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孤独は、周りに他人が多いほど際立つものだ。

 聴力に優れていなかろうと、自分に対する嫌味や悪口は不思議と聞こえてしまう。

 暴力は当然痛いが、それが言葉であってもズキリと突き刺さる。

 そう、心はとても痛がりだ。いとも簡単に傷つき、痛い、痛いと悲鳴をあげる。

 もし、限界点を超えてしまったら最後、正常な判断は難しく、心と体が制御出来ないのだから挙動は一貫性を欠き、加害者にとってはそれすらも楽しめてしまうのかもしれないが、被害者からすれば、己の惨めさと他者への恐怖で怒り狂うか、精神が病むかのどちらかだ。

 その少年も閉鎖空間のようなその場所で、毎日のように追い詰められていた。

 ウイル・エヴィ。十二歳。

 貴族の一つ、エヴィ家の長男として、イダンリネア王国唯一の教育機関であるアーカム学校に通い、勉学に励んでいた。

 ただ、それだけのことだった。

 にも拘わらず、不運にも標的にされてしまったことで、彼の人生は大きく揺らぐ。

 アーカム学校。創立九百年を超える由緒正しき学び場だ。

 一学年に一クラスだけ。少数精鋭の狭き門と言えよう。

 教室には十人から数十人程度。その割には広く、教壇が最も低い位置にあり、そこから長テーブルが段々と連なっている。

 授業が始まれば、子供達は真剣そのものだ。

 貴族として、国と国民と導くために。

 軍人として、祖国を守るために。

 そのためには知識と教養が必要だ。読み書きは当然ながら、それ以上の学問が時には要求される。

 ゆえに彼らは勉強にいそしむ。これ自体が自分達の特権であり、愚かな庶民との差であると理解しているからだ。

 学校および教室という場所は見た目以上に閉ざされており、その結果、独自のルールが作られる。

 子供同士でありながら、否、子供だからこそ、様々な優劣で順位付けを行う。それはもはや独自の階級制度であり、最下位と判定された者は全員から差別を受ける。

 いじめだ。

 最初は些細な嫌がらせから始まる。

 先ず、身体的特徴をからかわれる。背の低さを笑われ、太っていることをバカにされ、顔や髪型、服装を侮辱される。

 悲惨なことに、行為はエスカレートする。

 物を隠され、捨てられ、壊される。それらは学校生活に必須であり、もし失ってしまったのなら、親に適当な理由を告げ、購入し直すしかない。

 もしくは、耐え続けるかだ。

 ウイル・エヴィは優秀な生徒だった。ほぼ全ての科目で優秀な成績を誇り、物覚えの良さもあったが、何より計算の速さと理解力に秀でていた。

 もっともそれは、十一歳までの話だが。

 挫折は突然訪れる。

 得意としていた数学の授業でそれは起こった。

 行列。これが全く理解出来ず、もとよりそこそこ高等な技法ではあるのだが、少年は今まで習ってきた数学とは一線を画すこれに心底驚き、結果、苦手意識を持ってしまう。

 この挫折が、不運の始まりだった。

 たった一度の失敗がきっかけで、ウイルは勉強そのものに恐怖を覚える。好きだった数学だけでなく、他の科目についても徐々に成績を落とし、それでも得意な分野だけなら持ち直してみせたのだが、優秀な生徒という肩書はあっさりとはく奪されてしまう。

 地理学や歴史学では試験の度に最下位の点数を叩き出す一方、物理学、魔法学においては才能が味方し満点近くをとってみせる。

 このアンバランスさが、彼らには目障りだった。

 ウイル以外の貴族の子供達は、以前からこの少年が気に食わなかった。

 本人の耳に届かないよう陰口を話し、成績で劣っていながら優位に立っていると自分達を勘違いさせていた。

 チビ。

 デブ。

 不細工。

 容姿をけなすだけの行為だったが、ウイルの挫折が彼らに付け入る隙を与えてしまう。

 バカ。

 悪口が一つ増えただけとも言えるが、テストの点数ほどわかりやすい判断基準もなく、今まで負けていた分野で逆転したのだから、彼らは嬉々としてウイルをけなし始める。

 だが、この少年はいくつかの科目で本来の実力を取り戻してしまう。もちろん、植え付けられてしまった苦手意識は完全に払しょく出来ておらず、地頭の良さでカバーしているだけともいえる。

 この状況がさらなる不幸をもたらしてしまう。

 教室を支配していたその子供達は、貴族ゆえに恥をかかされることを誰よりも嫌った。

 見下すことが出来たウイルに、再度負けてしまうことが許せなくなり、貴族ではない他の生徒達も巻き込んで、全員で復讐を始めてしまう。

 いじめの本格化だ。

 それまで仲の良かった友人達ですら、教室内の階級には逆らうことは出来ず、手始めに悪口と無視が蔓延る。

 この時点でウイルは相当に参ってしまう。当然だろう。まだ十一歳、ましてや思春期だ。非がないにも関わらず、責められ続けることに耐えられる子供などいるはずもない。

 一クラス約十人の小さな集まりだが、それでもなお、のしかかる孤独の重さは未だかつてない。

 その結果、もともと打たれ弱かった心はあっという間にひび割れてしまう。

 不思議と、ウイルは誰にも相談しなかった。一人で我慢し続けた。

 そう出来てしまった理由は両親の存在だろう。

 エヴィ家の長として、その責務を全うしている父。

 貴族の生まれではないにも関わらず、エヴィ家に嫁ぎ、誰よりも前向きに生きている母。

 そんな二人の間に生まれ、将来は父に代わりエヴィ家を継ぐ。ウイルの前に敷かれた絶対的な道筋であり、本人も遵守するつもりでいた。

 だからこそ、両親の前では、家の中では笑うことが出来た。作り笑顔だったのかもしれないが、その演技は迫真ゆえ誰にも見破られず、地獄と天国と行き来することにも耐えられたのかもしれない。

