「……ぼくが、やった」
「…違うわ。手伝おうとして転んじゃっただけよ」
責める言葉は、どこにもない。
ノワールは唇を噛んだ。
「もう……ぼく、やらないほうがいい……」
震える声で、そう言った。
「なにを?」
「てつだい……」
視線を落としたまま、続ける。
「また、やるから」
「また、こわすから」
「また……けがさせる」
声がだんだん小さくなっていく。
ステラは薬を塗り終えると、瓶の蓋を閉めた。
それから、ノワールの方へ向き直る。
「ノワール」
呼ばれても、顔を上げられない。
「今日は、転んだだけよ」
「でも……」
「重たい鍋を持とうとして、足が滑った。それだけよ」
淡々とした言い方だった。
特別な意味づけをしない、ただの事実の説明。
「失敗って、そういうものよ」
ノワールはゆっくり顔を上げた。
「……おこらないの?」
その問いは、とても小さかった。
ステラは、少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく首を傾げた。
「どうして怒るの?」
「だって……」
言葉が続かない。
だって、普通は怒る。
だって、自分はいつも怒られてきた。
でも、それをうまく言葉にできない。
ステラは少し考えてから、静かに言った。
「わざとじゃないでしょう?」
ノワールは首を縦に振る。
「うん。なら、それで十分よ」
それだけだった。
理由も、説教も、長い説明もない。
ただ、それで終わりだった。
ノワールの胸の奥で、何かが崩れるような感覚がした。
緊張で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。
足の力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまう。
「……こわかった」
自分でも驚くほど素直な言葉が、口から出た。
「うん」
ステラは否定しない。
「すごく、こわかった……」
「うん」
同じ返事。
でも、その繰り返しが、妙に安心できた。
ステラは少しだけしゃがみ、ノワールと目線を合わせる。
「また、お手伝いしてくれる?」
ノワールはすぐには、答えられなかった。
その言葉が、胸の奥にゆっくりと落ちていく。
__なんでそんなことを聞くんだ。
喉の奥が、酷く乾く。
「また、、、怪我させちゃうかも、、 僕は、また、失敗するかもしれないのに」
ステラはしばらく考えて困ったように微笑み言葉を紡ぐ。
「失敗しても、すぐに全部が終わったりしないわ」
その言葉は、静かにノワールの胸の奥へ落ちていった。
ノワールは、何も言えずに瞬きをした。
(……終わらない)
それは、知らない感覚だった。
失敗したら、終わり。
役に立たなければ、いらない存在。
ずっと、そう思って生きてきた。
でも今、目の前の人は違うことを言っている。
ノワールはしばらくそのまま動かなかった。
床の冷たさが、じんわりと膝に伝わってくる。
でも、立ち上がる気力はまだ戻ってこなかった。
(……怒られなかった)
その事実を、何度も頭の中でなぞる。
けれど、まだどこかで疑っている自分がいた。
あとから怒られるんじゃないか。
食事のときに、急に言われるんじゃないか。
明日になったら、追い出されるんじゃないか。
そんな想像が、消えずに残っている。
ステラは背中を向けたまま、床にこぼれたスープを布巾で拭いていた。
何も言わずに、ノワールの失敗の跡を拭うように。
「……」
ノワールはゆっくりと立ち上がった。
足に力を入れてみると、まだ少し震えている。
流しのそばに置かれた布巾が目に入る。
さっき、自分がこぼしたスープが、床に少しだけ残っていた。
ノワールは迷った末、布巾を手に取った。
しゃがみこんで、そっと床を拭く。
布巾を動かすたびに、さっきの光景が頭に浮かぶ。
鍋が傾いた瞬間。
熱いスープが飛び散った感触。
胸がまた少し苦しくなる。
「ありがとう」
短く、そう言う。
それだけ。
大げさに褒めるでもなく、
「気にしなくていい」と止めるでもなく、
ただ、やったことをそのまま受け取る声だった。
ノワールは、少しだけ戸惑う。
「……うん」
小さく返事をする。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
全部拭き終えて、布巾を流しに置く。
水で軽くすすいで、元の場所に戻した。
しばらくして、食卓の準備が整った。
ステラは皿を並べながら、何気なく言う。
「座ってていいわよ。」
その言葉に、ノワールは一瞬だけ固まる。
でも、さっきのような重たい空気はなかった。
「……うん」
素直に頷いて、椅子に座る。
湯気の立つ皿が、目の前に置かれる。
さっきよりも量は少ないけれど、ちゃんとした夕食だった。
スプーンを握る手が、少し震える。
(……まだ、ここにいる)
それは、とても不思議な感覚だった。
失敗したのに。
怪我をさせたのに。
それでも、ここでご飯を食べている。
追い出されてもおかしくなかったのに。
「いただきます」
ステラが、いつも通りに言う。
ノワールも、少し遅れて口を開いた。
「……いただきます」
声は小さかったけれど、確かに言えた。
スープをひと口すくう。
さっきと同じ味のはずなのに、
なぜか少しだけ、違って感じた。
怖さが、全部消えたわけじゃない。
でも、終わりじゃなかった。
それだけで、
胸の奥に小さな余白が生まれていた。
ノワールは、もう一口だけスープを飲んだ。