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夜の廊下は静かで、遠くから聞こえるのは換気扇の低い音だけだった。古い電灯が一つ、じり、と音を立てて瞬く。
直哉は壁にもたれて、指先で着物の袖口を弄んでいた。
視線だけが、部屋の奥に立つ甚爾を追っている。
直「……まだ帰らへんの?」
軽い調子の声。
けれど語尾がわずかに揺れているのを、直哉自身が一番わかっていた。
甚爾は答えず、ゆっくりと振り返る。
影の中から現れるその身体は、無駄がなく、近づくだけで空気が変わる。
甚「直哉」
低く名前を呼ばれただけで、喉の奥がきゅっと鳴った。
近い。
一歩も動いていないのに、距離が詰まったような錯覚。
甚「なんだよ、その目」
直哉は笑う。
挑発するみたいに、口角だけ上げて。
直「別に?甚爾くん が、えらい遅いなあ思うただけや」
甚爾は何も言わず、ただ視線を落とす。
直哉の喉元、鎖骨、開いた襟元。
その視線の動きが、やけにゆっくりで。
――見られてる。
そう意識した瞬間、背中を冷たいものが走った。
怖さと、妙な高揚が混ざった感覚。
直「……見すぎやろ」
囁くように言うと、甚爾が一歩近づく。
床板が、ぎ、と小さく鳴った。
甚「見せてんのはそっちだろ」
耳元に落ちる声。
触れてはいない。
触れていないのに、息がかかる距離。
直哉は息を止める。
心臓の音がうるさくて、ばれてしまいそうだった。
直「……は?」
強がって睨み返すと、甚爾はほんの一瞬だけ笑った。
それがやけに大人で、余裕があって。
甚「ガキみたいな顔してんな」
その言葉に、直哉の指が無意識に甚爾の胸元を掴む。
布越しに伝わる体温。
硬い感触。
直「甚爾くんにだけは言われとうないわ……」
言い切る前に、甚爾の手が直哉の手首を包む。
止めるでも、振り払うでもなく。
ただ、そこに留めるみたいに。
視線が絡む。
時間が、妙にゆっくり流れる。
近い。
近すぎる。
この先を想像してしまう自分が、悔しくて。
それでも、離れられなくて。
直「……帰れへん理由、できてもうたな」
直哉が小さく言うと、甚爾は何も答えない。
ただ、その距離を保ったまま、しばらく動かなかった。
触れないまま。
壊さないまま。
熱だけが、静かに残る。