 だが、限界は誰にも訪れる。ウイルも例外ではなく、むしろ我慢出来た方だろう。

 暴力こそ振るわれなかったが、裏を返せばそれ以外の絶望は味わってしまった。

 悪口や無視から始まったいじめは当然のように過激化し、勉強を阻止するため教科書を隠され、破られ、ついには燃やされてしまう。

 精神的にはさらに追い詰められてしまったが、貴族の息子という立場ゆえ、お金には困っておらず、買い直すというみじめな方法で対応する。

 泣きながら、何度も同じ教科書を購入し続けたことは死ぬまで忘れないだろう。

 しかし、こんな状況が続けば、心がすり減ってしまうのも無理はない。

 教室では仲間外れ。

 それどころか罵倒され、無視され、所持品すらも奪われてしまっては、立ち直れるはずがない。

 教科書や筆は親からもらったお金で買ったものだ。

 鞄は両親に選んでもらった。

 エヴィ家にとって、なにより少年にとって大事な財産だ。心は痛み、惨めさに圧し潰される。

 その結果、決定打は十二歳の時に訪れる。

 貴族にとって、その罵倒は絶望以外のなにものでもなく、ウイルとしてもついに耐えられなくなってしまった。

 エヴィ家の恥、死ね。

 おまえなんか生まれてこなければよかった。

 親がかわいそうだ。

 悪意の込められたこれらの発言が、少年の心を完全に破壊した。

 放課後の訪れにより地獄のような時間は終わる。帰宅の時間だ。

 普段なら、学校から解放されることを安堵するのだが、その日は違っていた。

 自分は生きていてはいけない。

 そう考えるほど、追い詰められていた。

 自分をあざ笑う生徒達の声が耳から離れず、重い足取りでゆっくりと帰り道を歩くことしか出来なかった。

 その最中、ウイルはこう考えていた。

 どんな死に方なら、父様と母様に迷惑がかからないだろう、と。

 自分で命を絶つ。それはもはや少年の中での決定事項であり、ともすれば方法を考えるだけだ。

 これで楽になれる。

 両親にも迷惑をかけずに済む。

 そんな思いが脳内を駆け巡る。もはや正常な考えには至れず、他者ではなく自身に非があると思い込んでしまう。

 追い詰められてしまった人間の、典型的かつ誤った思考パターンだ。

 ウイル・エヴィ、十二歳。貴族として生まれ、その責務を背負いながら不自由なく生きていくはずの人生は、いじめを苦にあっさりと幕を閉じる。

 そのはずだった。


「あ、ウイルぼっちゃま! 奥様が……、マチルダ様が!」


 考えがまとまらないまま立派な自宅に到着し、無心で玄関の戸を開いた瞬間だった。

 エヴィ家には親子で仕える使用人が二人いる。その一人、普段は落ち着きを払い、娘共々家事全般に励むメイドのサリィが、慌てた様子でウイルに声をかける。

 何だろう?

 闇に染まった心でかろうじてそう思うことは出来たが、次の一歩を踏み出すことはおろか、表情筋すら動いてはくれない。

 そんな事情など関係なしに、ふくよかなメイドは青ざめた顔で続ける。


「高熱で! 目も見えなくなられて! お、お医者様曰く……、手の……手の施しようがない、と……。ううぅ」

「……え?」


 泣き崩れるサリィと、立ち尽くすウイル。無力さゆえ、何より状況把握すら困難なのだから、思考がまとまるはずもない。


(か、母様が……死ぬ?)


 突き付けられた事実が、少年に眩暈を起こす。グラグラと視界が傾き、己の足だけでは立っていられないほどだ。

 倒れる前に、足を動かさなければならない。ここで立ち止まっていては、壊れた精神にとどめを刺されてしまう。

 靴を脱ぎ、鞄も捨て去って歩き出す。

 向かう場所は明白だ。父と母の寝室へ。

 貴族の家であろうと、王族の城ほど広いわけではない。駆け足なら瞬く間に辿り着ける。


「た、只今、戻りました……。母様?」


 普段と違い、ノックもなしに扉を開ける。途端、四つの瞳がこちらに向けられたが、肝心の相手からは目配せすらもらえなかった。


「おかえりん。走らなくても母は逃げないわよ」


 ベッドの上で上半身だけを起こしながら、まっすぐ前だけを見つめるやさしそうな女性。長い髪はウイルと同じ灰色。この時間帯にはまだ早い寝間着をまとい、顔色は普段よりも赤く見える。

 マチルダ・エヴィ。ウイルの母親だ。


「おかえり。その様子だと、サリィさんに聞いたのだな……。ライノル先生にも挨拶を」


 息子の帰宅により、この部屋は四人を収容する。

 その一人がエヴィ家の長、ハーロン・エヴィ。ウイルの父であり、厳格そうな見た目に反し、実は誰よりも息子を溺愛している。


「あ……、こ、こんにちは」

「お邪魔してるよ。さて……、うぅむ……」


 白衣の老人はライノル・ドクトゥル。イダンリネア王国における最高の名医であり、王族や貴族の専門医を務めている。

 唸る医者をよそに、ウイルは入り口に立ったまま、母親を見つめる。即座に普通ではないと察知出来てしまった。


(目が……、見えてない)


 そう思えてしまう根拠は、母がベッドの上から一向にこちらを見てくれないからだ。返事をしてくれたことから無視ではないとわかっている。まぶたは開いているのだが、正面をちからなく眺めており、息子はおろか他の二人にも視線を向けない。メイドから教わった通り、既に視力を失ってしまったからだ。


「とりあえずこっちに座りなさい」

「……はい」


 父の声に反応して、ウイルはすっと歩みを進める。

 ハーロンの隣にはもう一つ椅子が用意されており、息子の席はそこだ。

 普段とは異なり、空気が重苦しい。少年にとって、このような緊張感は息が苦しく、両親の寝室ゆえにそれほど足を踏み入れることはないが、それでも見慣れているこの部屋に違和感を覚えてしまう。

 ベッドは二つ。それらが並列に、そして隙間なく並んでいる。

 壁際の麦わら色をしたキャビネットや丸いテーブルは当然のように高価だが、先祖代々の代物ゆえ、年代物でもある。

 二つの窓には白いレースカーテンがかかっており、日光は差し込むものの、外の風景までは見えない。

 一瞬の沈黙。無人なのではと錯覚するほどの静けさは、家長によって破られる。


「私から、説明しよう。ライノル先生、誤りがありましたら……」

「わかっておる」


 二つのベッドの内、窓際に配置された方がマチルダ用だ。

 彼女から見て右手側にハーロンとウイルが、もう一つのベッドを挟んだ反対側に医者のライノルが座っている。

 父の隣で、少年は静かに耳を傾ける。今はそうするしかない。先ずは母の病状を把握することが最優先だ。


「今朝、おまえを見送った後だな……。庭に出ていたマチルダが戻ると、珍しく体調不良を訴えたんだ」

「寒気がしたのよね~。私、風邪なんてひいたことないからもうびっくりで」


 父の説明にウイルは小さく頷く。

母は正面を向いたまま、病人のはずだが口はテキパキと動いている。


「念のため、サリィさんにライノル先生を呼ぶようお願いしたんだが……、みるみる具合が悪化してな。触ると火傷しそうなほど熱くて心底驚かされた」

「寒いのに熱いのよ、不思議だわ~」


 ハーロンは続ける。感想なのか補足なのかわからない妻の発言は一先ず無視する。


「一時間後くらいだったか、ライノル先生が到着して診て頂いたが……、その直後くらいだったか」

「あぁ、わしも信じられなかった」

「急によ、ぱっと世界が真っ暗。何も見えなくなったの」


 父と名医は重苦しそうに話すが、母だけは普段通りの明るい口調だ。ウイルは息子として、反応に困る。当然、愛想笑いすら不可能な空気ゆえ、ひとまず沈黙を選ぶ。


「単なる風邪ではないのだろうと思ってはいたんだ。それにしては高熱だったからな……。医者でない私にも危機感を抱かせた。それほどまでに、マチルダの容態はおかしかった」

「あ、ゴホゴホとか言った方がいいのかしら? 体はすごくだるいのだけど、喉とかは何ともないのよね~」


 息子は瞳を閉じて話に集中する。


「診断の結果、思いがけぬ事実が告げられてな……。おまえも授業で習ったことがあるだろう」

「……え?」


 話が思わぬ方向へ進んだため、ウイルは驚きのあまり小さく声を漏らす。

 教科書に病名が書かれるほどの何か。

 命に係わる。

 二つの手がかりが提示されてもなお、正解は見えてこない。

 ハーロンは息子から名医へ、視線をずらす。ここからは専門家の出番だ。


「この病気に、名前はない。じゃが、アーカム学校に通っておるのならウイル君も歴史学で習ったはずじゃ」

「れき……し……?」


 この瞬間、少年は二つの意味でドキリとする。

 病気なのだから生物学ではないのか、と思えたこと。

 そして、歴史学ではクラスで最下位の成績だったため、そもそも自信がなかった。


「今から三百年前、とある流行り病が蔓延してな……。大勢が亡くなったんじゃ。さすがに死者の人数までは教科書に載っておらんじゃろうが」

「そ、それなら……、確かに習いました。確か、光流暦七百三年……」


 光流暦。イダンリネア王国にて採用されている暦法だ。現在は千と十一年であり、王国の建国を元年としている。

 母を挟んだ向こう側へ、ウイルは思い出すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。その母は大口を開けてあくびをしているが、当然のように無視する。


「よほど悲惨な被害だったのか、病状以外の情報は伏せられておっての。わしは医者だから多少なりとも知っておるが……。まぁ、本筋に戻そう。三百年前、多くの国民を殺した名もなき病は、三つのステップを踏んだ後……、百パーセントの確率で患者を死に至らしめる」

「そんな……」


 医者が口にした数字が、ウイルを激しく動揺させる。

 致死率が百パーセント。つまりは発症した場合、手の施しようがない。

 話の流れから、十二歳の子供であってもその病気と今の母に関連性を見出せてしまう。ゆえに、話の続きを聞きたくはない。決して良い情報など得られないのだから。


「先ず、患者は高温の発熱に苦しむ。次いで……」


 そして、またも空気が凍る。ここからが話の核心であり、国一の名医であっても、思わずためらってしまう。


「ふわ~、お話聞いてたら眠くなってきちゃった。三人に見られてると思うとちょっと恥ずかしいけど、横になるわね」

「あ、あぁ。ゆっくりお休み……」


 マチルダは澄ました顔でまたもあくびをする。そのまま、体をゆっくりと後ろへ倒し、何も見えていない両目をすっと閉じる。

 ハーロンは不思議そうに、そんな妻を見守る。先ほどまではかなり苦しそうに見えたため、ウイルが戻ってからの普段通りな言動に、症状が多少なりとも収まったのではと半信半疑ながら安堵する。

 だが、ウイルは見逃さない。

 明るく振る舞う母の寝顔に、大粒の汗が浮かんでいることを。

 何より、一瞬で眠りに落ちたことから、体力的にも無理をしていたのだ、と。

 演技だ。母は明るく振る舞うことで心配をかけまいとしていた。息子として、あっさりと見抜く。


「奥方の邪魔になっても悪いし、場所を移すかのう。いや、今は目を離すわけにもいかんか。ふむ……、このまま続けるとしよう。高熱に続いての症状なんじゃが、察しているように、両目とも視力を失うのじゃ」


 ライノルは椅子に浅く腰かけたまま、眠る患者に視線を向け、次いでその子供を見つめる。反応によってはここで話を切り上げるつもりだ。残酷な現実を突きつけるのだから、当事者であっても年齢を考慮すべきであり、医者として、ウイルの様子を見極める必要がある。


「……まだ次があるんですか? この病気には」


 ウイルは一旦目を伏せ、ゆっくりと正面へ向き直す。

 本当は受け入れたくはない。このような現実、嘘だと言い放ちたい。そうしない理由は頭が混乱していることもあるが、貴族の子供として辛抱強くありたいからだ。


「そうじゃ。詳細な進行具合まではわからんのじゃが……、次の段階として、肌の色が徐々に紫色へ変わっていく。ゆえに、わしら医者の間では、この病気を変色病と勝手に呼んでおる」

「へ、変色病……」

「当時の王がなぜこの病気を隠匿したかったのかはわからぬが、そのせいで情報が少なくてのう。肌の色が紫色に変わり切ってしまうと、患者は息を引き取る。そうなるまでの期間は、個人差はあったようじゃが……、おおよそ三か月」


 三か月。その単語にウイルはまたも激しい眩暈を覚える。

 と同時に、具体的な猶予を告げられたことで、母親の死を一層実感出来てしまった。その結果、自分が先ほどまで抱いていた思考がいかに間違っていたか、認識させられる。


(母様が……、あと三か月で死ぬ? なんで母様が? 死ぬのは僕だったはずなのに。母様が僕の代わりに? いや……、違う、違う違う! 全然違う! 母様は病気で……。僕とは関係ない。意味不明な理屈を捏造するな!)


 そう。ウイルが死を選んだことと、母の窮地に因果関係など存在しない。自分が死ぬか母が死ぬか、どちらかを選ばなければならないわけでもなく、言ってしまえば単なる偶然だ。

 一旦俯き、思考を加速させる。状況の整理が最優先だ。


(こんなにも……、胸が苦しいなんて! 家族の死が……、母様の死が! はぁ……! 心臓がうるさい。気持ち悪い。クラクラする! 僕はバカだ! こんな苦しを、悲しみを、父様と母様にさせちゃダメだ!)


 間違っていた。ウイルはついに気づく。

 いじめを苦に、死のうと思ってしまった。具体的な方法とタイミングを検討してしまった。

 間違っていた。そんな選択肢は絶対に選べない。母が死ぬという事実を突きつけられ、やっと正気を取り戻すことが出来た。

 母はまだ死んではない。猶予は短いが、それでも三か月先のことだ。

 にも関わらず、想像以上の苦痛だ。胸が張り裂けてしまいそうだ。

 もし、自分が死んでしまったらどうだ? 父と母はどれほど落ち込み、心にどんな傷を負ってしまう?

 それこそ想像出来ない。したくもない。

 ウイルはついに立ち直る。自分の力ではない。母のおかげだ。

愚かな自分とはこの瞬間、訣別する。少なくとも、いじめから逃げるための手段として、死という選択肢は除外する。


(三か月……、九十日……。症状の進行に個人差はある? 何にせよ、それくらいの時間はまだあるんだ。考えろ……、手立てを……)


 だが、ウイルはしょせん十二歳の子供だ。ましてや医者ですらない。母の難病についてどうこう出来るはずもない。


「残念ながら、この病気を治す薬はない。そもそも病気かどうかすら怪しい。ありえんのじゃ、色んなことが……。症状もそうじゃが、何より……」


 ライノルはそこで一旦区切り、わずかに残った白髪を右手でかきむしる。医者として、説明責任は果たさなければならない。使命感が再度口を開かせる。


「この病気は、女性にしかかからない。三百年前、この国の大勢の女性が息を引き取った。幼い子供、若いねーちゃん、ババアもじゃ。年齢は関係ない、性別だけが発症するか否かの判断材料じゃ。ありえん! なんなんじゃ、これは……」


 名医はふーと息を吐き、感情の昂りをコントロールする。


「そんな病気が、なぜ今になって?」

「……それも不明じゃ。流行り病なのじゃろうが、半日たっても発症したのはマチルダ殿だけ。どういうことか、皆目見当もつかん。医者として、己の無力さを呪うわい」


 ウイルの疑問はもっともだ。

 前回は三百年前。

 今回は今日。

 前回は多数の犠牲者。

 今回は母だけ。

 関連性が全く見いだせない。もちろん、マチルダ以外に発症している人物がいるのかもしれない。つまりは、まだ発熱すらしていないだけなのかもしれない。

 それでも現段階での患者は、母一人だけということになる。


(わからない……。そもそもなんで母様が? どうして? 母様が何をしたっていうんだ!)


 考えがまとまらないため、ウイルは頭を抱える。

 これが単なる風邪なら、不摂生や運悪く他人からうつされたと推測可能だ。しかし、この難病に関してはどちらも当てはまらないと思えてしまう。


「この三百年で、医学は進歩したと思います。ライノル先生やお孫さんの発明も素晴らしい。それに、東の大陸からは様々な薬も入ってくるようになりました。なんとか……なりませんか? 妻を救っては頂けませんか?」


 エヴィ家の長として、ハーロンだけは冷静だ。掘りの深い顔は真剣そのものであり、整えられた茶色の髪を見せるように、正面の医者へゆっくりと頭を下げる。


「うぅむ……。そうしたいのはやまやまなんじゃが……。とは言え、ハーロン殿の言うことも一理ある。諦めるには時期尚早じゃな。もう少しここで容態を見ておきたかったが、一度戻り、助手と手分けして調べなおしてみよう。この件については……、今は伏せておいた方がよいかもしれん。騒ぎになったら、それこそ奥方の体に障るかもしれん」

「わかりました。お願い致します」


 ライノルが立ち上がると、二人も即座に続き、一礼する。

 そもそもマチルダの病気が三百年前のものかどうかも、推測の域を出ない。症状からして間違いないのだが、そう言い切れる証拠もない。

 この場はこれでおひらきだ。最低限の状況把握は済んだのだから、男三人が患者を囲ったところで進展はない。

 エヴィ家にとって、現状は待ちだ。ライノルがこの病気について調べ上げ、現代の医学で突破口を見出すことを祈る他ない。

 実は、そう思っているのはハーロンだけだ。

 ウイルは全く別の思考で、今まさに動こうとしている。

 病気の正体はわからない。

 治し方などわかるはずもない。

 薬の類は見当もつかない。

 ならば、調べるだけだ。

 エヴィ家は三人家族だが、メイドが二人住み込みで働いている。つまりは、屋敷は五人を抱えている。それでもなお、空き部屋があるほどには大きく、実は地下室すら存在している。そこには、エヴィ家の長が代々集めてきた多数のコレクションがしまってあるのだが、金銀財宝の類以外にも、古い書物がずらっと並んでいる。

 ウイルはそこを目指す。

 勉強でわからないところがあれば、先生に教えてもらうか教科書を熟読する。

 今回の出来事に置き換えるなら、三百年前の流行り病について調べるためには、専門性の高い古書が役立つはずだ。

 助けたい。

 その一心が少年を突き動かす。

 少なくとも、自身は母のおかげで救われた。

 もし、彼女が病に倒れなかったら、ウイルは単身マリアーヌ高原へ出向き、魔物に殺されるつもりでいた。

 そう、命を絶つ方法すら既に決めており、後はタイミングを伺っていた。

 だが、考えを改める。

 家族の死がどれほど悲しいことか、知ることが出来た。正しくは、気づかされた。

 ならば、両親にそのような感情を抱かせてはならない。いじめからの逃避に死を選んではならない。

 その恩返しというわけではないのだが、ウイルは本気で母の病を治すつもりでいる。

 十二歳の小太りな子供に何が出来るのか? 己がどれほど無力かは百も承知だが、それでも諦めたくない。

 手がかりや方法さえ見つけられれば、後は大人が何とかしてくれる。他力本願かもしれないが、何もしないよりは有意義だ。

 空き部屋の一つ、今は使われていない物置のような空間へ、扉を開けて足を踏み入れる。

 窓すらないこの部屋には、メイドの仕事道具や庭の手入れに必要な小物が数多く置かれている。

 とは言え、それらは言わば予備であり、誰かが訪れることは滅多にない。ここは倉庫のような扱いだ。

 その一画、周囲に何も見当たらない壁には、出入り口とは別の扉が存在する。

 それは茶色というよりは赤色に近いため、周囲の壁とは馴染んでいない。必要以上に目を引く存在だ。

 ウイルは地下室へ何度も足を運んでいる。珍しい物品がいくつもあるのだから、子供にとっては退屈しない場所だ。

 古めかしい書物が多数あることも、そういった経験から把握済みだ。

 ゆえに、目指す。

 少しだけ重い扉を開き、用意していたランプで照らす。下り階段のその先は、完全なる暗闇だ。灯りなしでは到底進めない。

 ウイルはいつも不思議に思うのだが、赤い扉を超えると、空気の質が変わったと実感させられる。

 根拠はない。

 室温が上がったのか、下がったのか。

 気圧が上がったのか、下がったのか。

 誰かに見られているのか、そうではないのか。

 わからない。けれども階段を下りる度に、その直感は間違っていないと思えてしまう。

 まとわりつくような空気を押しのけて、下り階段を降り切ればあっという間に到着だ。

 埃まみれのここは、先ほどの部屋よりは幾分広い。

 臭いというよりも古い匂いが、少年の鼻をわずかに刺激する。

 地下倉庫に相応しく、大きな棚が四つ、並列にどかっと君臨している。そこには大小様々な骨董品が置かれており、それらのせいなのか、上階の物置とは雰囲気そのものが異なる。


(あっちだ)


 ランプは壁にも備え付けられている。触るとそれだけで輝きだす高級品だ。

 光源が追加されたことで、不自由なく歩けるようになった。ウイルは勢いそのままに、他には目もくれず奥の棚を目指す。

 無音の空間と少年の足音。それらは決して混ざることなく、どちらが勝るか競っているようにさえ思える。


(ここだ……。改めて見ると、すごく多い)


 最奥の棚を正面に捉え、ゆっくりと見上げる。

上段から下段まで、棚を占有するように敷き詰められている書物。背表紙をこちらに向け、誰かが手に取ってくれるのを今か今かと待っている。


(どれから……、う、どれも難しそう。順に……、順にやるしかない)


 少年の視界に収まらないほどの本達が、この場所には保管されている。一冊ずつ丁寧に読み漁る時間などなく、タイトルから取捨選択し、目を通すしかない。

 ウイルは眼前の、つまりは中段から一冊ずつ手に取る。

 題名は、人体の神秘。戦技と魔法と天技。

 人体という単語に引かれたが、ものの数分ではずれだと察し、パタンと閉じる。

 光の国、イダンリネア。

 建国時代の出来事が物語仕立てで記されている。当時の王や英雄がいかにして巨人族を打ち破り、勝利を収めたのか、非常に読み応えがあるものの、目的にはそぐわない。

 魔物と魔女。

 魔物に関する専門書だ。魔女がいかに魔物であるかも事細かに書かれている。それ以上でもそれ以下でもない。

 天才錬金術師アレーネ。

 新書だったが、錬金術という文字に期待して選ぶも、内容はここ十年前後の発明品ばかりだ。それらによって人々の生活水準は向上し、また、傭兵は仕事の一部を失うことになるのだが、ここを訪れた理由とは関係ないため、次の書物へ移る。

 病と医学研究。

 これにはウイルも期待するが、著者がライノル・ドクトゥル、つまりは先ほどの老人だったため、そっと棚に戻す。


「ふぅ……、違う、違う、違う!」


 地下室にこもって既に三十分が経過した。目を通せた書籍はまだ五冊。目当てのものは見つからず、逸る気持ちが少年をかき乱す。

 正面の棚には、本屋のように専門書が並べられている。焦る必要はないのだろうが、一方で九十日という猶予がどうしても頭の中でちらつく。

 母親の命がかかっているのだから、落ち着いていられるはずもない。

 普段は大人しいのだが、そしてそれがいじめを増長させたのだが、今は鼻息荒く興奮気味だ。

 再度息を吐き、作業を再開させる。立ち止まっている場合ではない。正常ではない頭でも、その程度のことはわかる。

 ひとまず、背表紙の書名をばっと眺めることからやり直す。

 新・地理学四版。

 始まりの半島。

 ヘムト採掘場の歴史。

 開拓・コンティティ大陸。

 開拓時代と傭兵。

 女神が作りしこの世界。

 女神信仰とその衰退。


(皆目……、検討がつかない……)


 どれも難解だ。日々、教科書に触れているとはいえ、大人向けの専門書は方向性が異なる。浅く広くではなく、議題一つで一冊が終わることさえある。子供にはハードルが高く、苦痛を感じても仕方ない。

 それでも続ける。そうする以外に活路を見いだせないからだ。

 勢いそのままに二百以上の題名を黙々と凝視したが、眼球以上に心と体が疲れてしまった。ウイルはズボンが汚れることを承知でその場に座り込み、新たに現れた下の段の本達を呆けるように見つめる。


(あれは……)


 その時だ。視界の左隅に、雪のように白い色が映り込む。

 純白のそれはもちろん本だ。ページ数がそこそこあるのか、いささか分厚い。しかし、目立つ理由は他にある。

 それ自身が発光しているかのように白色を主張している。何より、なぜか背表紙には文字が見当たらず、手に取ってみなければどんな本なのかすらわからない。

 不思議だ。そう思いながら、ウイルはそっと手を伸ばす。


(表紙すら何も書かれていない……。ノートかな?)


 背表紙だけではなく、表紙の表と裏も白紙だ。字はおろか模様すらも見当たらないこれは、無意味に分厚いもののノートやメモ帳なのだと推測出来る。

 ならば、誰かが何かしらを書き記しているはず。エヴィ家は代々学校に通っている。授業にノートは欠かせないのだから、その一冊が紛れ込んでいても不思議ではない。


(え……?)


 しかし、その予想は外れる。

 パラパラとめくるも、全てのページが表紙同様真っ白だ。純粋無垢のように汚れを知らず、埃を被っていなければ新品そのものだ。

 ウイルはガクッと肩を落とす。

 走り書きでもいいから、変色病についてのヒントがあるのでは? そんな都合の良い願望はまたも打ち砕かれる。

 それどころか全ページが白紙という事実が、少年の感情を逆なでる。


(……だったら、こんな場所にあるんじゃない! おちょくってるのか!)


 単なる八つ当たりだ。それでも振り上げた腕は降ろすしかなく、手に取ったこの本を床に叩きつけるしかない。

 だが、ウイルはギリギリのところで踏みとどまる。

 意味のない行為だ。

 何より、本を傷つけるという行為が、自身へのいじめを彷彿とさせる。

 ゆえに、寸でのところで腕を止めることに成功した。白紙の本はピタっと止まり、少年によって支えられながら空中で静止する。

 ゆっくりと、深く息を吐き、煮だった脳を冷ますことから始める。


(落ち着け……、落ち着け……。僕がここに来た理由……。病気の治し方を調べるため。母様を救うためだ。なら、父様のように毅然と振る舞え!)


 静まり返った暗闇の中、ウイルは己の弱さを嘆きつつ、貴族としての自分を鼓舞する。

 ここへ来た理由は明白だ。母の病気について、手がかりを探しに来た。ゆえに迷う必要はなく、踏みとどまるにはまだ早い。

 守りたい。

 ただただ単純な願望だ。

 死ぬことを選んだ自分が誰かを救うなど、滑稽なのかもしれない。そもそも不可能と思えてならない。

 それでも諦めない。楽観的だと笑われようとも、耐えてみせる。地獄のような日々をやり過ごせてきたのだから、もう少しくらいなら頑張れるはずだ。

 視界がゆらゆらとぼやけ、唇が小さく震え始める。

 こぼれる涙は偽物ではない。

 まだ十二歳の、何も知らない子供。それがウイル・エヴィだ。

 自分が弱いことなど嫌と言うほど知っている。

 背は低く、腹は出ている。

 苦手な科目はクラスで最下位だ。

 同級生にいじめられても、やり返すことはおろか言い返すことすら出来ない。

 臆病で、みじめで、情けない。そんなことは自覚出来ている。己の弱さに苛立つほどだ。

 それでも、母を助けたいという気持ちは本物のはずだ。

 どこか抜けていて、貴族でありながら料理が好きで、なぜか子供の居場所を常に把握している不思議な母。

 余命、三か月の母。

 救わなければならない。息子として、至極当然の結論だ。

 本に八つ当たりしかけた自分を笑いつつ、今は静かに泣き続ける。


(助けたいだけなんだ……)


 嘘偽りない本心だ。


(こんな僕でも、生きていて良いと思えたんだ)


 救われた命だ。


(もう少しがんばってみるから……)


 諦めたくない。


(誰か……)


 無力さを噛みしめながら、すがるしかない。


(助けて、ください)


 祈るように、願うことしかできない。

 初めからわかっていたことだ。王国一の名医でさえ、首を傾げる奇病だ。エヴィ家の地下倉庫にヒントや答えがあるはずもない。

 少年の手から、純白の本がこぼれ落ちる。何も書かれていないのだから、価値などないのかもしれない。

それでも大事に保管されていた理由はこの時のためだ。

 誰かを助けたいと願う心。

 誰かに助けられたいと願う心。

 両方に呼応して、今、深淵の眠りから彼女が覚醒する。


(めそめそしない! あんまり時間がないからテキパキ教えて!)

「う⁉」


 無人だと思っていたからこそ、ウイルはドキリと驚き跳ねる。

 誰かいる。

 そして話しかけられた。

 この事実が少年を混乱させ、変な声を出させる。


(あなたは誰? というか、今っていつなの?)

「な、なに……? 声が……、いや、違う。声じゃない?」


 左目の泣きぼくろごと、涙をごしごしをぬぐう。同時に立ち上がり、周囲をきょろきょろ見渡すが、人影の類は見当たらない。


(ここ、ここ)


 そう言われてもわからない。ウイルは自分一人の空間で、他人を探し続ける。薄暗いため視界は悪いが、少なくとも人間に関しては自分しかいないと断言可能だ。


(あー、声に方向性がないのね。足元足元。ほら、拾って)

(……え?)


 そのヒントには心当たりがある。女性の声に導かれ、少年はゆっくりと下を向く。まさか、と思いながらもそれはそこにあった。


(この……本?)


 床には一冊の本が転がっている。先ほど落とした古書。真っ白な本だ。


(そうそう。というかさっさと拾えー!)

「ご、ごめんなさい!」


 謎の声に委縮しながらも、ウイルはテキパキと拾い上げる。


(もう一度聞くけど、あなたは誰? 王様……じゃなくて王子? きっとそのはずなんだけど)


 その問いかけには即答出来ず、真っ白な表紙を眺めながら固まってしまう。

 貴族ではあるものの、王族とは程遠い。少なくとも血縁関係などなく、正真正銘赤の他人だ。


「い、いえ。エヴィ家の長男……です」

(エヴィ家? 知らないなぁ。王様の親戚?)


 女のひょうひょうとした言い回しに、ウイルはまたも面食らう。先ほどまで泣いていた手前、テンションはまだ非常に低い。急いで上昇させているものの、普段の定位置にすら届いてはいない。


「違います……。家系図を辿れば、もしかしたらずっと昔にそういうこともあったのかもしれませんが、少なくとも聞いたことはありません。というか、これに話しかければ……いいんですよね?」

(うん)


 少年はただただ戸惑う。拾った本に話しかけているのだから当然だ。そのうえ、会話が成立してしまう。意味がわからないが受け入れるしかなく、しかし、理解が追いつかないため、今は従うことに徹する。


「あなたは……、意思を持った魔道具なんですか?」

(あ~、それいいね! 採用! んで、今って光流暦何年?)


 魔道具。魔法や戦技のように、不思議な事象を発現出来る装置や道具を指す。火を使わないランプもこれに分類され、他にも多種多様な魔道具が日用品として普及している。


「えっと、千十一年……です」

(お~。寝た寝た~! まぁ、またすぐに寝落ちしちゃうんだけど。ところで、君って王族じゃないみたいだけど、コウリュウケンの所有者だったりするの?)

「こ、交流……券?」


 本の発言に対し、少年の理解が追いつかない。

 寝た、の真意がわからない上、新たに現れたコウリュウケンという単語についても聞き覚えがない。


(そそ。その反応からすると違うのか~。わかんないな~。君の心と……、君の何かに引っぱられて叩き起こされたのになぁ。あ、いや、違う違う。もっと……えぐいな。引きずり込まれた? う~ん、わからんちん!)

「す、すみません……」


 独り言のような言い回しが、ウイルを委縮させ、とりあえずの謝罪へ繋がる。

 母のことを強く願ったことは事実だ。それについては自覚がある。

 だが、それ以上のことは何もしていない。涙を流したことがそうなのか、ウイルには皆目検討もつかない。


(ま、いいや! 君の名前は?)

「あ、ウイル・エヴィです」

(ウイル君ね。私は~……、さっき何て言ったっけ? 石を盛った豆大福、だったかな?)


 両者がやっと自己紹介を終える。白い本の呼び方が、意思を持った魔道具から珍妙なものへ変わったが、余裕がないためウイルは訂正を求めない。


「あなたは……、何者なのでしょうか? まるで人間……、女の人……」


 その疑問はもっともだ。本に心が宿ったにしては、妙に生々しい。そもそもそんなことがありえるとは思えない。


(今はすっかり空っぽな、本のお姉さんってことで! よろしくぅ! あ、でも、一つだけ戻ってるんだよな~。何があったんだろう? まぁ、いいか! そういう意味でも、君の力にはなれるよ? やったね!)


 やったね、と言われたところで、ウイルは反応に困るだけだ。

 助けを求めたが、それに対してこの本が何をしてくれるのか、全く見えてこない。

 ゆえに尋ねる必要がある。

 だが、その前にこちらの事情を説明することから始める。現状、最も必要なことは相互理解だと、子供心にもわかっているからだ。


「母の……、病気を治してくれるんですか?」

(病気? 薬でも飲んだら?)


 この瞬間、ウイルは眼前の本を落としたくなったが、ぐっと堪え、説明の継続を選ぶ。


「原因すら解明されていない、三百年前の難病で……、その、薬もなくて……。お医者様に診てもらったんですが、治せない可能性が高いんです」


 風邪以上の発熱。

 失明。

 あげくには肌の色が徐々に紫色へ。

 最後には、死に至る。

 これを病気と呼んでよいのか、ウイルですら甚だ疑問だ。それでも治療方法を見つけるしかない。

 母を見捨てるなどという選択肢はありえず、諦めたら最後、少年の心も連鎖的に壊れてしまう恐れがある。


(ふ~ん。まぁ、あの子に聞けば何かわかるっしょー。あー、でも、まだ生きててくれてるのかな? 自信ないな……。さすがに無理か? むぅ……)


 鼻息荒い純白の本。

 一方、ウイルはそのテンションに同調できず、取り残されたように立ち尽くす。


「あの子って、誰ですか?」


 その疑問は当然だ。

 長寿の老人に教えを乞う。それ自体は理にかなっているが、どこの誰なのかわからなくては、賛同も拒否も出来ない。


(え、昔の知り合いだよ? この時代でも魔女って呼ばれてるのかな?)

「ええぇぇー!」


 提示された答えが、少年に叫び声をあげさせる。

 この返答はそれほどまでに奇抜だ。常識から外れすぎている。ゆえにウイルの反応は正常であり、純白の本が異常なだけだ。


(さあ、契約しよっか。お・ね・え・さ・ん・と。あ~、私ってそういう趣味もあったのか~。知らなかったな~。あの人はお髭の似合う紳士だったけど……、そっか~、一周回って下もありなのか~。もっと早く知りたかったな~。そうすれば……、うん……、何も変わらないな!)


 謎の本が騒げば騒ぐほど、彼は話についていけない。

 魔女を訪ね、相談に乗ってもらう。眼前の本は平然と言ってのけたが、そんなことは非現実的過ぎてありえない。

 相手は魔物だ。人間と同じ見た目であってもその事実は揺るがない。言葉が通じるとも思えず、会いに行ったら最後、殺されるに決まっている。

 そもそも何の力も持たない子供が、イダンリネア王国の領土から出ることは危険極まりない。

 目的地が仮に近いとしても、道中で魔物に殺されるだけだ。

 たどり着けるはずがない。この世界は決して甘くはなく、無力な者は確実に淘汰されてしまう。


「な、なに……を?」


 口ごもる。状況も方向性も見えないからだ。ウイル自身は頭の回転が速い方だが、状況把握に必要な情報が全くと言っていいほど欠けている。質問すら出来ないほどに、彼女の言い分が理解出来ない。


(私の願いはただ一つ、困っている人を助けたい。そして君は強く願った。お母さんを助けたい。まぁ、よくわからない力も作用したんだけど、それは置いとくとして……)

「大事な気もしますけど……、わかりました」

(私に出来ることは一つ。あ、いや、二つかな? 一つ目が、私の力を貸し与えること。具体的に言うとね、契約すると今ならもれなくコールオブフレイムがついてくる、みたいな? やったね!)

「ま、魔法……!」


 魔法自体は、そしてコールオブフレイムも珍しいものではない。軍人や傭兵なら、魔法や戦技といった能力を当たり前のように使える。ごくごく普通の庶民には不可能だが、それでも体を鍛えれば、一つくらいは習得可能だ。それが一か月なのか、一年なのか、期間は才能や訓練内容に左右されるが、その過程を飛び越えられるのだから、ウイルとしても喜ばずにはいられない。


(二つ目が、あの子との交渉材料かな。多分なんだけど、私を見せればきっと親身になって手伝ってくれる……と思う……。多分……)

「自分で言っておきながら、なんでそんなに自信ないんですか?」

(だって~、昔過ぎてさ~、生きてるかどうかもわからないし、もしかしたら私のこと、忘れてそうだし~)

「昔がどれくらい前なのかわかりませんけど、あなたとその……魔女は知り合いみたいですけど、どんないきさつが?」


 ありえない。頭ではそう理解しているものの、聞き返さずにはいられない。

 言葉を話す本。この時点で十分非現実的なのだが、魔女と交流があったという発言だけはどうしても聞き入れられない。


(ん~? 一緒に旅してたの。後からわかったんだけど、なんとその子! 老けないの! 羨ましいよね~。あ、私も同じようなもんか! がはは!)


 衝撃の事実が次から次へと押し寄せるせいで、ウイルの頭から煙が吹く。

 魔女とこの本が旅をしていた?

 その魔女は年をとらない?

 わからない。何一つ受け入れられない。


「魔女……、魔女は、人間の姿を模した魔物だと習いましたけど……、実際は違う?」

(魔物~? 何それ~? 誰が言い出し……、あ、もう時間切れみたい。急いで契約だけでも済ませちゃおう)


 突然の催促が、ウイルをまたも唖然とさせる。

 教えてもらわなければ納得できない。にも関わらず、時間切れを理由に打ち切られてしまった。

 聞きたいことは山ほどあるが、少年は即座に頭を働かせて、その中から二つに絞り込む。


「その前に教えてください。その……魔女はどこに?」

(知らな~い。こればっかりは自力で探し……、あ、いや、多分だけど、向こうから接触してきてくれるかもね)

「な……、一番大事なことじゃないですか……。うぅ、魔女を探すなんて誰にも頼めないし、どうしたら……。あ、そうなると……」


 自力で居場所を突き止め、会いに行くしかない。その方法までは皆目見当がつかないが、この本自体が手掛かりになりえる。ウイルは自分にそう言い聞かせ、一先ず納得する。


「も、もう一つだけ……。あなたの、本当のお名前を」

(え~、そんなこと~? 恥ずかしいから伏せてたのに~。まぁ、いいか。契約するんだし、君には教えてあげる。役目を果たした、私にふさわしい名前……。あの人が最後につけてくれた、思い出の名前……)


 契約開始だ。その名を口にした時、両者は深く結ばれる。

 ここから少年の新たな人生が始まる。この国の制度により、ここからは自らの足で探し、会いにいかねばならない。

 この本について知っている、長寿の魔女を。

 そのためには力が必要だ。領土の外は魔物が蔓延っている。それらが立ちふさがる以上、殺される前に殺すしかない。

 決断の時だ。ウイルは全てを受け入れ、その名を追従する。


(白紙大典)

「びゃくしたいてん」


 その瞬間、真っ赤な光が両者を激しく包み込む。

 燃えるような赤。

 情熱的な赤。

 ウイルは身を委ねながらも、湧き上がる新たな感覚に興奮を覚える。


「これは……」

(私の魔力。ううん、今からあなたの魔力。さぁ、もう眠りにつくから、最後にあなたの魔法を見せて)


 契約はなされた。ここからは自分で考え、歩き始めなければならない。

 やるべきことは山積みだ。それでも立ち止まることはせず、その一歩として、彼女に魔法を披露することから始める。


「色褪せぬ赤は、永久不変の心を顕す」


 白紙大典がぱらぱらと騒ぎ出す。最初で最後のプレゼントをきちんと受け取ってくれたのか、彼女としても確認したい。そうでなければ、安心して眠ることなどできない。


「守るために巡り、縛るために記されし言霊達……」


 手元の本を通して、赤色の気流が炎のように加速する。


「我らの旅路を指し示し、絢爛の花を咲かせたまえ」


 与えられた力で進んでみせる。今はそれ以外の方法が思いつかないのだから。


「在りし日の思い出と共に、色褪せぬ幻影を抱きし者よ」


 これは守るための力。


「揺蕩う理想郷で、色褪せぬ想いに寄り添う者よ」


 そして、倒すための力。


「祝福されし幼子達を、見守りたまえ。蔑みたまえ」


 白紙の本が、目当てのページにたどり着く。二人が行う、初めての共同作業だ。


「コールオブレイム!」


 詠唱の完了と同時に、両者を包む赤色の魔力は霧散し、入れ替わるように少年の右手が炎を掴む。

 成功だ。ウイルは生まれて初めて、魔法という神秘を発動させる。


(うん、オッケーオッケー。それじゃ~、がんばってね~。ハクアに、よろ……し……く)


 役目を終えたと言わんばかりに、彼女は本の中で眠りにつく。長き年月をえて覚醒するも、出会いを喜ぶ暇などなく、そもそも己の使命はあの時代にて達成済みだ。この助力も、余生の暇潰しなのかもしれない。


(ハクア……さん。魔女の名前かな?)


 ウイルはその名を記憶に刻みながら、コールオブフレイムを鎮火させつつ小さく息を吐く。


「ありがとう、ございます……」


 感謝しかない。母を救えるという確証はまだないが、可能性を高めることが出来たのだから、溢れ出る涙は止められない。

 暗闇の中で手にした希望。

 その名は、白紙大典。

 静まり返る地下倉庫で、ウイルは頬を濡らしながらそれを閉じる。


(こんな奇跡が……あるなんて……)


 あまりのうれしさに、空っぽの右手をぎゅっと握る。

 手がかり以上の収穫だ。この本は、想像以上のものを少年にもたらしてくれた。

 どこかの魔女が、奇病について何か知っているかもしれない。

 そして、白紙大典とのやり取りでは一切口にしなかったが、ウイルとしてはこちらの方が重要だ。

 この家を、エヴィ家を飛び出す正当な理由。それを、手にすることが出来た。

 後ろ向きな手段なのかもしれない。

 単なる逃避なのかもしれない。

 どちらであっても、少年にとっては必要な救いだ。

 母のおかげで生きることを諦めず、されど地獄のような日々には耐え続けなければならないと思っていた。諦めていた。

 しかし、それもおしまいだ。タイミングはまだ決めていないが、今までとは異なる生き方を選ぶ。

 母の病気について調べるため、魔女を探す。これほどまでに十分な言い逃れはないはずだ。

 魔女。イダンリネア王国において、この存在は禁忌とされている。その理由について説明できる者はいないが、魔物なのだからそうなのだろうと誰もが納得している。

 魔女を探す。こんなことは誰にも頼めない。例え、傭兵であってもだ。

 傭兵に仕事を依頼すること自体は簡単だ。彼らを束ねる組合に足を運び、受付で金銭ないし相応な物品を報酬として支払えば、後は傭兵達が代わりに達成してくれる。

 だが、魔女に関しては別だ。傭兵は何でも屋に近いが、例外はある。正しくは、その組合が依頼内容を精査し、受けるか否かを決定する。

 人殺しと魔女。この二つにだけは、どんな事情があろうとも組合が拒否する。

 ゆえに、魔女探しに関しても、傭兵のようなエキスパートを雇うことは出来ない。

 自力で解決せねばならず、ましてや白紙大典という手がかりも少年の手の内にある。

 学校を辞め、旅に出る。

 両親にいじめのことを隠しながら、納得してもらう。

 ウイルはずる賢く、そんな打算を閃いてみせる。

 母を救うためだ。

 そう自分に言い聞かせ、親にもそのように伝える。そうすることで本心を隠しながら、正当な理由でアーカム学校から、そしていじめから逃げることが出来る。

 もう嫌だ。

 無視されたくない。

 悪口を言われたくない。

 文房具や教科書を隠されたり、捨てられたくない。

 ならば、そこから逃げたとしても、誰かに咎められるはずなどない。

 ウイルは新たな一歩を踏み出す。この十二年間、歩んできた道とは明らかに別方向だ。それでも後悔はなく、大事な理由が二つもあるのだから、喜んで受け入れる。

 母を助けるため。

 自分も助けるため。

 少年はついに決断する。

 そのための力を手に入れた。さらには背中を押してもらえた。

 白紙大典。彼女がどこへ導いてくれるのか、今はまだ何もわからない。

線上のウルフィエナ ―プレリュード―

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